暖かい日差しが差し込む窓辺でキラキラと空に舞う塵が輝く。
それを見てンフィーレア・バレアレはぼんやりと、掃除をしなきゃなと思った。
妻のエンリからも、研究が進まないなら一旦机の上だけでも片付けたら?と提案されている。その提案は嫌味でもなんでもなく、ありとあらゆる研究材料や道具がとっ散らかりごちゃごちゃになった机上への素直な提案だろう。
それに何よりも実際、滞っているのだ。いや、正確には赤いポーションの完成を目指す研究はずっと停滞しっぱなしだ。
最終目標は『与えられる素材を使用せず、この土地にある材料のみで赤いポーションを作成すること』。それなのに『赤いポーションを作り出す』という第一段階から躓いてしまっている。しかし悔しさはあっても、不愉快だったり辛かったりなどは一切ない。むしろ伝説やお伽話の存在でしかなかった赤いポーションを知り、そこに到達するまでの道を歩めることには喜びを感じる。
「…うん、よし。ひとまず、机の上だけでも片付けるかな」
つい先程まで、ンフィーレアはぐったりと横たわっていた。
ポーション作成途中でいい調合反応が出た喜びのあまり、祖母と共に2日程寝食を忘れ研究にのめり込んでしまったためだ。しかも結果は、ポーションは赤くならず、無理をした2人共に散らかった研究所内でぶっ倒れることになっただけ。
「エンリ、怒ってたなぁ。…うん、反省しなきゃな。ネムにも減点って言われたし、おばあちゃんにも無理なんかさせて…うう、冷静に考えたら僕って…」
机の上に放ったらかしていた小鍋の中にこびりついた黒く焦げついた物質が、ため息を再度誘う。
ふと、ンフィーレアの視界に突然真っ黒な楕円の歪みが現れた。瞬きの合間に現れたそれは、錯覚ではないと証明するように、その中から死の支配者を導き、そして何事も無かったかのように消えていった。
アインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下の、その立場に相応しくない質素な君臨であった。
「…、なっ!?えっ、え?!」
素材の良質さが視界から伝わってくるような滑らかに輝く漆黒のローブ、そのフードを被る骸骨は、死神にしか見えない。しかしその死神は、ンフィーレアに対しとても気さくに話しかけてきた。
「やぁ、ンフィーレア・バレアレ。急ですまないが、少し匿ってくれ」
「はいっ!!?!ななな、何かき、きっ、緊急事態ですか!?」
「ん?あぁ、違う、違う。少し、くたびれただけだ」
「は、はあ…、く、くたびれ…た…?」
戸惑うンフィーレアをよそにアインズは適当に椅子に座ると、確かに、仕事に疲れた人間のようにぐったりと深く椅子に腰掛けた。
「……静かだな」
「あ、はい。エンリとネムと、おばあちゃ…、リィジーは、今は出ています。村と畑を一回りしてから、森にも行くと言ってたから帰りは遅くなると思います。…呼んできてもらいますか?」
「いや、用があった訳ではないから不要だ。…私も帰るかな。咄嗟に来てしまったが、軽率だった」
疲れてるのかな…アンデッドなのに…、小さい呟きだが穏やかな日の室内では、特別耳が良い訳ではないンフィーレアにもよく聞こえた。
「あの…、」
「ん?なんだ?」
言わなくても良いことを言おうとしてる。しかもンフィーレア自身の生死どころか、大勢の人命とその人生を握る死の支配者に対して。それは理性が警鐘を叩き鳴らすのに充分すぎる事案だ。しかし同時に、愚かな好奇心と間抜けな良心が背を押している。
最後には、これを言えるのはきっと自分だけだという理由が行動を後押ししてきた。
「少し、休んでいきませんか?ほら、僕には、“陛下”をしなくても構わないじゃないですか」
あ、これ、次の瞬間に首と胴が離れても可笑しくない発言だ。ンフィーレアはドバっと嫌な汗をかく。徹夜による脳へのダメージは、休息と、エンリのくれた説教と料理で回復しきったと思っていたが、どうやら気のせいだったらしい。
