サバイバル・オブ・ザ・モモンガ 作:まつもり
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森へ一歩足を踏み入れると、ひやりとした空気を感じた。
これは気のせいでは無く、本当に温度が下がっているのだろう。
直接日の光に当たらない木々の下の土は、草原の土と比べると冷たい感覚が裸の足から伝わってくる。
幸い森の地面は背の低い草や苔に覆われており、それらが歩行を妨げることはなかった。
地面の上を這う木の根に躓かないように気を配りながら、周囲を注意深く見渡した。
(木や葉が密集していてあまり視界は良くないが……、特に大きな生き物の姿は見当たらないな)
鳥の鳴き声らしきものが、遠くから響いてくる。
自分の足が落ちている枝を踏み折る音、風に木々の葉が擦れあう音すら大きく聞こえるに森の中は静かだった。
自然の中とは思えない静寂に、モモンガの胸に奇妙な不安が湧き上がってきた。
森の中の得体の知れない生物達が、今にも自分を襲おうと息を潜めながら様子を伺っている。
そんな想像をしてしまったモモンガは森の入口から三十メートル程のところで一旦足を止め、やはり一度戻ろうか……、と来た方向を振り向いた。
この時のモモンガは、特に具体的な危険を察知していた訳ではなかった。
単なる偶然か、それとも無意識の内に何かの気配を感じていたからこそ、あのような想像をしてしまったのか。
モモンガが森の入口の方向へ振り向く途中、移り変わる視界の中で何かが自分のすぐ近くに迫っている様子を捉えた。
考えるより早く、咄嗟にそれを手で払いのけようとしたモモンガの右腕に何かが飛びついた。
「なっ!?」
モモンガの右腕、肘の近くに飛びついた物の正体は巨大な蛇の頭だった。
それが鋭い牙を剥き出してモモンガの腕にがっしりと噛み付いており、モモンガは衝撃によって地面に押し倒されてしまった。
予想外のことに慌てふためきそうになるモモンガだったが、何故か急に頭に冷水を差されたように落ち着きを取り戻し、思考する余裕が出来る。
(蛇? 噛み付かれているが特に痛くは無い……、やばいっ、蛇には毒がある筈って……、今の自分はスケルトンメイジだ。 毒など多分効かない。 落ち着いて蛇の顎を外して……っ!)
一旦落ち着いて自分の状況を分析し、その後少し慌てかけ、すぐに落ち着いて対処しようとする。
短時間の間に何度も精神沈静化が発動して興奮と冷静の間を行き来するモモンガだったが、最後には蛇の姿を改めて見て自分の命の危険を予感した。
(この蛇、ユグドラシルのジャイアントスネークに色が酷似していないか? それにこの小さめの丸太と同じくらい太い胴体。 確かこいつは毒は無いけど、相手に巻きついて締め付ける攻撃をして来た気が……)
モモンガが思い出した記憶をなぞる様に、蛇は胴体をうねらせるとモモンガの身体に自分の身体を押し付けてきた。
蛇に噛み付かれた時は混乱こそしたが痛みは全く無いために、命の危機は感じなかった。
骨の身体になってしまった今、蛇の牙で噛み殺されることは無いだろうと、どこかで考えていたのかも知れない。
だが、蛇の冷たい皮の下から伝わる分厚い筋肉の動きが、モモンガに確かな死の恐怖を自覚させた。
「くそっ、外さないとっ! 離せ!」
まだ自由に動く左腕を使い蛇を身体から引き剥がそうとするが、魔法の力を持つせいで肉体的には非力なスケルトンメイジの力では、筋肉の塊である蛇を引き剥がすことは出来ない。
それどころか蛇に伸し掛られてバランスを崩し、右手と胴体に巻き付かれてしまった。
右手から骨が軋む音と共に鋭い痛みが伝わり、肋骨にも圧力と共に鈍痛が襲いかかる。
この世界で始めて味わう痛みに、モモンガは全身に巻き付かれ少しずつ骨を砕かれていく未来を幻視した。
(召喚魔法で……、ダメだ。 さっきのグールは命令通りに動くことは確認したけど、複雑な行動を取らせるのは難しそうだった。 手間取っている内に自分が絞め殺されてしまうだろう。 だったら一つだけ覚えてる攻撃呪文で……いや、しかしこんなに密着されていては自分にも当たるのでは?)
