抜けるような晴天の空の下、ガラガラと轍を無視して馬車が走る。
数日前に降った雨のせいで所々ぬかるんでおり、水溜りの泥はねが車体を汚す。
四頭立の品の良い意匠の馬車は、それに乗るものが高貴な身分である事を示している。事実、馬車の側面にレリーフとして彫ってある模様はこの王国の有力貴族のものであった。しかし一流の職人が手間と暇をかけて磨いたキャビンは無残にもクナイ──イジャニーヤが使う暗器──がいくつも刺さっている。御者は既にクナイにより事切れており、激しく揺れる御者台に引っかかっており、大きな揺れの度に激しく跳ねる。クナイでの攻撃に興奮した馬が暴れてデタラメに走っているので、中に居る者は気分が悪くなるだろう。
いや、それ以前に中にいる人物は気が気ではないだろう。暴走した馬車に乗っていることもそうだが、この世界、特に人間の支配する国々で有名な暗殺集団であるイジャニーヤに命を狙われているのだから。
乗り心地を追求した馬車とは思えない音を出して疾走する馬車の、車輪の軸が大きく歪んだ。とうとう重さを支えられなくなったキャビンが大きく傾き横倒しになる。それに引きずられた馬も横倒しに倒れ、固定していた紐が切れた三頭は散り散りに逃げ、残りの一頭は回り込んでいた暗殺者にとどめを刺されて動かなくなった。
圧倒的有利な状況にも関わらず、馬車を囲む影はどれも慎重に距離を縮めている。
それまで物音一つ立てなかった馬車の扉がゆっくりと開く。中から出てきたのは顔色の悪い男だった。
細い金髪は後ろに撫で付けられ、肉付きの薄い顔は陽に当たらない青白い肌と合わせて幽鬼のようだ。更にそこだけは爛々と輝く鋭い目。狡猾な蛇の雰囲気でもって、馬車の持ち主── エリアス・ブラント・デイル・レエブンは睥睨する。
「暗殺を企むとは叔父上は余程私が邪魔と見える。既にここの領主は私と決まっているのに往生際の悪いことだ」
貴族特有の整った顔は馬車が横転した時に負った傷から血が出ていた。特に鼻からの出血は多く、それを仕立ての良い服で乱暴に拭う。万一の護身用にと持たされていた剣を抜くと構える。
「既に近くの街へ追加の護衛と増援を送らせた。私が多少ここで時間を稼ぐだけで立場が逆転するが、逃げなくていいのかね?」
エリアスの言葉に襲撃者の間で動揺が走る。互いに顔を見合わせて一体何の事かと窺う中で、「赤い煙!」という声がし、それに他の者も思い至ったのかより一層の動揺が続く。
馬車が倒れるしばらく前、キャビンから赤い煙が空高くに立ち昇っていた。それを見過ごした事に今更ながら後悔しているのだろう。
エリアスは一気に統制を失った賊の評価を下げる。侯爵の地位すら継げなかった叔父が雇った者たちとはいえお粗末すぎる。そこそこ腕は立つようだが、本物のイジャニーヤではないとは思っていた。しかしこちらの言葉にここまで動揺する烏合の衆とは思わなかった。
そもそも、本物のイジャニーヤならばここまで追い詰められているのに自分が生きているはずがない。これ見よがしにイジャニーヤの使う武器を持ち、顔を隠す布を巻いているだけで襲撃者達からは強者の持つ覇気というものが感じられなかった。もっとも、戦う者では無いエリアスに相手の技量を推し量る術があるわけでは無い。しかし本物ならそれを超えてこちらに訴えかける凄まじさがあるのだ。
結局これらはイジャニーヤを騙る盗賊団。
その一つの根城が近くにあったという報告を懇意にしているミスリル級冒険者から聞いていた事を思い出した。
(エ・レエブルに着いたら叔父と共に消すか)
冷徹にそう決断したエリアスは改めて状況を確かめる。
自分は今横倒しになった馬車から出てキャビンの上に立っている。一方襲撃者は自分よりも低い位置だ。高所の利があるとは言え荒事に慣れた彼らと比べると手習い程度の自分の腕が通じると思えない。とは言え相手の人数は十数名。先程の様子から二、三人手傷を負わせれば戦意が無くなって逃げるだろう。
「偽物が小銭に釣られてきたか」