わざわざ本当の本当に触れなくて良いどころか触れない方が良い“陛下の秘密”を、話題に出すなんて。
「あ、いや、今のは、えっと、変な意味とかじゃ…!」
脳内で、ネムの減点が追加されたのと同時に、目の前から笑い声が起こる。
「は、ハハ、アハハっ!そうだな、君の言う通りだ。…いや、まったく、思いがけないところで大胆な性格だな、相変わらず」
笑いだした魔導王陛下には驚いたが、ひとまず、首と胴は繋がったようでンフィーレアは安堵する。
「…では、お言葉に甘えようか」
そう言って椅子に座り直したアインズは、骸骨の顔ではあるが、初めに現れた時に比べ幾分か機嫌が良さそうにンフィーレアには思えた。
「えっと、お茶でも…って、飲めないですよね」
「ああ、ダダ漏れだ」
見てみたい、ひょっこり現れた好奇心をンフィーレアは慌てて脳内でビンタする。
「…あの、何も感覚は無いんですか?」
しかし結局、好奇心と理性の折衷案がその口からは零れ出てきた。
「いや、0ではない。手足は、薄布を間に挟んだようだが、それでも感触はある。味覚は駄目だな。食べられないし味も分からない。嗅覚はあるせいで、味覚が無いのが少し辛くも感じるな…」
「匂いが分かる…、それなら。少し待っててください」
何か閃いたらしいンフィーレアが台所を目指し走り去るのを、アインズは見送る。
暫く待ち、聞こえる音や漂ってきた香りでンフィーレアが何を用意しようとしているのかアインズにも分かった。
「…良い香りだな」
「お待たせしました、ハーブティーです。香りが良いから、これなら楽しめるかと思って」
にこにこと笑って、ナザリックの者達が見たら顔を顰めそうな少し縁が欠けているマグカップをンフィーレアはアインズに差し出す。
「頂こう。…ンフィーレア君は茶葉に興味があるのか?」
「いえ、そんな高級な趣味じゃなくて商売の一端です。薬にもなるし、お香やお茶にして精神を安らげる効果もあるから、村の人達に作ってあげてるんです」
「そうか…」
取引先の社長がわざわざ応接室に用意してくれたジャスミンティーのことを、アインズは、いや鈴木悟は思い出していた。ただしその思い出は、後からその社長が持たざる者に財を見せつけるのが大好きであるという事実で残念なものにされた、しょっぱい思い出だ。
「…味は分からなくとも香りは楽しめる、か…。癒やされるな。何とも言えない思い出も上書きされそうだ」
「気に入ってくれたみたいで良かったです」
「…うん、良いな」
緊張を滲ませつつ嬉しそうに笑うンフィーレアの様子を、アインズは眺める。
(金持ちがわざわざペットを買う理由がいまいち分からなかったけど、今なら分かるなぁ。汚い人間の本性をたくさん見た後に、こういう純粋な生物を見ると癒やされるもんなんだな…)
しみじみと何かを考えている様子のアインズが、自身と愛玩動物を重ねているなど思いもつかないンフィーレアは、自分から口火を切ったのにまだ緊張している様子だ。
(…、本当はどんな相手でも警戒すべきなんだろうけど…)
アインズはンフィーレアを観察し続け、必要ないだろうと結論づけた。
立場と力の弱さがあるとはいえ、ンフィーレアはアインズの重要な秘密を握る人物だ。しかし、それを利用しようとする様子など今までに全く見せていない。
さらに今に至っては、アインズのことを気遣う優しさまで見せてきている。それが何かの策謀ではないことは、先ほどから見せる愉快な百面相が証明していた。
(本当に純粋な生物だ。ネムといい、環境が良いのか随分と可愛らしい人間が多いな、カルネ村は)
キラキラした崇拝と敬愛と感謝を“アインズ・ウール・ゴウン”に対してひたすらに向けてくる村人達を思い出し、アインズはぽつりと呟く。
