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若葉ちゃんの机に落書きがされているのを、鏑木が発見したらしい。
普段はあまり早く登校しない鏑木が、たまたま早く登校して円城の教室を覗いた時に、机を拭いている若葉ちゃんに気づき、机に書かれている「ブス!」「消えろ!」といった悪口を見つけたそうだ。
「誰だ!こんなことをしたヤツは!」
鏑木の激昂する声は、廊下にまで響き渡った。
「言え!誰がこれを書いた!」
私も騒ぎを聞きつけて一緒にいた友達と、教室まで見に行った。
「なにごとなの?」
「それが…」
そして私も鏑木の怒りの理由を知った。鏑木は目をギラギラさせて周囲を睨みつけている。その射殺すような視線に、私達は縮み上がった。
「答えろ。これを書いたヤツは誰だ」
瑞鸞の皇帝が本気で怒っている。怖い。野次馬根性で見に来た生徒達も、鏑木の剣幕に恐れをなして動けなくなっていた。
若葉ちゃんは雑巾を片手におろおろしつつ、「鏑木様、あの落ち着いてください…」と遠慮がちに声を掛けた。
「これが落ち着いていられるか!」
鏑木を止めようとしたら、反対に若葉ちゃんが鏑木に怒鳴られた。
「ふざけんな!お前、こんなことされて悔しくないのかよ!こんな嫌がらせ!」
「いやぁ、まぁ…」
「…まさか、これが初めてじゃないのか?」
机の落書きやロッカーや靴箱へのいたずらはともかく、基本的に若葉ちゃんへの嫌がらせは男子に気づかれないようにやっていたから、鏑木は具体的に若葉ちゃんがどれほどの目に合っているか知らなかったらしい。まぁ現時点でも詳細はわかっていないだろうけど。ほとんどが鏑木達のいない場所で言いがかりをつけたり、本人に聞こえるように中傷したりするたぐいだし。そしてそれは女子だけではなく、男子の中にも若葉ちゃんの成績を妬んで悪口を言っている連中がいた。
「え…っと」
目を泳がせた若葉ちゃんの反応に、鏑木の目がさらに吊り上がった。
「誰だ!」
鏑木がここまで感情を顕わにするのを目にするのは珍しい。鏑木は近くにいる生徒を片っ端から問い詰めて行く。ほとんどの生徒は「知らない」と答えたが、なかには「今日のは知らない」とポロっと言う人もいて、鏑木の追求はさらに厳しくなった。
結果、過去に蔓花さん達のグループや、ほかの女子グループが何人かで若葉ちゃんの机にいたずらしているのを見たことがある人も出てきて、蔓花さん達を青ざめさせた。
「お前らか…」
鏑木は全身から黒い気を溢れさせた。
「わ、私達じゃありません!今日だってさっき登校したばかりですもの!」
「私達だって違います!」
鏑木の視線に怯えながらも、彼女達は必死に弁明した。
「でも前にやったことはあるんだろう?」
「それは…」
「ねぇ…?」
「だったら今日のも誰かに指示してやらせたんじゃないのか?」
「そんなこと!だいたい高道さんは学院中から嫌われているから、私達だと決めつけるのはおかしいですわ!」
「なんだと!」
そこに円城が登校してきた。円城は親友を中心とした自分のクラスの騒ぎに少し驚いた顔をした。
「おはよう、雅哉。どうしたの?」
「どうしたもこうしたもあるか!高道がこんなろくでもない嫌がらせをされていたんだよ!」
鏑木は若葉ちゃんの机を指差した。机には半分消えかかったマジックの跡。今までは鉛筆で書かれていたそうだから、目立たなかったんだろうなぁ。
「あ~、そういうことか」
円城は納得したように頷いた。同じクラスの円城は、若葉ちゃんの置かれている状況を、鏑木よりは把握していたらしい。
「とにかく、高道の机に悪口を書いたヤツを見つけ出す」
「それは雅哉の仕事じゃなくて、生徒会長の仕事じゃない?」
円城に同志当て馬の名前を出されて、鏑木は眉を顰めた。
「…肝心な時にこの場にいないヤツになにが出来る」
「あの…、会長の水崎君は来月の卒業式の打ち合わせで先生の元に行っているので…」
若葉ちゃんと一緒に生徒会の役員をやっている女子が、同志当て馬を庇う発言をした。そしてそれを鏑木は鼻で笑って一蹴した。