だがモモンガが逡巡している間にも蛇は、力を弱める気配を見せない。
このままだと、いずれ殺されてしまう。
モモンガは意を決し、攻撃魔法は自分には影響を与えないというユグドラシルのルールが適応されていることを祈りながら、何とか左手の人差し指を蛇に巻き付かれた右腕へと向けた。
「《マジック・アロー/魔法の矢》」
詠唱と共に一つの光球が蛇、そして自分の右腕に向かって指先から飛んでいく。
光球は蛇の頭近くの胴体に吸い込まれ、真っ赤な血が宙に溢れた。
「う……、ぐうっ!?」
そして同時にモモンガの右腕にも、先ほどまでとは比べ物にならない激痛が走る。
攻撃を喰らって蛇が締めつけを解いた感触を、沸騰する頭の中で感じたモモンガは、地面を転がりながら蛇と距離を取った。 ゴツゴツとした木の根が背中を叩くが、右腕の痛みと蛇の様子に意識が集中しており、その程度の痛みはもはや気にもならない。
胴体を大きく損傷しながらも、蛇は未だに動きを止めずにのたうち回っている。
明らかに致命傷を負っており絶命は時間の問題だったが、モモンガは激しく動く蛇に恐怖を感じ、もう一度魔法の矢を撃って確実に止めを刺した。
蛇が血だまりの中に沈んだことを確認したモモンガは、とにかく森から脱出しようと必死に入口へと走る。
モモンガに右腕の状態を確かめる余裕が出来たのは、やっと森から抜け出した後だった。
「覚悟はしていたが、これは………」
モモンガの右腕は、上腕の途中から完全にちぎれ飛んでいた。
その断面は鋭利なものではなく、衝撃により砕かれた無残なものだった。
もう痛みは無くなっていたが、その傷を見たモモンガの中に迂闊に森に入ってしまった後悔と、命を失いそうになった恐怖、そして生き残ったという安堵が同時に湧き上がってきた。
(くそっ、草原で特に何事も起こらなかったから警戒心が緩んでしまっていたのかもしれない……)
右腕を失ってしまった上、1レベルでは10MPあるマジック・ポイントも既に六割に減ってしまった。
モモンガは森の中にいるよりは草原にいる方が奇襲を受けづらい分、まだしも安全かも知れないと考え、森から離れた場所に一旦腰を下ろして今後の行動を再度検討することに決めた。
徐々に日が暮れ、草原に夜の帳が降りていく。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
既に日が暮れて暫く経つが、自分の魔法で破壊された右腕に何も変化は見られなかった。
(スケルトン系はヴァンパイア系と違って自然治癒能力を持っている種族が殆どいない。 スケルトンメイジもそうだから薄々は予感していたが……、時間経過で回復なんて都合の良いことはないか)
初めからその可能性にはあまり期待していなかったが、実際に結果が目の前に突き付けられると、やはり落胆を覚える。
だが他にも、右手を治せるかも知れない可能性に心当たりが無い訳ではない。
モモンガは左手に付けた、透明な宝石に眼球のような意匠の彫刻が施されている指輪に目をやった。
この指輪は、秩序の化身がドロップしたワールドアイテム、絶対正義の証。
大層な名前ではあるが、ユグドラシルで確認したその効果は随分とたちの悪いものだった。
簡単に言えば、絶対正義の証は運営により管理されている街の治安維持システムを捻じ曲げるものだ。
絶対正義の証の所持者、及びその者が所属する六人一組までのパーティーは街中での一切の不法行為により罰せられることは無い。
しかも、このアイテムの影響下にある者が他のプレイヤーを攻撃した場合は何も罰を受けることが無いが、もし被害を受けた者が反撃してしまえば、そのプレイヤーが一方的に犯罪者になってしまうのだ。
他にも自分の種族では入れない街への侵入を可能とする能力を持ち、極めつけにはある条件を満たすことで他のプレイヤーに冤罪をかけることも出来る。
どのような行いとしようともその所持者は常に正義、だから絶対正義の証。
これをナザリックの全盛期に手に入れていれば、これを使うか使わないかでたっち・みーさんと他のギルドメンバー間でひと悶着起こったかも知れない、とモモンガは思う。
但しこれらの効果は使いたい放題という訳ではなく、様々な制限も設けられている。
それぞれの効果の一日の使用回数が制限されている他に、自動POPモンスターやプレイヤーを倒すことで蓄積される功績点を消費する必要があるのだ。
この功績点は自分とのレベル差が上下十レベル以内かつ、五レベル以上のモンスターを倒した場合、そのレベルに応じた点数が入る。 具体的には五~二十レベルならば一点、二十一~四十レベルなら二点という風に一点ずつ増え、八十一レベル以上のモンスターならば五点が入る。
もう一つはプレイヤーを倒した場合にそのレベルと等しい点が入るが、同じプレイヤーからは二十四時間に一度しか点が入らない。
ワールドアイテムの所有権を失う条件も、指輪を持った状態で他のプレイヤーにPKされた場合、とかなり厳しく所有者も完全にやりたい放題出来るという訳では無いようだ。
最大で一万点まで蓄積できる功績点を消費することで様々な効果を発揮できるが、その中で一つ今の場所でも使用出来るかも知れない効果がある。
点を消費すれば最後に立ち寄った街に存在する、NPCが管理する商店で売られている品物の調達が出来るのだ。
そして、買い物には直接商店へ行く必要は無いようだ。