「ペットをたくさん飼うのも悪くないかもしれないなぁ」
「ペットですか?…僕には想像もつかないような、すごいペットを飼いそうですね」
魔導王陛下に相応しいペットを考え始めたンフィーレアに、アインズはマグカップを差し出す。きょとんとしながらも、ンフィーレアは素直に少し温くなったマグカップを受け取った。
「ンフィーレア君、勿体無いから君が飲んでくれないか?」
「あっ、そうですね。いただきます」
「味も教えてくれ」
「ええ!で、できるかな…」
戸惑いながらも程よい温度に冷めていたハーブティーを、ンフィーレアはこくりと飲む。1口、2口と飲み進め、意を決して口を開くと必死に自分が知る味や表現方法でハーブティーの味を伝え始めた。
「えっと、風味が変わっていて、苦みもあるけど、少し甘いような…。あっ、薬草で似たようなのが…って、ああ、まずそれを知らないじゃないか!」
説明がうまくいかず、自分に対してツッコミまで始めたンフィーレアにアインズは微笑する。
きっと、多くの人達がただの恐ろしい骸骨だと言うに違いないその顔に、感情の機微を感じたンフィーレアは、ぽろりと尋ねてしまう。
「何かを食べたり飲んだり、味わったことはあるのですか?」
それはンフィーレアがずっと、心の奥底で微かに気になっていたことだ。
「…なぜ、そう思う?」
品定めするように、頬杖をつきアインズはンフィーレアを見遣る。ンフィーレアは、ごくりと緊張から唾を飲み込みつつも、目を逸らさない。
「食べたことがなければ、食べられないことを残念に思わないんじゃないかな、と…」
正確にはそれだけではない。
全てを知り、振り返った時に抱いた疑問が、とある可能性を示唆したからだ。
“骸骨のアインズ・ウール・ゴウンは元人間であり、才能があった結果、死の支配者にまで上り詰めた存在である”という可能性だ。
アインズではなく冒険者モモンとして会った時、ンフィーレアは違和感など全く抱かなかった。圧倒的に強くとも、人間ではないかもしれないなど全く頭に浮かばなかったのだ。そしてその時の冒険者モモンの全て、――野営準備に対する協力姿勢、少し気まずくなってしまった時の歩み寄り方、ふと激情を漏れさせた瞬間――その全てが、人間のふりと思うにはあまりに生々しすぎた。
「…僕の話を、しても良いですか?」
「ん?なんだ、突然」
「僕の、“タレント”の話です」
「それなら知っている。“全てのマジックアイテムが使用可能”、という能力だろう」
「そうです。僕は、その“タレント”があるから、小さい頃は大人達に随分と勝手なことを言われました。冒険者になれば良いとか、帝国に売り込むべきだとか…」
素晴らしい“タレント”を持って生まれたのだから、その“タレント”に相応しい道を歩むべきだ。正論かもしれないが、ンフィーレア自身は無視したような意見を、大人達は喚き散らしていたのをンフィーレアは覚えている。
「おばあちゃんだけが僕に“タレント”なんて関係なく好きにしろって言ってくれました。でも、今だから分かることもあるんです」
ンフィーレアがぎゅっとマグカップを握る。
「例えば、“どんな実験も成功させるタレント”持ちの人が目の前にいたら…、僕は、その人がパン屋や靴屋になるのは、許せないと思うんです」
ンフィーレアが何を伝えたいのか、アインズにも薄っすらと伝わってきた。
「そんな力を持ってしまったら、周りが望む通りにしか、」
「それは半分当たりで半分外れだ」
言葉を遮られ、そして自身が無意識に俯いていたことに気付いたンフィーレアは慌てて顔を上げる。
「確かに、私自身は王位も何も求めていない。私より、私の周りが強く望んでいるだろう」
言葉を区切る。ンフィーレアはアインズの言葉の続きを待った。そしてアインズは、悩む様子もなくきっぱりと断言したのだ。
