かつて西武百貨店、西友、パルコ、ファミリーマート、西洋フードシステムズ、吉野家、西洋環境開発、西武クレジット(後のクレディセゾン)、西武オールステート生命保険など小売りや外食、そして不動産、金融・保険まで幅広く事業を手掛け、堤清二が率いたセゾングループ。
グループのルーツは、堤清二の父親 康次郎が京浜百貨店系の「菊野デパート」を買収した武蔵野デパート(1949年に西武百貨店に改称)。武蔵野は康次郎が経営していた池袋~秩父間の武蔵野鉄道にちなんでおり、下駄ばきデパート、おんぼろ百貨店と言われていたが、清二が一流百貨店に育て上げた。ちなみに、西武とは西武蔵の意味であり、沿線の地域由来である。
その後、西友ストアーやパルコを立ち上げ、ファミリーレストラン「カーサ」の他、吉野家を傘下に収めて外食事業も拡大し、西武都市開発(後の西洋環境開発)、西武クレジット(旧・緑屋)と多角的事業を展開した。
当時、有力だった米国の小売企業のシアーズ・ローバックと提携し、販売やカタログ事業などのノウハウを学んで積極的に採り入れ、流通革新の一方の旗頭としても存在感があった。
ヘリコプター運航の朝日航洋、電炉鉄鋼事業の西武化学、その子会社の豆腐製造の朝日食品と、異色の企業も抱えていた。ちなみに、当時、鉄1トンより豆腐1トンの値段がはるかに高く、重厚長大の悩ましさがグループ内で話題となったことがある。
鉄道グループが本流で流通グループは傍流
当初は西武流通グループと名乗り、その後1985年に西武セゾングループとなり、そしてほどなく西武が取れてセゾングループとなった。セゾンとはフランス語で「四季」、何の変哲のない一般名詞だが、そこにはある事情がある。
西武にはもう一つ、清二の異父弟 義明が康次郎から引き継いだ西武鉄道やプリンスホテルなどの鉄道グループがある。いわばこちらが本流で、流通は傍流だったが、清二が一代で巨大な企業集団にし、ホテル事業にも進出、世界的なインターコンチネンタルホテルズグループを買収するなど、事業領域が重なる事態を招いた。
もともと、親密とはいえなかった兄弟の関係は疎遠となっていたが、これを契機に鉄道グループとは完全に袂を分かつことになり、グループ名から西武がなくなった。こぼれ話として、その結果、百貨店や西友などが行っていた西武ライオンズの優勝セールは、いくばくかの金額を払って行うことになり、名称も優勝祝賀セールに変えられた。
西武百貨店と西友にも微妙な確執があった
ともにグループの中核企業であった西武百貨店と西友にもグループ内で微妙な確執があった。西友は西武百貨店から多くの人材を送り込み、スーパーの勃興期に設立され、事業を拡大、百貨店をしのぐ規模にまでになった。母体は百貨店だったが、子供ではなく弟分、「兄、何するものぞ」という気概があり、百貨店は本家のプライドがあり、お互いに切磋琢磨し成長していった。
その過程でベンチマークしていたのが、三越とダイエー。1980年代後半、西友の広報室に在籍していたが、毎日、両社に関する分厚い記事のコピーが届けられたことを思い出す。
その過程で西武百貨店は、糸井重里のキャッチコピー「おいしい生活」など新しいイメージをアピールし、老舗の三越と対抗。西友も安売りのダイエーに対し、質販店路線を打ち出し、違いを際立たせた。
ちなみに、西友ストアーの社名の由来は1963年に設立され、西武から西を取り、友を組み合わせて社名にし、いっとき西興ストアーと名乗っていた時期もあり、深い意味はない。
堤清二はコンビニ事業に消極的だった
ファミリーマートは、西友のコンビニエンスストア事業として1973年にスタート、1981年には西友から分離された。社名は「お客様と加盟店、本部とが家族的なお付き合いをしながら、共に発展していきたい」という思いから名付けられた。
当初、堤清二は、家族経営の零細な商店を圧迫する恐れのあるコンビニ事業に消極的で、セブン‐イレブン・ジャパンなど同業他社に遅れて本格的に事業を展開した。学生時代、共産党の活動に携わったこともあり、儲かるなら何でも飛び付くがめつい商人になりきれない清二らしいエピソードだ。
同社は1998年に伊藤忠商事グループとなり、現在はユニーグループのサークルKサンクスの店舗が加わり、万年業界3位からローソンを抜いて首位のセブン‐イレブン・ジャパンに肉薄するまでになった。