石塚真一の有名な山関係マンガ『岳』を読んでると、次のような場面があった。
ある登山者が軽装で雪山に入り遭難。
この登山者は行きがけに通り過ぎた山小屋のおかみさんに声をかけられるものの無視。しかしおかみさんが彼のことを覚えており、下山してないことが気にかかり、主人公である山岳救助ボランティアである三歩が助けに向かい無事救助される。
そのエピソードの最後の部分が以下のコマ。
山での挨拶は単なるマナーではない。互いに存在を確認し合うためのものなんだと理解。
道迷いからの遭難、滑落などで下山できないなど、山の「もしも」が起きたときに、「あ、その人は○○のあたりですれ違いましたよ」と自分のことを覚えておいてもらえるのは気持ちのいい挨拶を交わしたからかもしれない。もちろん登山届を提出するのは、一般登山者だろうがトレイルランナーだろうが、山に向かう者としては当然の義務だと思う。しかし、どのあたりまで進んだのか、最後に見かけたのはどのあたりなのかがわかるのは、GPSを装備していない場合などは山での挨拶が身を救うのかもしれない。
以前、奥多摩エリアで遭難したトレイルランナーの捜索に参加したことがあった。残念ながら1年以上に渡り発見されなかった。先日ようやく見つかり、自宅に戻ることができたそうだが。
その人物は登山届けを出していなかったため、ルートも特定できず、しかも見かけたという情報もないため、広範囲の捜索になった。もし彼が登山届を提出しており、そして山小屋などに立ち寄り小屋番さんに挨拶をしていたり、ルートで出会った人に挨拶をしていれば、ひょっとするとその情報から手がかりを得られたのではないかと思う(もちろんあくまでも可能性の話だけれども)。
相変わらずトレイルランナーのマナーの悪さについてはいろいろなところで話を聞く。先日「丹沢ボッカ駅伝」にて第一区間を担当し40kgの砂利を背負って登っていた際、前方から来たトレイルランナーが挨拶もせず、しかも歩きモードにもならず素通りしていくことを3度体験した。こちらは重量のあるものを背負っているので、不意に避けることはできない。正直、やばい、これは怖いと思った。自分もトレイルランナーの端くれだけれども、ハイカーの立場になって考えるということがより大事に思えた瞬間だった。
挨拶を交わすというのは「相手のことを気にかける」「相手の存在を認識している」ということなんじゃないかと思う。それゆえ挨拶ができるトレイルランナーはハイカーのことを気遣って、ハイカーに近づくと歩く。その逆で、挨拶ができないトレイルランナーは高速でハイカーの横を通っていっても気にしないってことなのかと。
これまで言われてきたトレイルランナーの「挨拶しない」というマナーの悪さは、ハイカーたちに対しての失礼な態度としてのみ捉えられてきた。しかし、もしトレイルランナーも、「挨拶をする」ということを自分自身の「もしものときの命綱」だと考え始めたらどうだろう? 山小屋での態度、すれ違うハイカーへの態度などなど、それらがすべて「自分ごと」として跳ね返ってくると考えられないだろうか?
山での挨拶は他人に対するマナー以上のものがある。
それゆえに、挨拶は自分自身のためにもすべきである。
と考えると、トレイルランナーのマナーも変わってきたりしないのかな、と。
↓トレイルランナーも一度は読むべきマンガです。