「だが私も、私の目的、私の何よりも大事な愛しい存在のためならば、王位だろうが何だろうが、全てを…、そう、全てを強く求めているんだ。それは事実だ」
有り余る力、到達してしまった頂。しかし、そこに腰掛ける理由は周りの願望や欲だけではない。アインズは、アインズ自身の願望のためにも玉座に君臨している。それは発する声の強さから偽りでないとンフィーレアにも伝わった。
「どうやら余計な心配をしてしまったみたいですね」
「いや、君の純真さは良かったぞ」
アインズは立ち上がり、満足そうに頷く。
「それに勉強、意識改革にもなったな。匂いを味わえるのだから、香も茶も、楽しめる。食べられないことばかりに固執してないで、嗅覚で楽しむことを覚えるとしよう」
余計なことばかりしてしまったかと落ち込んでいたンフィーレアは、アインズの言葉に顔を明るくする。
魔導王陛下として機嫌が良くなったのも嬉しいが、一度だけとはいえ共に旅した冒険者としても、自分の妻を救ってくれた恩人としても、彼が幸せそうにしてくれるのは嬉しいことだ。
「今まで香りを楽しんだこともあるのにな、ベッドの香水やアルベドの…、…ん?何か…、点と点が繋がりかけたような…」
首を傾げるアインズにつられ、ンフィーレアも首を傾げる。さらに急にアインズは空中を見上げ、その細く尖る指先を頭蓋骨に当てた。
「……………無事だから落ち着いてくれ。全軍を動かす必要もない。…いや、本当に無事だから…。あぁ、あぁ、悪かった。いや今回は私が気紛れに動いたせいだ。誰も責めるな」
《伝言》で会話しているのだと気付いたンフィーレアは、邪魔しないように口を閉ざす。アインズの雰囲気と発言からどうやら王城は大騒ぎになっている様子だが、陛下が居なくなっていると気付いたのだから仕方ないだろう。
「邪魔したな、ンフィーレア君。私は帰るとするよ。あぁそうだ、最後に少しだけ、くれないか?」
「はい、どうぞ」
もうすっかり冷めてしまい微かに熱があるだけのマグカップをンフィーレアは渡す。受け取ったアインズは、その空洞の骸骨の鼻で香りを楽しみ、再度ンフィーレアにマグカップを返した。
「ふっ、この言葉を言うことになるとはな」
愉快そうに笑い、ただ一言、ごちそうさま、と言い残してアインズは闇の中に消えていった。
今度は玄関から足音が聞こえてくる。
「ンフィー!起きてるー?」
愛しい妻が小走りでやって来て、その太陽のような笑顔をひょっこり覗かせる。
「ちゃんと起きてるよ、エンリ。…今回はごめん。もう無茶なことはしない、倒れたりなんかしないよ」
「へぇ~、反省してくれたんだ?」
「うん、反省した」
満足したようで、エンリはにっかり歯を見せる。そして働き者の彼女は、再度忙しなく体勢を変えどこかへ向かおうとする。
「エンリ!ぼ、僕は、君のためなら何でもできるよ…!」
ぱちくりと瞬き、足を止め、何事なのかとエンリは夫を見詰めた。
「…何かあったの?」
「何も、無いよ」
「…私、そんなに怒った顔してたかな?」
「本当にそういう訳じゃないよ。なんとなく、言いたくなっただけ」
「そう?」
2人で顔を覗き込み合い、くすりと笑う。エンリがンフィーレアの手の中にある物に気付き、香りを嗅いだ。
『だが私も、私の目的、私の何よりも大事な愛しい存在のためならば、王位だろうが何だろうが、全てを…、そう、全てを強く求めているんだ。それは事実だ』
愛しい存在のためならば、その単純明快な理由はンフィーレアにも痛いほど分かる。しかし、朽ちず、果てず、終わらないはずの、あの死の支配者は、いつまで、一体いつまでその激情を抱えてゆくのだろう。
「いい香り。だけど冷めちゃってるね、ンフィー」
愛しい妻の指摘する通り、そこに熱は無かった。あるのは冷めきった液体と、微かにまだ主張する香りだけ。
ンフィーレアは、それを一気に飲み込んだ。
それがどんな味なのか、ンフィーレアにはやはり説明ができなかった。