大阪の幻のゴルフ場
我がブログを読んでくれている読者の中にも、ゴルフが好きな人はけっこういると思います。
海外でよく知られた日本人のステレオイメージの一つに、ゴルフ好きが挙げられます。世界には35,000ヶ所のゴルフ場があるそうですが、そのうち7%を日本が占めているのだとか。これは米国に次ぐ世界第二位。日本人、やっぱりゴルフが好きだった。
日本にゴルフが入ったのは、20世紀に入ってからでした。イギリス人貿易商によって持ち込まれ、その2年後には日本初のゴルフ場となる「神戸ゴルフ倶楽部」が完成しました。このコースは現在も残っています。
昭和に入り、ゴルフの大衆化はいっそう進みました。以前は入会金だけでも200円(今の価値で50万円ほどか)と高額だったゴルフ場も20~50円と安くなり、大正デモクラシーによる中産階級の広がりにより、ゴルフ人口は着実に増えていきました。
大阪に話を絞ると、現存するいちばん古いゴルフ場は大正14年(1925)に設立された「茨木カンツリー倶楽部」です。「カンツリー」の名がクラシックな老舗ということを漂わせています。
下の緑地が戦後の大阪万博が開かれた会場ですが、こんなところにゴルフ場なんてあったっけ?とGoogle Mapを開けた自分がビックリでした。それくらいゴルフのことはよくわかりません。
2番目は、昭和12年(1937)に作られた「大阪ゴルフクラブ」。大阪府の南部、シーサイドビューの風光明媚な土地に作られたコースは、茨木カンツリー倶楽部に比べると狭いですが、実に個性がある名コースなんだそうです。
このゴルフ場が、現時点での「大阪で2番目のゴルフ場」となっています。ところが、この2つのゴルフ場の間にもう一つ、「真の2番目のゴルフ場」が存在していました。
ただ、あまりに短命すぎたためゴルフ愛好家の中でもほとんど忘れられ、幻のゴルフ場としてあまり知られることなく歴史の土の中に埋もれていました。
今回はそんな悲劇のゴルフ場を、約75年の眠りから覚ませてみようかと思います。
大阪2番目のゴルフ場があった場所は、ここでした。
大阪市から電車で南へ進むこと20分弱、和泉市に「信太」という場所があります。
大阪人なら反射神経で「しのだ」と読めるのですが、これが地元以外となるとなかなか読めない、お好み焼き・たこ焼きに次ぐ大阪名物、難読地名の一つです。
信太とくれば、ある分野に詳しい人なら、知る人ぞ知る有名な場所だったりします。
一つはミリオタ。上の地図の真ん中に陸上自衛隊の駐屯地があり、その歴史は大正時代に大阪市内から移転された陸軍野砲兵第四聯隊にまでさかのぼります。毎年4月に駐屯地祭りがあるのですが、当日は人・ヒト・ひとで身動きが取れないほど。数千円するミリタリーグッズも売れに売れ、自衛隊好き、ミリタリー好きの裾野は予想以上に広いということを思い知らされます。
二つ目は陰陽師(おんみょうじ)。陰陽師とくれば平安時代に活躍した安倍晴明ですが、その母親が信太に住んでいた白狐だった伝説があります。白狐が狩りをしてケガをした男を介抱しているうちに恋仲になり、生んだのがあの安倍晴明。安倍晴明は人間とキツネのハーフだったという衝撃の事実。
といっても、これは伝説です。が、信太の北部には江戸時代まで、神社に仕える神官や巫女たちが住んでいた(と思われる)、「陰陽師村」という集落がありました。伝説が生まれる土壌が、古くから信太にはあったということです。
また、映画『陰陽師』が公開された時、地元の白狐ゆかりの葛の葉神社が参拝者であふれていたことがありました。それも、何故か女性ばかり。
もう一つは、ウフフが好きな方。「信太山」とくればムフフ・・・あれ?今は理性がモザイクロックをかけて書けないや。それはいつか解除された日に改めて。
これだけを見ると、おそらく地元民でも
「こんなところに本当にゴルフ場なんかあったの?」
と首をかしげるだろうと思います。
ところが、あったのです。
信太山
信太山は、「信太山丘陵」と呼ばれる高台にあります。
