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九、核武装阻止と反原発の闘い
2010年01月01日
ナイキJ設置反置と武装阻止
日本の核武装を阻止するためには、核弾頭の開発に注意し、これを阻止する必要があるが、同時に”核”の運搬手段にも注目しなくてはならない。
自衛隊はナイキ、ホークなどのミサイル兵器を装備し、このような兵器を徐々に入れ替えて、いずれは”核弾頭”運搬可能なミサイル兵器を導入しようという意図があるからである(アメリカは最初ナイキを核弾頭装備兵器として開発したのである)。
この危険な意図を封じ込めるために、自衛隊へのナイキJ配備反対とそのための基地新設に反対する運動が必要であった。最初の運動は北海道長沼に計画されたナイキ基地に反対する運動であった。長沼における闘いは現地のねばり強い闘いによって支えられ、やがて「長沼裁判」となって”自衛隊違憲判決”をひき出すにいたる。しかしながら、平和運動としてみれば孤立した闘いであり全国的な支援・協力は乏しかった。この反省の上にたって、独自のナイキJ設置反対運動が必要とされていた。「原水禁」とくに「大阪軍縮協」はこのことに最も早く着目し反対運動にとり組んだ。
自衛隊が第四高射群(中京地区)の設置を計画していることがわかるやただちに行動が開始された。大阪・能勢町では動きが早かった。1970年4月には、”ナイキ反対の集会”が開かれ能勢町議会も反対を決議した。大阪軍縮協は連続的にオルグを送り、地元の反対同盟に協力し、学習会、宣伝が地道に行なわれた。これらの活動の中で地元青年たちの反対の決意はいよいよ固まるとともに、運動は周辺にも伸びていった。大阪府議会、京都府議会も「ナイキ反対」を決議するに至った。
地元反対同盟は講師を招いた学習会だけではなく、全国各地に出むいてナイキJの実態をとらえる活動を行なった。裁判中の長沼の現地を視察し、ナイキ基地建設で自然がどのように破壊されているかを見、沖縄にいってナイキ・ハーキュリーズの実射訓練の被害も確かめてきた。町長や町議会が“反対の態度”をかえないか監視が続いた。
「大阪軍縮協」は能勢が孤立しないように常に運動を周辺に拡大する努力を続けた。茨木市、高槻市、池田市、八尾市、吹田市、箕面市などの市議会がぞくぞくと「ナイキ反対」を決議し、能勢の反対運動は強化されていった。こうして約5年間に及ぶ反対運動のなかで、防衛庁はいよいよ窮地に追い込まれ、遂に能勢へのナイキ設置を断念した。これは部分的勝利とはいえ、平和運動が確実に勝利した数少ない成功例の一つである。
大阪能勢の闘いは、全国的なナイキ反対運動にもよい影響を与えている。ナイキ反対の全国活動者会議での経験交流は、各地の反対運動に生かされていった。こうして青森県車力村では防衛庁の「ミサイル試射場」計画を遂に断念させることに成功したし、北海道八雲町の場合は、後一歩のところにきている。このナイキ反対運動で忘れることのできないのは今は亡き小山内宏氏の活躍である。実践的軍事評論家だった小山内氏は、ナイキ批判の詳細な情報をもって僻地や山奥まで出むいていって、地元の活動家と学習会を開き、懇談会に参加していった。彼のこの旺盛な活動がなければ、ナイキ反対運動もどうなっていたかわからない。歴史に長く記録されるべき功績である。
「死の灰」と放射能による環境汚染
かつて「いかなる国の核実験にも反対する」という原則問題で意見が対立したとき、その一つの論点は“死の灰”による環境汚染の問題であった。共産党と日本原水協に残った人びとは「ソ連や社会主義国の“死の灰”はガマンせよ」と主張した。あるいは「少しぐらい“死の灰”を浴びても構わない」というのであった。
だが“死の灰”は社会体制の相違にかかわりなく、等しく大気を放射能で汚染しとりかえしのつかない状態にまでゆきつこうとしている。アメリカのノーベル賞受賞者ライナス・ボーリングがアメリカ原子力委員会(AEC)の核実験を強く批判したのもこのためである。