モモンガが指輪に意識を集中するとアイテムの効果により特殊コンソールが出現する。
功績点を消費して発動出来る様々な効果が現れるが、モモンガは先程試した時と同様に、商品を巻き上げるという項目を選んだ。
どうやらこの指輪の設定上、点を換金している訳ではなく点を消費することで店から商品を巻き上げているということになっているらしい。
ただユグドラシルのゲーム内商店では大した物は売られていない。 ポーションや短杖は第二位階魔法が込められたものまでだし、スクロールは第一位階と第二位階の魔法を使えるものが、全ての系統を合わせても五十種類程。 全体数からしてみれば話にならない少なさだ。
勿論データクリスタルも買えないし、初めから完成している店売りの装備もあるにはあるが初心者向けの物ばかり。
書店もあるが上級の転職用アイテムや傭兵の召喚アイテムなどの、高い価値のある物は置いていない。
これは製造職のプレイヤーへの運営の配慮だと考えられており、殆どのプレイヤーはごく初期にしか商店を利用する機会は無い。
幾つかの店舗の選択肢が出現するが、その中でモモンガは薬品店の項目を選んだ。
(異形種が多いヘルヘイムの店だからか、負のダメージを与えるアンデッド用の回復ポーションがあるのは助かるが……、第一位階魔法が込められた最下級のポーションで二十五金貨。 レートは一点につき三十金貨だから、一点か。 今は零点だし手が出ないな。 さっきの蛇は功績点の加点対象では無いことは確からしい)
そもそもこの世界の生物にユグドラシルのシステムは適応されないのか、それともあの蛇が五レベルに達していなかったからなのか。
そういえば噛み付かれたことによる痛みも感じなかった。 今思えば、蛇の鋭い牙に対して刺突武器への耐性が働いたからかも知れない。
だとすれば、スキルはこの世界の生物にも通用するのだろうか?
森で戦った蛇がユグドラシルのジャイアントスネークに似ていると感じたモモンガは百科事典で調べてみたのだが、確かに柄や色などかなり似通っているように思う。
しかし、あくまで自分の記憶のみによる確認なので、もしかしたら姿が似ているだけかもしれない。
あの蛇の死骸を確認すれば、もっとはっきりしたことが分かるのかも知れないが、今は森に戻る気にはなれなかった。
絶対正義の証が使えない以上、残る選択肢は一つだ。
《マジック・アロー/魔法の矢》が自分にダメージを与えたという事は、その逆も然り。
負属性の魔法を自分に対して使えば、体力を回復することも可能なのではないだろうか。
黒の叡智はオーバーロード五レベルで覚えるスキルであり、黒の叡智で覚えた魔法を使うには、もう一度黒の叡智のスキルを取らなくてはならない。
あのスキルを取ったのは、総合レベル九十以上の時だったから今の自分には到底手の届かない話だ。 レベルダウンした際、レベルを取り直すには二種類の方法がある。
また新しく転職条件のアイテム等を集め、全く新しいビルドにする場合と、レベルダウン前と同じビルドのまま、レベルを上げなおす方法。
後者の場合は、わざわざ再度条件を満たしたりアイテムを集めなくてもいいというメリットはあるが、途中で一レベルでも元々そのレベルで取った職業や種族レベルと違うものを入れてしまう、または違う魔法を習得してしまうと、その先は新しく条件を満たしていく必要がある。
特にコンソールを弄らない限り基本的には後者の方法でレベルを取り戻して行くので、ユグドラシルのシステム通りならば、元々覚えていた魔法を再度習得していける筈だ。
確かレベルアップにより覚えた第一位階魔法の中で、負属性のダメージを与える魔法は二つ。
その中の一つでも習得出来れば、回復手段として使える可能性が高いだろう。
(問題はレベルアップがどうなっているかだよな。 ゲームだとモンスターを倒せばレベルアップ出来たが、ここは少なくともユグドラシルのルールが全て通用する世界ではないことは確かだ。 ゲーム的に考えれば他の生物を殺すことでレベルアップ出来るかもしれないが、レベルアップ自体存在しない可能性もあるな……)
可能性としてはどちらも有りうるが、こればかりは試さなくては分からない。
その後モモンガは、既にレベルアップしている可能性も考慮し習得していた第一位階の魔法を全て呟いてみたが、何も起こらなかった。
(少なくとも、今はレベル一であることは間違い無さそうだな……。 しかしレベルアップが存在するならその確認の方は遠くない内に出来るだろう)
幸いにして、ユグドラシルでは一レベルから二レベルに上がるのは非常に簡単だ。
スケルトンなどのレベル一以下のモンスターなら五匹程度。
レベル一以上のモンスターなら、更に少数でレベルアップ出来るはず。
(今の自分はレベルアップすることが可能なのか。 そしてこの世界の他の生物にレベルという概念があるのか。 その辺りを把握して最低限の強さは手に入れなければ、隠れ家探しという段階にさえ辿り着けないな)
だが、それは今日では無い。
もう魔力が六割しか残っていないし、他の生物を殺しレベルアップの可能性を確かめるにしても、最大限の準備は必要だとモモンガは考えた。
少なくとも、あの蛇のような奇襲される形での遭遇戦だけは避けなければならないと、モモンガは失ってしまった右手を見つめながら自分に言い聞かせた。