信太山界隈の土壌は酸性が強く、農業には適しません。それ故に長い間、村の共有地として放置プレイされていました。それが明治以降に軍用地として転用され、砲弾の射撃実験場などとして使われていました。
現在でも信太山一帯は、自衛隊の演習地となっています。自衛隊なんで周囲をウロウロしているだけで射殺されたりはしないですが、少しながら物々しい雰囲気を漂わせています。
信太山の行政区域は和泉市ですが、丘陵地帯はお隣の堺市にも及んでいます。
この演習地は旧陸軍時代を経て、戦後の一時期米軍に取り上げられたのですが、射撃場に転がっていた薬莢を拾ってくず鉄として売ったり、信太山の倉庫にこっそり忍び込び射撃的用の白板を盗んで絵を描いていた悪ガキがいました。「ゴルゴ13」の作者であるさいとう・たかお氏です。
さいとう氏は、信太山(っても堺市側)を遊び場にしていた地元中の地元民。演習場のすぐ近くに堺市立福泉中学校がありますが、彼はそこの卒業生です。「デューク東郷」が、さいとう氏に強い印象を与えた中学時代の先生が由来なのは、ファンの間では知られたな話。
射撃場のすぐ近くだけに、『ゴルゴ13』の発想の原点はもしかして、少年時代に走り回った信太山だったのかもしれません。数年後、「ゴルゴ13の故郷」として信太山が後付設定されたりして…ってなんちゅーローカルな話をしとんねん。
下のリンク先に、中学校時代のさいとう氏と、デューク東郷の元になった東郷先生の写真があります。
堺をおもえば… さいとう・たかをさん 思い出の場所と店 堺市
阪和電鉄と信太山ゴルフ場
そんな陸の孤島、信太山に転機が訪れたのは、大正時代の野砲兵聯隊の移転と、昭和初期の鉄道の開通でした。
信太山ゴルフ場建設には、ある会社が関わっています。それが私のブログを古くから見てくれている方はみんな大好き、
「また阪和電鉄か!」
です(笑)
まいどお馴染みネタ満載の鉄道会社ですが、阪和電鉄ってなに?という方は、少し予習が必要かもしれません。予習は下のリンクをどうぞ。Googleに戻らなくても結構です。ググってもここがWikipedia先生の次に出てくるので、検索しても無駄な労力です。
現在のJR阪和線となっている路線は元々、「阪和電気鉄道」(以下阪和電鉄)という私鉄としてスタートしました。
(昭和17年大阪市撮影の航空写真)
信太山の麓に駅ができたのは、阪和電鉄開業と同時の昭和4年(1929)でした。写真は開通13年目の昭和17年のものですが、風景は開業当時と変わっていないと思います。
今でこそ阪和線は、関西空港アクセス路線としてJR西日本のエース級の活躍ですが、開通当時は人家なんてロクにない、人なき原野を突っ走るだけの鉄道でした。そのため、鉄道は敷いたけれど乗ってくれる乗客がいない有様。
そこで阪和電鉄は、芋掘りやらいちご狩りやら遊園地やらと、経営の安定のために様々な事業に手を出していました。この会社ってイベント会社か広告代理店じゃないよね?と思えるほどの経営努力。おかげさまで80年後の現在、絶好のブログネタ供給源として大活躍してくれているのですが、実はこの阪和電鉄、ゴルフ場経営にも手を伸ばしていました。
阪和電鉄は、住宅地にしろ遊園地にしろ直営がモットーだったのですが、ゴルフ場は何故か直営とせず、「信太山ゴルフ株式会社」という子会社を設立し監査役の橋本喜作*1を社長としました。が、本社事務所はイコール阪和電鉄本社、ほとんど直営みたいなものでした。これではなんのために子会社を作ったのか、さっぱりわかりません。
まあ、そこが伝説の迷私鉄クオリティ。
ゴルフ場建設プロジェクトを立ち上げた阪和電鉄…もとい信太山ゴルフ株式会社は昭和10年(1935)11月1日、とりあえずなのか練習場だけオープン。翌年の4月、9ホール設置の南大阪唯一の本格的ゴルフ場「信太山ゴルフリンクス」としてフルオープン、ついに「大阪で2番目のゴルフ場」が信太山に完成しました。