“核実験でつくられた放射性物質が人類に大きな遺伝的損失をもたらす”と判断したからである。ソ連のサハロフ博士が、自分の責任を痛感したのは、自分たちのつくりあげた水爆の実験が人類に被害を与えていることを認識しているからである。
ここでみられたの放射能による環境汚染をどうみるか、という見解の相違は、その後の「原水禁」と「原水協」の運動路線にも決定的な相違を生じさせるに至った。それがはっきりしてくるのは原子力発電をどうみるかという点である。原発反運動でこの二つの組織の方針は根本的に違ってくる。
「原水協」は周知のように原発反対をはっきりと打ち出しているわけではない。「民主・自主・公開」の原則が守られればこれに賛成する態度をとっている。共産党の条件闘争の主張と同じである。
だが、今日、原子力発電や再処理工場が、確固とした安全対策をたてず、政府・電力資本の一方的な意志によって乱造されている。現在日本で設置されつつある原発はそもそも、日本が自ら開発したものではなくアメリカからの直輸入であり、「自主」的技術開発をしたものではない。その上、原発設置にあたって地元の意向には殆ど耳をかさず全く非民主的に行なわれている。公開の討論すらさせないのである。安全審査の資料は“秘密”であり「公開」の原則は全然守られていない。
これだけはっきりしているのに何故反対できないのであろうか。原因は他にあるとみなくてはなるまい。
原発や再処理工場から出てくる「死の灰」・放射性物質の危険な性格について認識が甘いか、弱いかということである。
原水禁と原発反対運動
「原水禁」が原発にとり組み始めたのは1969年からである。原潜が寄港し、放射性物質が港湾を汚染しつづけているが、同様に(あるいはもっと大量に)放射性物質を海水中に放出する原発をどうみるか、が鋭く問われてきた。原発をかかえた各県原水禁からも問題が提起されてきた。
69年の柏崎集会をはじめとして、70年の活動者集会(茨城・東海村)、72年の活動者集会(敦賀市)を経て「原水禁」としての反原発闘争の方針は固められていった。現在日本で計画されている原発は(1)安全性が全く立証されておらず危険であり、(2)たとえ事故がなくとも日常運転で生じる放射性物質の環境放出自体危険であり、(3)放射性廃棄物の処理方法すらないことを前提にして運動を進めることになった。
反原発のスローガンは1971年以降、夏の原水禁世界大会の主要なスローガンの一つとなった。だが、この運動は集会やデモだけで片付くものではない。地元における住民の強力な反対運動がなくてはならないし、この住民運動と協力することなしには発展しない。こうして、各地域に発生してきた地元反対同盟との協力・提携が、反原発闘争の組織方針の基本となる。
さらに反原発闘争においては、原発に関する知識、放射線障害に関する知識、“核分裂”とは一体なにを意味するのかという一定の理解をもたなくてはならない。なぜなら、政府や電力はいわゆる専門家を動員しデタラメな数字を並べ、一方的な理屈でその“安全性”を主張してくる。国民一般や僻地の住民たちはこれでゴマ化されつづけてきたのである。革新系の地方議員すらこのゴマ化しにのって原発誘致運動すらしてしまったのだ。この政府・電力のゴマ化しの理屈を見抜き、これに反論する知的能力を蓄えなくては、運動はできない。ビラ一つ書けなくなる。
こうして「原水禁」は、各所で反原発の学習会を開き、理論的武装のためのパンフレットを発行してきた。あるいは学者・専門家などの協力を得て理論的活動にも手がけてきた。
反原発闘争の発展
各地における反原発運動の高まりにより、政府の原発計画は大きく狂ってきた。既にせっちした原発も事故続きで満足なものは一つもない。技術的不安は電力内部でも深刻である。こうした状況のなかで石油危機に見舞われたのだが、政府は安全対策や環境保護には力を入れず、”石油危機だから次は原発だ”という方針で強行策を開始した。
原水禁運動の歴史と教訓 ――核絶対否定の理念をかかげて――(1978年6月発行)