見回した後、一番手前に居た襲撃者に目をつけたエリアスの挑発する言葉。襲撃者達はエリアスの言葉に怒ったのか、暗殺者では決して出さないであろう大声で叫びながら手にした獲物を振りかぶる。短剣であるそれを手に持った剣で受けたエリアスは重心をずらしながら位置を調節する。相手は冷静な目でこちらの挙動を見つめるそれを真正面から見つめ返し舞台を整え終わったエリアスは、一気に力を抜いて後ろに下がる。
情けない声をあげながら勢い余った男は短剣を馬車に深々とつきたてた。必死に抜こうとする男の首に剣を当てながら、エリアスは他の襲撃者に言った。
「今ならお前達を生きて帰してやる事もできる。身内の醜聞は内々に片付けたいからな。それとも、我が領地が誇る精鋭を相手にして命を散らすのが好みかね?」
挑発的な笑顔を浮かべながら見回す。仲間が人質に取られてもなおこちらとの距離を測っていた盗賊達の耳にこちらに向かう馬車の音が入る。速度は決して速くないが音は一つでは無く、複数の馬車がこちらに向かっている事がわかる。
「存外早かったな。お前たち程度に過剰かもしれんが、なに。わかりきって居るとは言え首謀者を教えて貰わねばならないからな」
ゴクリと唾を飲み込んだ一人が背中を見せて逃げ出す。それにつられ一人また一人と後退していき、遂に全員が最初に斬りかかった男を残して一目散に逃げていった。
それを憮然とした表情で見送ったあと、エリアスは襲いかかってきた男に向けていた剣を引く。
「また助けられたなロックマイヤー」
「全くです。無茶はこれっきりにして欲しいですよ、レエブン殿!」
剣を馬車に突き刺したままの不格好な姿の男は人好きのする笑い声を上げた。男──ロックマイヤーにつられてエリアスも愉快な笑みをうかべる。ロックマイヤーは馬車に刺さった短剣を素早く引き抜くと、顔を隠していた布を引き下げ一息つく。
このロックマイヤーという男は今回エリアスが雇ったエ・レエブルを拠点にするオリハルコンチームの冒険者だ。比較的安全だと思われていた遠出の護衛として依頼を出したが、ロックマイヤーの所属するチームに別の依頼が入ってしまった。そんな中どうしてもという事で今回一人だけでの護衛となっていたのだ。
他にも鉄級の冒険者が何人か居たのだが、駆け出しを抜け出したばかりの彼らよりは今回の襲撃者は上手だった。自分達が引きつけエリアス達を逃す為にと残ってくれたが、生存は期待しない方がいいだろう。
結局一気にこちらの戦力が減ったところでの敵別働隊の登場に、即興で一芝居打つことになったのだ。
先程襲撃者を追い払う為に使った〈幻聴〉の巻物で馬車が来るように誤解させたが、もしも相手に高い知覚能力を持った者がいたら失敗に終わっただろう。
「不可視化に気づく奴が居なくて、運良く奴らに紛れられたから良かったですけど、失敗したらどうするつもりだったんです?」
“見えざる”という二つ名を持つ自分のスキルと、馬車からバレないように抜け出す技術、襲撃者の中に紛れる為の魔法が付与された服。それに加えもしもの時を考えに考えたロックマイヤー自身の完璧な準備。実際に<幻聴>の巻物など滅多に使わないマイナーな品だ。この作戦はその全てが揃い、尚且つエリアスの胆力があったからこそ成功した。
どれか一つでも揃っていなかったり、相手が注意深かったら失敗していただろう。
「その時はこの巻物で私を転移させる手筈だろう? 第一、盗賊とは言えオリハルコン級である君があの程度の輩に遅れを取るとは思えないが?」
懐から魔術協会の封蝋がしてある巻物を取り出したエリアス。中には<次元の移動>が込められている。それを再びしまう雇い主に呆れ半分のロックマイヤー。
「命惜しさに俺が自分に使うとは思わないんですか?」
「長い付き合いの君がするとは思えないな。私の人を見る目は確かだよ。──ただ一人の例外を除いてね」
「またあの姫さまの話ですか? 聡明で美しい方って事以外特に何とも思わないですけどね」
「確かに今お会いするラナー王女はそう見える。私の見間違いだったのだろうさ」
苦笑と共に馬車の上から飛び降りたエリアスは街道の方へ歩き出す。
