ゲームと一口に言うけれど
最近、ゲームを様々な目線で語ろうという動きが活発だ。
とりわけマクロな目線で、ゲーム性やゲーム論といった名目で、「ゲームとは何か」という疑問に対し、ロジェ・カイヨワの議論を引用するとか、ポストモダンの影響を考察するとか、様々なアプローチが試みられている。昨今では、『ゲンロン8』の刊行も印象的だ。
ところが、こうしたマクロな目線での「ゲーム論」に世間的な理解が示されることは少なく、むしろ批判的な意見が多い、またゲーム論自体も雑然とした内容が多いよう見受けられる。
批評なくして総論なし
何故マクロな議論が進まないのか。私個人の意見を率直に話すと、とりあえず「ゲームとは何か」という幅広い議論は時期尚早でないかという考えがある。
いや、マクロの議論自体は大変有意義なものである。異なる価値観、分野の人間による示唆もまた必要だろう。
だが、議論を進めるはずの人によって「語るべきことがない」と言われた2000年代後半から現代までのゲーム批評において、作品レベルでの批評があまりに不足しており、またそれを補足できる資料や、基準となる見解もなかった。
その結果、理論をまとめるにせよ、指摘するにせよ、不毛な罵り合いに発展しがちだ。
作品毎への理解もないまま、「ゲーム論」を語るなど言語道断であるが、冷静に考えて、我々自身もまた作品をそれぞれ深く理解していると言えるだろうか。
例えば、去年のゲームだけでも、『ゼルダの伝説 BotW』は相当数の感想や批評がウェブに放流されたかもしれない。
だが、『モンスターハンターワールド』や『NieR:Automata』はどうだろう。海外から上陸した『God of War』や『Horizon:Zero Dawn』はどうだろう。我々はこれらの作品について、何かしらの共通の理念や認識があっただろうか。
昨年と今年だけでこれほど名作が生まれているのに、それを語るための土台がない。まして、ここ約15年の間に生まれた作品など、何をか言わんやだ。
これは想像以上にまずいことかもしれない。
そうこうするうちに、ゲームを遊ぶ人間の世代も変わり、ゲームは過去の名作へ押し込まれていく。そうなってしまえば手遅れで、結局どんなゲームだったのか、最早語ろうにも記憶は曖昧になっていくだろう。
「僕らのゲーム」はやがて、国内の殆どの人に忘れ去られてしまう。それは単に寂しいだけでなく、ゲームというメディアを研究する上でも、非常に大きな痛手だ。
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ミクロ視線における批評の価値
まず個人の批評に資料的価値はないと考える人もいるかもしれないが、実際のところ作品に触れた人間による言論は、文化を成熟する上で極めて重要である。
映画であれ、文学であれ、無数の鑑賞者による批評と、創作者の作品による、双方向的な干渉によって発達してきた。
例えば映画文化だけ見ても、大手新聞紙の批評やアカデミーによる賞は無論のこと、Rotten TomatoやIMDbのような一般ユーザーによる物量の評価に関しても、単にサイトの規模のみならず、上映作品の売上という経済的な側面に関しても、とてもなウェイトを占めている。
ゲームにおいても、私がかつて何度も読み耽った個人のテキストサイト「GAME LIFE」には無数の批評が掲載されていた。
それはどれも一級品の文章、知性、熱量で書かれたもので、その批評が当時ゲームに明るくなかった自分に与えた影響は極めて大きかった。
あのサイトがなければ、今の自分はブログも書いていないだろう。例えば、彼の『DOOM』、『HITMAN』、『Minecraft』(β版)批評はどれも見事で、ただ遊んだだけでは伝わらない魅力をテキストに再現し、日本国内におけるこれらの作品の評価に大いに貢献していた。無論、彼の批評は批判的なものも数多くあり、それもまた重要なのだが。
ところが、そのGAME LIFEは今閉鎖され、過去数々のゲームレビューを発表したテキストサイトも良くて更新停止、最悪ドメイン毎消えてしまい、貴重な資料は増えるどころか減る有様だ。
無論、現代日本でも、個人的に商業メディアではAUTOMATON、一般レベルでnote、個人レベルでもPCゲーム道場その他で興味深い批評を読ませていただいているが、圧倒的に発売される作品に大して追いついていないのが現状である。
ゲームコミュニティにおけるコンセンサスの欠如
つまり、批評の欠如がもたらした最大の病は、ゲームのコミュニティにおける、コンセンサスの欠如である。恐らく、「◯◯と言えば、××だよね」のような作品に対する認識が、2000年代後半の作品からキレイに抜け落ちているのだ。
その結果、誰もが主観一直線でゲームを語ることになり、意見そのものは脆弱かつ不安定となり、いざお互いの意見を交換した時に、あまりに意見が噛み合わず殴り合いに発展したのが現状。
