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2010-10-12(火)

天才とは何か本気出して考えてみた。


 天才――それは光りかがやく言葉である。不運にも(?)生まれつき才能に恵まれなかったぼくなどは、非凡な才能を持った人間にあこがれずにはいられない。

 しかし、本当に天才に生まれてくることは運が良いことなのだろうか。そもそも天才とは、才能とは具体的にどういうものなのだろう。今回はいま連載中の漫画を題材にそこらへんのことを考えてみたい。

 まずはあいかわらず快調に飛ばしている『ベイビーステップ』の話から。「あむゆわ」というサイトでは、この作品を『テニスの王子様』と対比し、このように語っている。

ベイビーステップ(1) (講談社コミックス)

ベイビーステップ(1) (講談社コミックス)

 では、テニプリ嫌いの人々を惹き付けている『ベイビーステップ』の魅力とは何なのか? それは「夢がある」という点である。

(中略)

 これに対して『ベイビーステップ』は、「始めるのが遅くても、必死で練習すれば何とかなる」という「夢」を与えてくれる。無論、実際にはエーちゃんには「頭脳」と「目」という超人的能力が備わっているのだが、それ以上に彼の「努力」の側面が強調されることによって、「頑張れば強くなれる」という「希望」を読者に与えてくれるのである。おそらくそれが、「(夢も希望もない物語としての)テニプリが嫌いな人々」の心を掴む上での決定打になったのではないかと思う。

 つまり、リョーマが「超人的な技術を習得した派手な天才」であるのに対し、エーちゃんは「超人的な潜在能力を秘めた地味な天才」なのである。前者は「荒唐無稽な演出」で、後者は「荒唐無稽な展開」で、それぞれ読者を惹き付ける。それが両者の違いなのである。

 一読「なるほど」と思わせられる意見ではあるが、少々の異論もある。リョーマが天才であるのと同じくらい、エーちゃんも天才である。そのこと自体には同意するのだが、その「天才」という言葉の中身が少し違う。

 エーちゃんの天才とは「視力」とか「頭脳」の問題ではないと思うのだ。以下、そのことについて書いていこう。

 さて、ぼくたちが「天才」という言葉で思い浮かべる人物とは、誰だろう。もちろん、ひとによって答えは違うだろうが、それはたとえばアインシュタインであり、モーツァルトであり、そしてたぶんイチローや羽生善治であると思う。

 漫画でいえば、『SLAM DUNK』の桜木花道や流川楓あたりが一番に挙がるかもしれない。個人的には、天才を描く作家といえば、曽田正人の名前がすぐに思い浮かぶ。

Slam dunk―完全版 (#1) (ジャンプ・コミックスデラックス)

Slam dunk―完全版 (#1) (ジャンプ・コミックスデラックス)

 初期の『シャカリキ』から、最新作の『CAPETA』、『MOON』にいたるまで、かれは一貫して天才としかいいようがない人物を描くことに専心しているように見える。

capeta カペタ (1) (KCデラックス)

capeta カペタ (1) (KCデラックス)

Moon 1―昴〈スバル〉ソリチュードスタンディング (ビッグコミックス)

Moon 1―昴〈スバル〉ソリチュードスタンディング (ビッグコミックス)

 しかし、先に述べたように、「天才」とはそもそも何なのか、ということを考えていかなくては、天才を語ることはできないだろう。ひとつの答えはこうである。天才とは、常人には不可能な偉業を、楽々と達成できる能力を持つひとのことである、と。

 たとえば、桜木花道は作中、常人を遥かに凌ぐジャンプ力の持ち主として描かれている。かれはわずか四ヶ月のあいだに高校トップクラスのバスケットプレイヤーにまで成長してゆく。

 常識では考えられない、というよりあきらかに不可能なことを成し遂げる才能――桜木はあきらかに天才だろう。しかし、本当にそうだろうか。桜木はたしかに奇跡のような成長を遂げるが、決して「楽々と」成長しているわけではない。