「高道、これをやった人間に心当たりは?」
「えっ、さぁ…?」
心当たりはありすぎて絞り込めないんじゃないかな。鏑木は犯人捜しを再開した。円城は特に鏑木に協力するわけでもなく、かたわらで静観している。
当事者の若葉ちゃんはすっかりおいてけぼりで、途方に暮れた顔をしていた。このまま放っておくわけにもいかないなぁ…。
「とにかく、もうすぐ始業時間ですから、先に高道さんの机をきれいにしてしまいましょう」
渦中に入るのは嫌だったけど、私は若葉ちゃんに向けてそっと声を掛けた。若葉ちゃんはハッと気が付き、「そうですね」と手に持っていた雑巾でゴシゴシ拭き始めた。生徒会の女子も雑巾を持ってきてそれを手伝った。水性マジックだったのか、どんどん薄く汚れが落ちていった。よかったぁ、油性じゃなくて。
次々に登校してくる生徒達が見に集まってくるので、教室と廊下はすっかり黒山の人だかりだ。
「この騒ぎはいったい何事なの?」
その鋭い声に、ザッと人垣が割れて、今度は2年生の教室に3年生である瑤子様とその取り巻き達が現れた。げえっ!一番来てほしくない人がやってきた…。
瑤子様は教室を見回した。
「登校してみれば、朝からこの騒ぎ。誰か説明なさって」
前ピヴォワーヌ会長のお出ましに、さっきまで騒がしかった教室がシンとなった。
ひとりの生徒が瑤子様に耳打ちをすると、瑤子様は大きなため息をついて、若葉ちゃんを冷たく見つめた。
「また貴女なの、高道さん」
若葉ちゃんは「すみません…」と小さく謝った。
「何度騒ぎを起こせば気が済むのかしら?」
「そういう言い方はないんじゃありませんか。彼女は被害者です」
鏑木が若葉ちゃんを背に庇うようにして、瑤子様と対峙した。
「確かに被害者かもしれません。でも高道さんの生活態度にも問題があるんじゃないかしら?貴女の問題行動は、私もよく耳にしていてよ」
瑤子様は若葉ちゃんをここぞとばかりに非難した。
「高道の問題行動とはなんですか」
「瑞鸞の生徒にふさわしくない振る舞いのことですわ」
「ふさわしくない…?」
「ええ、そうですわ。ねぇ、高道さん。貴女もしかして、こうやって鏑木様達に庇ってもらうために、ご自分でその机に落書きしたのではなくて?」
ええっ!そこまで言う?!
鏑木の顔色がはっきりと変わった。
「沖島先輩、それはあまりに酷い言い草じゃないですか?高道に謝ってください」
鏑木は瑤子様を睨み据えた。
うわわわわ、鏑木ってば先輩である瑤子様になんて態度を!
瑤子様は、鏑木が若葉ちゃんへの謝罪を求めたことにムッとした顔をした。
「ありえない話ではないでしょう?なんといっても高道さんは、私達では想像もつかないことばかりをしでかすんですから」
「沖島先輩!それ以上言うなら…」
売り言葉に買い言葉。握りしめた鏑木の拳が、怒りに震えている。これはまずい…。
一触即発のふたりの空気を、円城が破った。
「沖島先輩、雅哉は卑劣な行為が昔から嫌いなので、頭に血が上ってしまったようです。ここは僕の顔を立てて収めてもらえませんか?」
円城は鏑木と瑤子様の間に体を入れ、人当りのいい笑みを見せてお願いした。それを見て、瑤子様の態度が軟化した。
「…円城様がそうおっしゃるのなら、しかたありませんわね」
「ありがとうございます。もうすぐ授業が始まります。そこまで送りましょう」
円城は微笑みながら、瑤子様を教室の外までエスコートしていった。
……こ、怖かった~っ!円城、よくやった!たぶん今ここにいる全員が同じ気持ちのはずだ!
始業のベルが鳴り、野次馬の生徒達が続々と自分の教室に戻っていく中、鏑木は若葉ちゃんの両肩を掴んで若葉ちゃんを強い目で見つめた。
「なにかあったら俺に言え。俺がお前を守るから」
「えっ…!」
若葉ちゃんの顔が赤くなった。えっ、若葉ちゃんが鏑木にときめいた?!そして若葉ちゃん、口が開いちゃってるよ!
嫉妬した女子達から「瑤子様のおっしゃった通り、皇帝の気を引くための自作自演なんじゃない?」「ありえる~」と言った声が聞こえた。
その日から、若葉ちゃんの傍に鏑木がいることが多くなった。