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初期イスラム帝国の有能な武将たち(後編)

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ヨーロッパ・中央アジア・インドにまで拡大したイスラム帝国

前編に引き続き、イスラム帝国の躍進を支えた武将をピックアップします。

前編は、預言者ムハンマドの時代の初期イスラム教団を支えた武将から、シリア・エジプト・北アフリカまでの帝国の急拡大を担った武将をピックアップしました。

まだご覧になってない方はこちらをどうぞ。

今回は後編です。優秀な武将たちの活躍によって、イスラム帝国は遠くヨーロッパ〜中央アジア〜インドにまで拡大していきます。

6. ムーサ・ビン・ヌスヤール(640-716)

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北アフリカとイベリア半島を征服した名将 

イスラム帝国を遠くイベリア半島にまで広げたムーサ・ビン・ヌスヤールの一族の出自は定かではなく、父親がキリスト教徒のペルシア人だとか、シリア・アラブのバリ族だとか、ユーフラテスの東に住んでいたセミノマドのラフミード族だとか色々な説があります。

いずれにせよムーサの父親は奴隷で、エジプト総督アブド・アル=アジズ・イブン・マルワンに仕えていましたが、アブドは彼を自由にし、息子のムーサとビシュに教育を施しました。兄弟はどちらも有能だったようで、若くしてイラクの共同総督に任命されています。

その後ムーサは、ハッサン・アル=ガッサーニーが進めていた北アフリカ征服の後任者となり、ハッサンが先住民ベルベル人に武力を用いて厳しい態度で望んだのに対し、ムーサは外交的手段でベルベル人を調略。ベルベル人の抵抗を抑えることに成功し、イスラムの北アフリカ攻略を完成させました。

698年、ムーサはバレアレス諸島、サルディーニャ島を攻略し、次いでマヨルカ島、イビサ島、メノルカ島など地中海の島々をも制圧しました。

 

この時に頑強に抵抗を見せたのが、ジブラルタルにあるイベリア半島の西ゴート王国領セウタ。難攻不落のセウタ要塞が存在すれば、背後から討たれる危険があるので、イスラム軍がイベリア半島に渡ることは難しかった。

しかし、当時のセウタ総督フリアン伯が娘を西ゴート王国の都トレドに娘を教育のために送ったところ、国王ロドリーゴは彼女を見初めて側女にしてしまったので、フリアン伯は国王の不義に激怒し北アフリカ総督ムーサに寝返り、共に西ゴート王国を攻めることにした、と言われています。

ムーサはイベリア半島侵攻の司令官にターリック・ブン・ジアードを任命。

ターリックはアラブとベルベルの兵約7,000でジブラルタル海峡を渡り、アルヘラシスの町を制圧。軍勢を拡大しながら町々を制圧していきました。国王ロドリーゴ率いる西ゴート王国軍は、グアダレーテ河にてイスラム軍を迎え撃ちますが、西ゴート軍はターリックのイスラム軍の前に総崩れとなり、国王ロドリーゴは戦死。

戦勝を聞いたムーサは追加の18,000を送り込み、わずか2年でキリスト教徒の西ゴートを北部アストゥリアス山脈にまで追い詰めますが、どういうわけかダマスカスのカリフ、ワリド1世からムーサとターリックに帰還命令が届き、あとわずかでイベリアの完全征服を逃してしまいました。

このわずかに残ったキリスト教徒の土地が後にレオン王国となり、後のスペインの母体となっていきます。

 

7. ターリック・イブン・ズィヤード(?-720)

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Credit: Theodor Hosemann (1807-1875),  Little-Known Wars of Great and Lasting Impact: The Turning Points in Our History We Should Know More About

イベリア半島の征服を主導したベルベル族のムスリム

北アフリカは異教徒の奴隷の子、ムーサ・ビン・ヌスヤールによってイスラムの支配下に入りましたが、それによってイスラム化したマグレブの原住民ベルベル人が輩出した武将がターリック・イブン・ズィヤードです。ただし出身部族は、アッシュ=シャダフ族だとかウルサ族だとか複数の説があります。

ターリックは奴隷の出身で、北アフリカ総督ムーアに仕えましたが、ムーアは彼を自由にし自分の片腕としてタンジールの町の行政官に任命しました。

その後、西ゴート王国領セウタのフリアン伯がイスラム側に寝返り、総督ムーアの号令の元イスラム軍がイベリア半島を攻略するにあたって、ターリックは指揮官に任命されました。

711年に海峡を超えてターリックがたどり着いた山麓は、「ジャバル・アル・ターリック」と名付けられ、それが訛って「ジブラルタル」という名前になりました。

ターリック率いる7,000のイスラム軍は、アルヘシラスの町を攻略し援軍を得て12,000まで増強されましたが、相手の西ゴート王国軍は10万は超える大軍勢。しかも王ロドリーゴ自ら率いていました。