エリアスが継ぐ事になるこの領地は人間の国が寄りあつまる中でも外敵が比較的少ないリ・エスティーゼ王国にある。隣国であるバハルス帝国と広大な森林と山脈を挟んでいるこの領地は他の領地と比べて豊かな資源がある代わりにトラブルも多い。
例えばそれは森から縄張り争いに負けて人里へ降りてくるゴブリンやオーガである。正式な領主となる前に各地の視察に訪れていた帰り道である今回の襲撃は、やはり現領主である父の弟が首謀者の可能性が高いだろう。
王国でも特に力をもつと言われる六大貴族に名を連ねるレエブン家ではその権力を維持する為に財産を分けずに一人の者へ継がせる。それはこの王国では別段珍しいことではないが、やはりそれにあぶれた者からは恨みを買うのである。
街道の脇にある大森林。それに背を向けて歩いていたエリアスは後ろを歩く盗賊の様子がおかしい事に気づく。
「レエブン殿。こいつはかなりまずいですよ。とりあえず走ってください」
「何が起こった?」
「おそらくだが森からモンスターの団体様がくるみたいだ。勝てない事は無いとは思うが、正直庇いながらだと自信がない」
現在エリアスは危機管理の全てを上級冒険者であるロックマイヤーに一任している。その彼からの指示に従い慣れない全力で走る。久々のまともな運動でエリアスの息はすっかり上がってしまった。
やっとの思いで街道に戻り、森へ振り向いた時にそれは現れた。
十を超えるゴブリンに三体のオーガ。それにジャイアントスネークや見た事も無い昆虫型のモンスター。将来この領地を、そしてこの国を手に入れる為に入念に準備をし、様々な知識を蓄えているエリアスでもわからないモンスターの群。その光景に場数を踏んでいる筈のロックマイヤーの口からも絶望の声が漏れる。
「森の深部にしか居ない奴らもいやがる……」
大森林の深部は冒険者でも上位の者しか立ち入れない。それは生息するモンスターが強く、強さが一定以下の冒険者では無駄死にになってしまうからだ。そんな森の、更に深部からのモンスターだという発言に、豪胆なエリアスも顔を青ざめさせる。
何故このタイミングで……
そう思わざるを得ない。
「でもこいつは不自然だ。まるで何かから逃げてきてるみたいに見える」
「こいつらを逃げ出させるなんてどんな化け物だ」
「逆に大英雄かもしれませんぜ。アダマンタイト級の奴らとか」
例えに人類の最強格とも言えるアダマンタイトが出るあたりいかにこのモンスターたちが脅威なのかがわかる。街道を乗り越え、更に西へと逃げようとしたところで不快な鳴き声が上がる。
それに振り向くと、いくつものモンスターの死骸。そしてそれを追うように一つの存在がゆっくりと森の中から姿を現した。
それは体を覆う漆黒のローブに身を包み、手には太陽の光を受けて鋭く光るガントレット。ちらりと見えた顔は、不気味で奇妙な仮面で隠されていた。年齢も性別も不明。唯一その格好から言って魔法詠唱者だろうか、といった程度だ。エリアスがロックマイヤーと顔を見合わせたところで、その魔法詠唱者らしき人間は手を掲げる。
「〈魔法三重化〉〈魔法の矢〉」
強い力がこもった魔法の矢がいくつも男の周りに展開される。そしてそれは全て吸い込まれるようにモンスターに吸い込まれ、攻撃を受けたものは体の一部が弾けた様に抉られ絶命する。
その圧倒的な強さにエリアスもロックマイヤーも動けない。ただただ自らの死すら覚悟したモンスターの群れが殺されていくのを見るだけだ。
全てのモンスターが死んだ後、魔法詠唱者はゆっくりとエリアス達に近づく。
未だに呆然と動けないでいる二人の前に立ったそれは、その風変わりな見た目と反する落ち着いた男性の声を発した。
「すみません。ここはユグドラシル、ですよね?」
心底困っているという雰囲気の声に我に返ったエリアスは首を振りながら答える。
「いや、ここはリ・エスティーゼ王国のレエブン領だ」
すると男は頭を抱えてため息をついた。
「クソ運営め。やっぱり別ゲーにダイブしてるじゃねーか……!」
訳のわからない男の叫びに何も言えずに、二人は頭を抱えブツブツと罵倒らしき言葉を並べる男を見つめる。結局、男が我にかえるまでの時間をエリアスとロックマイヤーはただひたすら棒立ちで過ごした。