日本による台湾統治時代に日本兵や軍属として、アジア・太平洋戦争に駆り出された「台湾籍元日本兵」4人を含む計25人が22日、慰霊と平和交流のため来沖した。90歳を超えた元日本兵らは激戦地に動員される一方、終戦後は財産が凍結され、経済的に追い詰められた。8万人以上の台湾籍元日本兵と12万人の軍属がいた記憶が薄れる中、元日本兵らは「国に翻弄(ほんろう)された私たちの存在を知ってほしい」と呼び掛けている。(特報・新崎哲史)

上海の陸軍病院で看護婦を務めた廖淑霞さん=那覇市おもろまち

インパール作戦から生還した趙中秋さん=那覇市おもろまち

上海の陸軍病院で看護婦を務めた廖淑霞さん=那覇市おもろまち

インパール作戦から生還した趙中秋さん=那覇市おもろまち

インパール作戦から生還した趙中秋さん=那覇市おもろまち 上海の陸軍病院で看護婦を務めた廖淑霞さん=那覇市おもろまち

 趙中秋さん(94)は1943年に志願し、ビルマ(現ミャンマー)方面軍に軍属として採用。「最も無謀な作戦」と呼ばれるインパール作戦に偵察部隊として従軍した。大河やジャングルが広がる地域の行軍に、司令部は補給線を軽視。約9万人を派兵したのに、1人もインパールにたどり着けないまま、飢えや病気などで3万人が死亡した。

 趙さんも飢えに苦しみ、森の中でヘビや虫を捕って食べた。病で歩けなくなった同僚は三八式銃の銃口をくわえ、足の指で引き金を引いて自殺した。

 捕虜となり、台湾に戻ったが日本からの戦後補償もなく、多くの元日本兵が苦労する姿を見てきた。

 「『日本のため』と尽くしてきたが戦後は放置された。インパールから生還した台湾人は今、20人弱ほど。私たちのことを忘れないでほしい」

 廖淑霞さん(90)は上海の女子商業高校を卒業後、陸軍病院の従軍看護婦に採用された。南洋戦線で栄養失調から肺病を患った兵士の看護にあたった。

 終戦後、台湾に戻ったが国民党政権が台頭。日本軍の協力者は迫害されると聞き、経験を隠して生きた。「誰にも頼れない。台湾も米軍に統治された沖縄も、アジアの孤児のようだ」

 戦中の貯金は凍結されていたが、日本政府は90年代、物価変動に合わせた額の支払いを決定。しかし、2千円の貯金額は約20万円にしかならなかった。

 一方、台湾など旧植民地の未払い貯金額は現在も40億円ほどあるといわれる。廖さんは「証明書がなかったり、高齢で引き出せないお金も多い。それを資金に、平和の礎のような慰霊碑を台湾に造り、私たちの記録を残してほしい」と訴えている。