当時の阪和電鉄の案内から抜粋したものですが、「ゴルフ練習場」と書かれてあるので昭和10年(1935)のものですね。
「練習場」と書いておきながらコースはけっこう完成しているようで、写真から見える芝生からも景色の良さそうなコースかなと。
ゴルフ場の敷地は約8.6万坪(約285,000 m2)。みんな大好き「東京ドーム○個分」で換算すると、6個強となります。9ホールしかなかったようなので、ゴルフ場としてはそれほど大きくないように思えます。
国会図書館のデジタルアーカイブの山の中に、こんな資料が保存されていました。
「信太山ゴルフリンクス」の会員名簿です。「昭和11年5月」と書いているので、ほぼ設立時会員です。よくもまあ、こんなものが残っとったわ。
聞いたこともないような人たちの名前が並んでいますが、サラリーマンを含めた中産階級だと思われます。中には伊藤忠や住友銀行、福助など聞いたことがある企業の名前もありますが、おそらく会社の重役クラスなのでしょう。
下の名簿の右から二番目の河田嗣郎という人物は、住所が大阪商科大学となっています。彼は大阪商科大学(現大阪市立大学)の初代学長で、この名簿の中では唯一Wikipedia先生に記載されていた人物でもあります。
最後に「連絡先」が書かれていますが、信太山ゴルフリンクスの事務所(本社)が阪和電鉄内にあり、子会社とは言え「ほぼ直営」だったことの証拠です。
また、現地の住所が信太山ではなく、「泉北郡和泉町黒鳥」になっているのですが、これについてはまた後ほど。
当時の営業形態の一部も残っています。
営業時間は7:00~19:00。1籠3打(ダース。36個)入りのボールが、「一般50銭。会員30銭」。ゴルフクラブの貸出も行っており、1本10銭と記録に残っています。
ゴルフをやらないので、これが高いのか安いのかさっぱりわからないのですが、とりあえず現代と比べてみましょう。
信太山にいちばん近い「鶴田池ゴルフセンター」の打ちっぱなしは、60球(5ダース)で500円*2。これを平均的と価格とみなしましょう。
同時期の昭和11年(1936)、たいやき1個3銭、コーヒー1杯15銭、小学生のお小遣いが1日1~2銭の時代でした。30銭だとたいやきが10個食える計算となりますが、感覚的にわかりやすい「当時の値段を2500倍すれば現在の価格に近い」単純計算でいくと、¥750くらい。今よりちょっと高いかな!?という程度とみなしていいでしょう。
しかし、そのゴルフボールを素で買うとどうなっていたのか。
『明治・大正・昭和 値段の風俗史』という本には、「ゴルフボール1球あたりの値段」も書かれていたのですが、そのお値段1円25銭*3。1ダースちゃうのん?と本を見てみると、「1個あたり」と書いてある。いやいや、海外からの輸入もので関税かかってるんやろ?と思ったら、「国産」と書いてある。
1円25銭=125銭やから…3銭のたいやきいくつ食えるねん!?私の算数能力では、もはやいくつなのか数えられません。今なら吉野家の牛丼並が5杯は軽く食えそうです。
いや、たいやきじゃ済みません、近くの貝塚市の遊廓で女の子と1時間みっちり、ィュ縺�や△※ィ遉コができるやんという値段です。なお、大人の事情により一部文字化けしております。
とにかく「クソ高い」ということなのですが、ゴルフボールの高額さを考えれば、3ダース30銭(or50銭)はタダ同然な値段と言えます。
阪和がやればあの会社が黙っていなかった
我がブログを古くから見てくれている方は、
「阪和が何かをしたら、あそこが黙ってへんやろな」
という流れが連想できるはず。
やはり阪和電鉄の永遠の天敵、南海電鉄(当時は南海鉄道)が黙っていなかった。
信太山ゴルフリンクスに遅れること1年、南海の沿線に「大阪ゴルフ倶楽部」がオープンしました。冒頭で紹介した、現存する「大阪ゴルフクラブ」のことです。
大阪ゴルフクラブの公式HPによると、ゴルフ好きの有志が中心となり、南海沿線にゴルフコースを作ったと書かれています。南海との絡みは何も書かれていません。