しかし、グアダレーテ河で衝突すると、イスラム軍は破竹の強さを見せ、西ゴート王国軍は壊滅。王ロドリーゴは混乱の中で河で溺死しました。

西ゴート軍は撤退に撤退を重ね、ターリックは軍を4つに分けて進撃を続け、自らは首都トレドを攻略しました。西ゴート王国は暴政により人々の支持を完全に失っており、イスラム軍は解放軍として向かい入れられたと言います。

ターリックは約2年で諸都市を攻略し、ピレネー山脈の麓に到達。そうして、アストゥリアス山脈にこもるドン・ペラーヨ率いる西ゴートの残党の攻略に取りかかりますが、どういうわけかダマスカスのカリフ、ワリド1世から帰還命令が出たため、最後まで征服を完了できずに撤退を余儀なくされました。

720年にイベリア半島に戻ることなく、ダマスカスで死亡しました。

 

8. アブドゥル・ラフマン・アル=ガーフィキ(?-732)

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トゥール・ポワティエ 間の戦いでフランクに敗れた武将

アブドゥル・ラフマン・アル=ガーフィキの家系の出自はイエメンのアック部族出身。父はダマスカスで務めていたようですが、ムーサの北アフリカ征服に従って現在のチュニジアに移住したようです。

詳細には不明ですが、アブドゥル・ラフマンは北アフリカやアンダルシアでの戦闘を経験し軍事的な才能を開花させていったようです。

イベリア半島の大部分を征服し、異教徒をイスラムによって文明化する「ジハード」の次のターゲットはピレネー山脈を超えたフランク王国にありました。

この時フランク王国メロヴィング朝は7世紀後半から宮廷が複数建ち互いに争う内紛状態に突入しており、ムーサの息子で初代アンダルシア総督アブド・アル=アジズ・イブン・ムーサは敵の内紛状態を突きフランクを征服すべく、712年、イスラム軍はピレネー山脈を超えたフランクへの侵入を開始。現在の南フランス諸都市へ侵入し略奪を行いました。720年ごろからイスラム軍の侵入は本格化し、725年には「アンベッサ」という男が大軍を引き連れてカルカソンヌの町を荒らすも、フランクの逆襲にあって負傷しアンダルシアに引き返したということもありました。

そのような中で732年、アブドゥル・ラフマンはフランク方面司令官に任命され、約80,000の大軍勢を従えてピレネー山脈を超えて軍事行動を開始しました。

アブドゥル・ラフマンの軍は南フランスのボルドーに侵入して財宝を略奪した後、中部フランスのトゥールにあるサン・マルタン教会に豊かな財宝があると聞き、軍勢をトゥールに向けました。

一方で、イスラム軍がトーゥルに侵攻中との報を知らされたフランク王国の宮宰カール・マルテルは、急ぎ軍勢を集めてパリからトゥールに向かいました。

フランク軍がトゥールに着いた時にはイスラム軍はまだ到達しておらず、カール・マルテルはさらに軍を南下させました。そしてポワティエの手前にある平原で両軍は合間見え、1週間程度にらみ合いが続きましたが、とうとう732年10月10日に戦闘が切って落とされました。史上名高いトゥール・ポワティエ間の戦いです。

この戦いの詳細はよく分かっていませんが、イスラム軍が得意とした騎馬による突進攻撃がことごとくフランク軍の盾兵の防御によって跳ね返され、逆にフランク軍の餌食になって歴戦の兵がことごとく戦死していき、イスラム軍は大敗。アブドゥル・ラフマン自身もこの戦いで命を落としました。

戦いはわずか1日で決着し、フランク軍が翌朝戦場に向かうと、イスラム軍は既に撤退していたそうです。

この戦いが分岐点となり、イスラムのヨーロッパの侵入はストップし、逆にフランクではトゥール・ポワティエの英雄カール・マルテルの子孫によるカロリング朝が成立し、封建制度が成立していきます。 

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9. ムハンマド・ビン・カーシム(695-715)

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現在のパキスタンを征服した若き将軍

ムハンマド・ビン・カーシムはアラビア半島のターイフに起源があるサッカフィ部族の出身で、叔父のムハンマド・イブン・ユスフはイエメン総督でした。

相当優秀な男だったようで、若くして叔父のもとで内政に取り組み、適切な判断力は抜群のものがあったそうです。

カーシムはまたイラク総督アル=ハッジャージュ・イビン・ユスフとも親戚であり、カーシムの評判を聞きつけたユスフはペルシアで起こった反乱の鎮圧をカーシムに任せ、彼は見事鎮圧してみせました。

この功績で名声が高まったカーシムは、わずか16歳でインダス川に沿ったシンド地方とパンジャブ地方の征服を命令されました。

当時のパキスタン周辺の海域は、クチ、デバル、ローリ、カーティヤーワールなどを本拠とする海賊が跋扈しており、インドとの安全な交易ルートの確保にはシンド地方とパンジャブ地方の制圧が必須と考えられていたのです。加えて、征服したササン朝ペルシアの王族がこの地方に逃げ込んでいたのも要因の一つでした。

