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社説

食料主権の問題です 種子法廃止に考える

 植えたての田んぼに梅雨は慈雨。緑が映える見慣れた景色。でも待てよ、日本の主食と言いながら、そのもとになる種子のこと、私たち、知らなすぎ。 

 昨年四月、国会は種子法の廃止を決めた。審議時間は衆参合わせて十二時間。その法律がそれまで果たしてきた役割も、廃止に伴う人々の暮らしへの影響も、そもそもそれがどんな法律なのかも、恐らくほとんど知られずに。

 正しくは主要農作物種子法。わずか八条の短い法律だった。

 主要農作物とは稲、大豆、はだか麦、小麦、および大麦-。つまり主食系である。

 「あって当たり前の空気のような存在として、ことさらその大切さを考えることが少なかった法律と言えよう」

 龍谷大教授の西川芳昭さんは「種子が消えれば あなたも消える」(コモンズ)に書いている。

 種子法の制定は一九五二年の五月。サンフランシスコ講和条約が発効し、この国が主権を取り戻した翌月だった。

戦争への反省に立ち

 第二次大戦末期、米や麦は一粒でも多く食用に回さねばならなくなり、種を取る余裕を失った。そのことが戦後の食糧難を一層深刻にしたのである。

 種子法も憲法と同じ、先の大戦の反省に立ち、私たち国民を守るために生まれた法律だった。

 もう二度と、種が途絶えて人々が飢えることのないように、穀物の優良な種子の開発と安定的な供給を都道府県に義務づけたのだ。

 これを根拠に都道府県は、その土地の気候風土に合った奨励品種を定め、公費を使って作出し、その種子を安く農家に提供し続けてきた。

 稲の場合、種子の流れはこうである。

 まず県の農業技術センターなどで「原原種」が生産される。原原種とは、せっかく開発した優良品種に別の“血”が混じらないよう、公的機関が毎年責任を持って生産する大本の種のこと。CDで言えば原盤だ。「原原種」を増殖させたものが「原種」である。この原種がさらに特定の種子農家のもとで増やされて、一般の農家に販売される。

競争原理はそぐわない

 その種子法がなぜ廃止されたのか。おととし秋に国が定めた「農業競争力強化プログラム」には次のように書かれている。

 <戦略物資である種子・種苗については、国は、国家戦略・知財戦略として、民間活力を最大限に活用した開発・供給体制を構築する->。そのためには<地方公共団体中心のシステム>である種子法が、民間の開発意欲を阻害していたというのである。現政権お得意の「成長戦略」の一環だった。

 種子法廃止で都道府県が直ちに種子の供給を止めるわけではない。だが、海外の大資本の参入により、日本人の主食を守り続けてきた「公的種子」の開発、供給システムが、崩される恐れはある。

 モンサントやデュポンなど、わずか八社で世界の種子の売り上げの約八割を占めるという。

 種子法の対象外ではあるが、少し前まで日本の野菜の種は、100%国産だった。今や九割が海外生産だ。そして大半が、自家採種が不可能なハイブリッド(F1)の品種に取って代わられた。

 野菜の種子の価格は、四十年前の約三倍になったという。

 「ニンジンがニンジンくさくなくなった。ピーマンがピーマンくさくなくなった。においも味も、どんどん画一化されていく。それがつまらなかったんだなあ」

 「あいち在来種保存会」代表の高木幹夫さんが、地場の希少野菜の種を集め始めた理由である。

 「農作物の多様性、豊かさを守るため、私は“種採りじじい”になった。種子の種は、種類の種でもあるからね」

 米や麦が近い将来、野菜のようにならないという保証はない。

 種子法廃止で一つ確かに言えること。多様性の喪失だ。

 市場競争の勝者による淘汰(とうた)が進み、種子の多様性が失われ、消費者の選択肢も次第に狭められていく―。

自分で選ぶべきだから

 そもそも種子は命そのもの、命をはぐくむものである。だから「みんなのもの」だった。すべてを競争原理の世界に放り込み、勝者による独占に委ねてしまっていいのだろうか。

 「これは、食料主権の問題です」と、西川教授は考える。

 私たちが何を育て、何を食べて生きていくかは、私たち自身で決めるべきではないのだろうか。「主食」であればなおさらだ。

 今国会でも復活の声が上がった種子法は、私たち主権者=消費者にも無関係ではないのである。

 

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