しかし、
(1941年『南海沿線厚生施設篇』より)
昭和16年、太平洋戦争寸前のものですが、南海電鉄関連の福利厚生施設が書かれた一覧の中に、大阪ゴルフクラブ(リンクス)がありました。連絡先も南海本社の事業部と書かれているので、何らかの形で経営に絡んでいたと思われます。
ライバルとして何かと張り合っていた阪和と南海ですが、ゴルフ場で張り合っていたとしても何らおかしくない。むしろ、
「この展開、読んでた」
と冷たい反応にならざるを得ない。
ゴルフコースの設計者
こう見ると、信太山ゴルフリンクスは鉄道会社の副業です。しかし、この信太山のゴルフ場に賭けた阪和電鉄の熱い思想は、設計者にも現れていました。
設計者は上田治(1907~1978)。京都帝国大学で林学や造園学を学んだ日本のゴルフ場設計のパイオニアで、現存するだけでも56個のゴルフ場の設計に携わりました。2011年時点の日本のゴルフ場の数が2413軒なので、その2%が彼の手によるものとなります。
ゴルフ発祥の地イギリスにも勉強に向かい、本場のゴルフコースを研究。帰国後に数々のゴルフコースを設計し、現在でも名コースとして愛好家を唸らせているコースもあります。
日本のゴルフ場設計においてもうひとり、井上誠一という人物がいます。井上は東日本を中心にゴルフ場設計を行い、西日本中心の上田と共に「東の井上、西の上田」と呼ばれました。そんなゴルフ場設計の東西横綱ですが、ゴルフ場の環境選びに厳しく、適さない土地には一切触れなかった井上に対し、上田は
「難しい土地でも、依頼されたら造るのがプロである」
という信念で次々と難所をゴルフ場に変えていったといいます。
そんな上田がヨーロッパでの勉強後、日本で2番目に手がけたゴルフ場、それが信太山ゴルフリンクスだったのです。
翌年オープンの大阪ゴルフクラブも上田の手によって作られたものですが、今でも関西屈指の名コースとして数多くのゴルフファンに愛されているそうです。
残念ながら信太山は現存していないので、上田が手がけたコースのリストから外れている資料もあります。しかし、新進気鋭のコース設計者に依頼した阪和電鉄の思いは、資料から伝わってくるようです。
史上空前の好景気と共に
(昭和11年or12年『阪和電鉄案内』より)
信太山ゴルフリンクスが完成した昭和11年、日本は暗い時代でした・・・って思ってません?そう思っても仕方ありません。学校ではそう習うのだから。
しかしさにあらず。実は日本史上空前の好景気でした。
昭和11~12年の経済成長率は、24%とも言われました。不景気日本を覆っていたエログロナンセンスのダークな雲は完全に吹き飛び、東京や大阪などの都市では、ネオンの灯りが消えぬ不夜城の繁栄を見せました。二・二六事件という冷や水もあったものの、経済史の視点では、そんなものどこ吹く風の絶好調ぶりだったのです。
ただ、富の分配が都市と中産階級以上に偏っていたのが玉に瑕でした。226事件が起こった遠因も、これにありますし。
さらに追い風となったのは、ゴルフの大衆化。
金持ちの道楽だったゴルフを、格安で誰でもプレイできる「パブリックゴルフ」の動きが、昭和6年頃から広がりつつありました。
それが形となった一つが、昭和10年(1935)に作られた千里山田ゴルフ場です。現在は千里ニュータウンとなっている敷地を大阪府が借り受け公園としたのですが、その一部を気軽に楽しめるゴルフ場として開放しました。
府営なので、1ラウンド(9ホール)50銭、2ラウンド以上は1円と料金は激安。ゴルフ場の価格破壊に来場者が殺到したといいます。
日本人プロゴルファーが生まれたのは大正時代の頃ですが、昭和初期には海外にも遠征しており、昭和10年(1935)には全米オープンにも出場します。
その中に、「日本代表」として出場した一人の人物がいます。
陳清水(1910-1994)という台湾人プロゴルファーです。