カーシムは6,000のシリア騎兵と6,000のラクダ騎兵、5機のカタパルトでインダス川に沿って進み、海賊の港町デバルを制圧。次いでローリの町を攻め、領主ダハールの軍勢を打ち破りました。シンド地方を制圧したカーシムはその後内陸に攻め入り、ダイブール、ニルン、ブラフマナバッド、アロール、ムルタン、グジャラートまで制圧し、カシミール王国との国境線にまで到達しました。

征服した地域でカーシムは人々にムスリムによる支配を言い渡す代わりに、宗教の自由を認めました。また、命と財産の安全の保証をし、人々を安堵させ平和を維持しました。

カーシムは715年にウマイヤ朝のカリフ、スライマーン・イブン・アブドゥルマリクによってダマスカスに呼び戻されます。そして、そのあまりの名声ぶりを警戒するカリフによって粛清されました。わずか20歳でした。

 

10. クタイバ・イブン・ムスリム(669-715)

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 中央アジアを征服した老獪な将軍

クタイバ・イブン・ムスリムは中央アジアのトランスオクシアナ(Transoxiana)、現在で言う所のウズベキスタンとタジキスタン、カザフスタンの南部、キリギスタンの一部を征服した男です。

生まれはイラクのバスラで、反乱の鎮圧への功を認められてイラク総督アル=ハッジャージュ・イビン・ユスフに取り立てられて、ソグド人の土地ソグディアナの征服に取り掛かりました。当時のソグド人は内紛で分裂していましたが、イスラム軍の侵入によって団結し抵抗を見せ、血みどろの攻防が3年間続きました。709年にクタイバはブハラへの総攻撃をかけ、とうとうソグディアナはイスラムの手に落ちました。

征服後も原住民の反発は根強く、現在のアフガニスタン北部にあたるトハーリスターンでは反乱が相次ぎ、クタイバは兄弟のアブドゥルラフマンの軍勢を送り込んで武力で反乱をねじ伏せる一方、土地の為政者を懐柔したり、モスクへ礼拝に行ったら謝礼を支払うなど、「飴と鞭」を使い分けてでトランスオクシアナのイスラム化を進めていきました。

クタイバはフェルガナ(現ウズベキスタン)やホジェンド(現タジキスタン)にまで軍を進め、クタイバの軍は唐の領土にまでは到達はしなかったようですが、唐王朝に使節を送り連絡はとっていたようです。

715年、クタイバはフェルガナ攻略戦に取り掛かっていましたが、ダマスカスではカリフ、ワリド1世が死亡し、弟のスライマーン・イブン・アブドゥルマリクが新スルタンに就任しました。

クタイバはワリド1世の息子の即位に賛成し、スライマーンのスルタン就任に反対していたため、スライマーンによってトランスオクシアナの総督を解任されるのではないかと恐れました。クタイバはスライマーン側と交渉するも、決裂したため反乱を決意。配下の部隊に蜂起の号令をかけるも、それに賛同したのは近親者と近衛兵くらいで、度重なる軍事遠征で疲れ切っていたペルシア人部隊は蜂起に対し反対し、クタイバを捕らえて殺害してしまいました。

カリスマ・クタイバが殺害されたとの報を聞き、ブハラやサマルカンドを始め、トランスオクシアナ全体で反乱が相次ぎ、とうとうアラブ人はトランスオクシアナから撤退を余儀なくされました。

ウマイヤ朝が再びトランスオクシアナを回復したのは、28年後のナスル・イブン・サイヤールによる遠征によってで、この遠征によってかの有名なタラス河畔の戦いが勃発し、中国とイスラムの国境線が定まるに至ります。

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まとめ

イスラムの急拡大は凄いですが、この時に一気に拡大して止まった領域内が、現在でもほぼイスラム教圏になってるのもまた凄いですね。 例外はイベリア半島とその周辺くらいでしょうか。

イスラム拡大の前半戦は、鉄の団結を誇るアラブ人の兵が中心になって展開されましたが、イスラムの拡大の後半戦になり征服戦の領域がとてつもなく拡大していくと、アラブ兵だけでは足りなくなり、ペルシア兵やベルベル兵など新たなイスラムに加入した現地の兵を中心にせざるを得なくなっていきます。

 そうでもしないとやっていけなかったのでしょうが、彼らはやはり心を完全に許していなかったというか。自らの文化やアイデンティティを持つ人々は、いくら恩賞や報酬を与えても、やはり完全にはついていけなったのではないかと。

心からのそこにイスラム拡大の限界があったような気がします。

 

参考サイト

物語 スペインの歴史―海洋帝国の黄金時代 (中公新書) 岩根圀和 著

 "Tariq bin Ziyad — The conqueror of Spain" ARAB NEWS

عبدالرحمن الغافقي.. استشهد في بلاط الشهداء - جريدة الاتحاد "عبدالرحمن الغافقي.. استشهد في «بلاط الشهداء»" 

"The Battle of Tours - 732 AD" CLASSIC HISTORY

"Muhammad Bin Qasim" HISTORY PAK

Muhammad bin Qasim - Wikipedia

"Qutaybah ibn Muslim" ENCYCLOPEDIA BRITANICA

Qutayba ibn Muslim - Wikipedia