例えば、「『Dead Space』はあるが『バイオハザード4』のないゲーム年表」は、当時実際に体験した人間からすれば、『Dead Space』がどれほど『バイオハザード』シリーズと他のシューターから影響を受けた作品か知っているが、そうでない人間は「些末な違いだろ」と気にもしない、という点に現れているのではないか。
向こうでは「resident evil 4 dead space」と検索するだけで「sequel(続編)」とか「influence(影響)」といった単語まで引っかかる。そもそも『Dead Space』自体が数々のシューターのエッセンスを上手くまとめたような作品なのだが。
無論、完全に誰もが納得するコンセンサスは築けない。
ゲームに対する批評は人それぞれで、認識の相違を認めることも大切だろう。だが同じぐらい、自分の解釈をぶつけ合い、妥協点を探る事は極めて重要である。
しかし、そもそも批評自体がない、誰も意見を発信しないのでは、接点すら生まれない。その結果、黒船来航よろしく、内外から意見する影響力のある人間が出てきた時、投げっぱなしジャーマンな主張に対して理路整然と反論することが難しくなる。
一方で、新たにゲームについて論じよう、考えようという人間が出てきた時、現地の人間にすら論じられていない界隈に配慮するだろうか。仮に配慮するとして、誰も教えてくれないゲームにどう配慮するべきなのか。
何も話さなければ、何も配慮されない。それは自分たちの落ち度でもある。
自分たちのゲームは自分たちで語る
私個人の話をすると、元々北米の電子ゲームにどっぷりとハマり、ダウンロード販売を通じたインディーズゲームに執着している事もあり、正直自分が好きなゲームが、自分の国で十分評価されていると感じる事は少ない。
(国内で)遊ぶ人間が少なく、語る人間も少ない以上、それは当然のことなのだが、自分が心底ハマって余暇を捧げた作品だからこそ、客観的かつ正当に評価されて欲しいと思うし、今ブログを書いている一番の動機もそこにある。
例えば、国内外で知名度がとても高い『Call of Duty』シリーズだけど、日本では売上に対して圧倒的に分析や批評が不足している。そこで自分は『COD』各シリーズから特に優れたキャンペーンを厳選し、紹介する記事を書いた。
まだまだ練り足りない部分のある拙稿だし、大してPVも得られなかったけど、それでも『CoD』という作品が残した美徳や価値についてしっかり論じられた事は、とてもやり甲斐を感じられた。
そこで自分が言いたいことは一つだけ。自分たちのゲームは自分たちで語るべきだということだ。
自分たちのゲームを語り、周囲の人や後世の人に伝えるのは、自分たちしかいない。批評家や評論家の肩書を持った偉い人たちや、経済的な課題を常に抱えるメディアに、全て丸投げする程期待してはならない。
とりわけ、今ゲームを語る人たちの多くは既に30代40代になっていて、彼らに「語るべきことはない」と切り捨てられた年代の作品の、価値や意義を立証するのは自分たち20代の仕事だ。
幸い、今はいくらでもゲームを語るためのツールはある。批評だ評価だのと言ったものの、Twitterでスクリーンショットとハッシュタグを付けて愛を語るだけでも十分価値はある。いや尊い。
やがて気が向いたら、noteなら気軽に長文を投稿することができるし、レビューサイトに自分のレビューを掲載してもいい。何なら、自分で一からサイトを作って、腰を据えて論じるのも良いだろう。
自分が好きなゲームは、当然価値ある作品だ、語られるべき作品だと考え、埋もれさせないために努力することは、コミュニティにとって最高の貢献である。
それも面倒だと言うなら、頑張って作品の魅力を説明する人を応援したり、記事を拡散するだけでもいい。
現代では無数にゲームが発売され、語られるどころか、遊ばれることもなく消えていく。うかうかしていると、他の人気ゲームに話題を攫われてしまう。そういう流れを止められるのは、純粋なプレイヤーの声である。
加えて、最初に指摘した「情報の不足」は、批評のみならず開発者側の意見や、メディア側の内情、外部分野におけるアプローチもまた例外ではない。
個人的には、esportsと呼ばれるタイトルに注目が集まる一方、プロゲーマーにもっとこれらの作品を批評してもらえたらきっと面白いことになると思っている。
これらを集め、書き、発信するのもメディア重大な仕事だ。
そして、作品単位での資料が集まれば、やがてシリーズ単位、ジャンル単位へと自然と議論の幅は増えていくだろう。
別に今ゲームに関するマクロな議論を控えるべきとまで言わないが、成熟してからの議論は確実に実入りがある。そして作品を個別に批評する側には、まだまだ人手が足りていないので、もっと手伝って欲しいというのが私の意見だ。
因みに当紙でもゲームレビューはたくさんあるので読んでね(ゝω・)vキャピ