彼は既に台湾にあったゴルフ場で才能を認められ来日、日本や米国での修行を経て当時の大日本帝国屈指のプレーヤーとなります。
戦後もプロゴルファーとして活躍する一方、台湾人プロゴルファーの育成に努めた人物です。2017年、ゴルフ殿堂に選ばれています。
ゴルフには詳しくないので、戦前に台湾人プロゴルファーがいたとは、調べてみて初めて知った事実です。
ゴルフ殿堂に選ばれた際も、台湾で報道はされていたようです。
また、プチブームのような風も吹いていたらしく、信太山ゴルフリンクスができた昭和11年には、こんなものもありました。「ベビーゴルフ」と名付けられたミニゴルフです。
今でいうパットゴルフですが、今まで蚊帳の外だった女性や子どもにもゴルフを楽しんでもらおうという動きが、史上空前の好景気の時代にあったのです。
その追い風もあってか経営は好調だったようですが、やはり生まれた時代が悪すぎた。
戦争とともに消えた信太山ゴルフリンクス
翌年から起こった支那事変が泥沼化し、贅沢は敵だの掛け声のもと、ゴルフは「ブルジョアの遊戯」扱いされ軍部の標的にされてしまいます。
ゴルフに対する締め付けは厳しくなり、昭和15年から30歳以下のゴルフは禁止*4。兵隊さんが異国の戦場で泥水飲んで頑張っているこの非常時に、ゴルフなんてやってる場合か!というわけです。
さらに親会社の阪和電鉄が南海に吸収され、昭和15年12月より「南海山手線」となりました。泣きっ面に蜂とはこのことです。
昭和16年刊行の『南海沿線厚生施設篇』では、「兄弟」となった大阪ゴルフクラブと並んで掲載されています。
が、アメリカとの戦争に突入した昭和17年になると様子が一変します。
昭和17年(1942)の南海鉄道の案内ですが、赤い丸のところに「大阪ゴルフ場」と書かれています。しかし、本来黄丸のところに書かれているべき信太山ゴルフリンクスが何も書かれていません。
この案内の発行月日は不明ですが、「昭和17年3月1日検閲済」と書かれていることから、3月以降であることは確かです。
南海テコ入れの大阪ゴルフクラブは残ったものの、吸収合併した阪和電鉄の形見である信太山は、戦争の掛け声のなかさっさと切り捨てられたのでしょう。これは吸収された側の、外様故の悲哀です。
大阪ゴルフクラブは、昭和19年3月18日という「命日」もわかっています*5。それに対し、信太山ゴルフリンクスのはっきりとした「命日」は、現在でもよくわかっていません。正直なところ、今回の調査で昭和17年3月以前だろうと、間接的証拠で絞れただけでも儲けものです。
信太山のゴルフ場はどこにあったのか?
もう一つの謎は、信太山ゴルフリンクスがどこにあったのかということ。
信太山は信太山ちゃうのん?とツッコミを入れたい気持ちはわかりますが、信太山と一言で言ってもかなり大きいのです。
上の地図のように、
「信太山にゴルフ場ありましたで~」
と書かれた資料は複数存在するのですが、どれもこれも地図がざっくりすぎて、場所が特定できないのです。
その中でも、『和泉市の歴史4 信太山地域の歴史と生活』という地元の郷土史には、
「野砲兵第四聯隊の横にあった」
と具体的な場所が書かれているのですが、うーん、「横」ねぇ・・・。
それならばと、戦後すぐの航空写真を引っ張り出してきました。
戦後の航空写真は国土地理院のHPから容易に探せるので、昭和21年の写真だから跡くらいはあるだろうと軽い気持ちだったのですが、目を皿のようにして探してみても、ゴルフ場のかけらも見当たりません・・・。
ただ、「横」という本の記述から、野砲兵第四聯隊の右側の更地(?)がなんだかあやしいな・・・・!?と私の長年の直感が申しておりました。
しかし、それ以上の確証が得られず調査が頓挫してしまったまま、少し月日が経ったところ、意外なところからそれが判明することに!
それについては、続きを書くと長くなるので後編へ続く。
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