正直に書かせてもらうと、何でこのエントリーを書いたかというと、来週の授業で「情緒障害・自閉症」のことを学生に話すからです。
もちろん、基本的なことは知っているつもりです。
ですが、それを学生に
分かりやすく
説明するというのはとても難しいと感じます。
同じ教員同士であれば、経験からあの子どもはこうだよね、という経験値からの言葉が語られます。
ですが、そういうことはできない。
だからといって、テキストを説明するような表面的な話をしても学生は
寝てしまいます。
なので、映像なども見せながらの授業をしたり、この前の授業ではハンドサッカーなんかを実際にやってもらいましました。
そして、来週は自閉症の話。
講義の資料は基本これを使っています。
これを、学生に分担させてA4で1枚のレジュメを作ってもらい、PowerPointでプレゼンをします。
資料はそれなりにまとまっているなぁと思っても、実際にプレゼンすると「あれ?」と思うような場面もあったりします。
まあ、それはそれでしょうがないので、その後に私が補足と解説をします。
さて、前置きが長くなったのですが、佐々木先生の講義。
佐賀新聞の記事で佐賀市で公演されたときの様子が書かれているのですが、どれを見ても学生に伝えたいことだらけ。
自分も反省しきりな内容です。
親でも教育者でも、自分の衝動を自制する力がない人ほど厳しく頑固で、怖い。早くできるようにさせようとする。そうすると子どもの中に、本当の意味での自律性は育たない。第一、教えている人の自律性が弱い。つまり自分が我慢できないから、早くそうさせようとする。
ううむ、と唸ります。先日のアメフトの事件などを振り返ると、こういうことじゃないのかな、と思ってしまいます。
香川大学の坂井さんがよく言うのは、障害のある人がコミュニケーションができないといっているけど、実は障害の無い人の方がコミュニケーションに課題があるのかもしれないと言っていたこと。私たち健常者といわれる人はさまざまな方法が残されているし、理解させる力があるはずなのにそうしていないとすれば、こちら側の方がコミュニケーション障害なのかもしれない。それと同じことだと感じます。
学校の先生たちは何でも努力すればできるようになると思っているかもしれないが、それは生まれつき駆けっこが遅い子どもに「何メートルを何秒以内で走れ」と言っているようなもの。努力しなくてもできることがある一方、どんなに努力してもできるようにならないところがある。発達障害の子どもは駆けっこほど単純ではないが、そうした個人差を分かってほしい。
できるという基準はとても難しい。発達障害のある子どもたちは少しずつではあるができるようになる場合がある。なので、努力不足を本人のせいにしたりしてしまいがち。しかし、多くの場合けっして努力を惜しんでいるわけではない。ここで紹介した、松谷くんなどは人の何倍も頑張っても報われないというとても厳しい経験をしていました。
そうならないためには,私たちはどういう特性があって彼らができないのかを理解しなければなりません。佐々木先生は
発達障害の子どもたちが一番つらいのは、「無理解なのに熱心な人」だ。熱心な無理解者が私を一番苦しめる、と彼らは言う。その子たちのことがよく分からなければ、担当から外れた方がいい。もしくは、外れなくてもいいが、無理をさせないでほしい。
とおっしゃっています。スポーツをする人は熱心な人が多いです。努力をした結果自分が成功したという経験を人に伝えようとする。
「自分の経験」だけで語ってしまう危険性があります。そうならないためには、科学的な分析も必要だし、知識を必要です。
理解という点で、こんな記事を見つけました。
発達障害のある人は福祉職の仕事をしてはいけないのかという問いかけ。この記事はとても考えさせられます。
最後ですが、来週の講義のネタリスト。ここら辺の情報からアタマを整理し、学生に話していこうと思います。