 かれはバスケを始めた時期こそ遅かったものの、その四ヶ月間のあいだ、常人の何倍も努力しているのである。地味な基礎練習を始め、パスの練習、ランニングシュートの練習なども丹念に描かれている。その努力あってこそかれの才能は花開いたのだ。その意味で桜木は決して特別ではない。

 いや、とあなたはいうかもしれない。たしかに桜木は努力しているだろうが、凡人はいくら努力してもかれのようにはなれない。桜木はやはり別格である、と。

 それはそうだろう、とぼくも思う。ひとにはそれぞれ資質の違いというものがある。努力すれば必ず結果がついてくるというのは嘘だ。だが――それでもなお、ぼくは「だが」といいたい。だからようするに生まれつきの才能がすべてなのだ、とは決して思わないと。

 なぜなら、桜木の本当の才能とは、単なるジャンプ力などではないと思うからだ。桜木の才能、それは、いわば一瞬一瞬をひとより熱く生きられる能力なのだと思う。

 たとえば曽田正人の描くヒーローたちにしてもそうである。一例を挙げるなら『昴』。不世出の天才バレリーナ昴の人生を描いた作品だが、それでは、昴の天才とは何だろう。

 ひとより高く飛ぶジャンプ力か。最高のバレエをイメージする構想力か。たしかにそれらもあるだろう。しかし、それらはやはり本質ではない。ぼくは昴の天才もまた一瞬一瞬をひとより熱く生きられる能力だと思うのだ。

 正確には、ひとより熱い生き方を持続する能力、といえばいいのか。ただ一瞬なら、誰でも昴のように生きられるかもしれない。しかし、昴はそれを一生にわたって続けていくはずなのである。

 一般に「天才」という言葉から思い浮かぶイメージと裏腹に、昴は決して「楽」をしていない。むしろいつもいつも自分にできる限界まで体力も精神力も絞りとって行動してしまう。実はそれこそが昴の真の才能である。

 つまり、彼女はひとより高い質で努力しているのだ。それは単に「ひとより努力をしている」という言葉から思う浮かぶイメージとは違う。ここでは、努力の「量」だけではなく、「質」が問題なのだ。

 昴の努力はひとよりハイクオリティなのである。異常なまでにハイクオリティな努力を、信じられないほど長いスパンにわたって継続できるひと――それが、真の天才なのではないか、とぼくなどは思う。

 そう、つまりぼくはこういいたいのだ。天才とは、才能とは、世間で信じられているのとは逆――ひとより楽をして結果を得る能力のことではなく、結果にいたる過程においていかに楽をしないかという能力のことなのだ、と。

 もちろん、「ひとより少ない努力で結果にいたる」という側面においても、昴や桜木の才能は傑出している。かれらは特別努力しなくてもひとより上へ行けるし、ひとができないこともできる。

 しかし、かれらの戦場はそのような「才能」だけでは通用しない世界である。ある物事にかける異常な集中力があって始めてその「才能」は輝くのだと思う。

 曽田のあるインタビューを読んでみよう。

曽田●うちの担当さんと「気まぐれな天才というのは基本的にはあり得ないのではないか」という話になったんです。そういう人は才能があるように見えても、何かを完成させようという執着に欠けているのではないかと。どんな世界においても「絶対にやり遂げるぞ」とか「完成させるぞ」という執念を持っている人が、実は天才なんじゃないかな。

ーなるほど。

曽田●本物の天才というのは、たぶん、才能があると同時に、それを無駄にするのは罪悪だとわかっていると思う。だから必死で努力する。たとえばイチローや、F1レーサーのアイルトン・セナなんかは、自分の才能がいかに価値あるものかをわかっているから努力をやめない。そんな気がして仕方がないですね。

