災難対治抄
大聖人御在世の鎌倉時代、大地震、干ばつや疫病の流行など三災七難が相次いでいた。
「災難対治抄」(御書P85)において、
「如何にして速に此の災難を留む可きや」
の問いをもうけられ、
「速に謗法の者を治す可し若し爾らずんば無尽の祈祷有りと雖も災難を留む可からざるなり」
謗法の者を対治しなければ、種々の願いもかなわず、
災難は止まらないと仰せられている。
「問うて曰く如何が対治すべき」への答えには、
「施を留めて対治す可しと見えたり」
謗法への布施をとどめて対治すべきだと述べられる。
次の「謗法の者に於いて供養を留め苦治を加うるは罪有るや不や」の問いには、
「苦治すべし尚罪有ることむ無けん」
涅槃経の文を引かれ、謗法の者(僧侶)への供養を止めて、「苦治」、苦しむほどの厳しい対治を加えても全く罪にならないと仰せになっている。
現代においては【あらゆる根源の一凶】である日顕宗への布施をとどめ、厳しい対治を加えることこそ、立正安国への道であり、個人的な種々の願いもかない、不幸の因である
愚痴・不信・怨嫉・慢心など【自己自身の一凶】も断ち切ることができるのである。
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