 ここで曽田は「執着」という言葉を用いているが、自分のブログでは「メンタル」という用語を使っている。が、いわんとするところは同じだろう。

この回の「capeta」を描いていてあらためて思ったんですがわたしが連載デビュー以来一貫して描いてきたのは(描きたかったのは)ド天才・・・というよりはメンタルの強い奴だったんだと。

とにかく投げない、仕事において何があっても「今回はもういいや」とは絶対に思わない奴。まあそういう執着心こそがまさに天性のものであり”努力”して後天的に身に付けることはほぼ不可能とも思われる、天才のもっとも天才たる所以なのかもしれませんが・・・・

そういう”強い奴”にどうしようもなく憧れと敬意を持っていて(今のF1で言えば間違いなくフェルナンド・アロンソですね・・・)自分もそんな漫画家になりたいとずっと考えてきたのでそれが作品に出てしまうのだと思いました・・・・・

 これらの文章を読んだうえにぼくなりの天才の定義をまとめるなら、あるものごとに対し、常時、どうしようもなく異常にハイコスト、ハイクオリティな努力をしてしまう人格、それが天才である、ということになる。

 かれらの「努力」は常人の考える「努力」とは何かが本質的に違っているのだと思う。かれらは一瞬一瞬を異常な集中力で生きている。麻雀漫画『天』で、「天才はさらりと生きていない」という言葉があったが、まさにそうである。

 平等に与えられた一瞬を、誰よりも濃密に生きることができる資質、それを天才と呼ぶのではないか。この意味で『おおきく振りかぶって』の主人公三橋などもやはり天才なのだと思う。

おおきく振りかぶって (1)

おおきく振りかぶって (1)

 かれはたしかにいまのところ天才と呼ぶべき結果をのこしてはいないが、その人格はまさに天才である。ただ、身体能力がその才能に付いていかないだけのことなのだ。

 『ベイビーステップ』に話を戻そう。もう、ぼくのいいたいことはわかってもらえると思う。エーちゃんは紛れもないテニスの天才である。しかし、それはかれの「眼」が特別だからそうだというのではない。エーちゃんのパーソナリティこそが天才的なのだ。

 エーちゃんがひとに倍する速度で結果を得られるのは、かれがひとの倍濃密に生きているからである。もちろん、漫画には違いないし、明確なかたちで結果が出るのはご都合主義ではあるかもしれない。

 ただ、ぼくは思う。たとえあのような結果にならなくても、エーちゃんは同じように努力しただろうと。結果のいかんにかかわらず最大限の努力をしてしまう、そうせずにいられないからこそ天才は天才なのである。

 その「執着」、その「メンタルの勁さ」に比べれば、ささやかな「動体視力」という天恵など、問題にもならない(そういえば最近、エーちゃんが眼がいいという描写、出てきませんね)。

 天才とは才能の問題ではない。人格の問題なのだということ。たとえ結果が出なくても、破滅しか待っていないとしても、信じられないほどのコストをその行為につぎ込んでしまう特異な人格。それは、必ずしも「偉人」とか「立派な性格」と呼べるものではない。

 むしろ常に破綻とすれすれのところにある危険なものである。じっさい、破綻し、破滅した天才はいくらでもいる。曽田が最大のヒーローとして挙げるアイルトン・セナを見よ。しかし、それでもなお、天才は最大のコストを注ぎ込まずにはいられない。

 それは「そうするべきだ」と思ってそうしているのではない。ただ、どうしようもなくそうしてしまうのである。凡人がそうしたい、そうしなければならないと思っても決してできない強度で人生を生きる性格。それが、それこそが天才。

 ぼくのような凡人は天才にあこがれながら、しばしばその結果だけを見る。が、本当にスペシャルなのはプロセスのほうなのだ。優雅に泳ぐ白鳥の湖面のしたの足掻き、それをこそ見るべきなのだろう。まあ、そうはいっても、なかなかそれができないからこそ、凡人なのだろうが。