この記事は約6分で読めます。
人工知能(AI:Artificial Intelligence)が過去3度目のブームを迎えていますが、今回は過去2回と異なり、ハード・ソフト・データの3点セットが揃ったことで、10 年にも及ぶ長期のブームとなっています。
もはや、「ブーム」ではなく、社会の「インフラ」となりつつあります。
特に、自動運転や自動翻訳の分野は、このブログでも何度か記事を書いていますが、あと2~3年もすれば、人間の生活に必要不可欠なインフラとなっている可能性が高いですね。
人工知能の「インフラ」化
自動運転や自動翻訳以外にも、飲食店の予約までしてくれる人工知能、赤ちゃんの泣き声を翻訳してくれる人工知能、ワインや酒のおすすめ銘柄を教えてくれる人工知能、などなど、「人工知能(AI)」というプラットフォームのおかげで、人間のさまざまな不都合・不便が解消されようとしています。
人工知能は、「知能」というだけあって、身体は基本的に持っておらず、また、各事象の裏にある「意味」まで理解しているわけではありませんが、それでも、過去のパターンを機械学習した結果として、人間の知能の一部を肩代わりしてくれます。
「知能の一部を代替してくれる」ということは、その分、人間が知能を使う必要がなくなり、便利で楽になるわけですが、他方では、これまで人間が考えに考え抜いた末に下していた決断や、さまざまな事象・背景に配慮して下していた判断なども代替されることになります。
「自己責任」の消滅
これらをひっくるめると、人間の「責任」の一部が代替されることになり、「自己責任」が軽くなって、やがて消滅する可能性もある、ということです。
人工知能ではありませんが、たとえば「カーナビ」が普及する前は、車で出かける前に行き先を地図で確認し、道順を覚え、それに従って運転する、という段階を踏むことは、多くはドライバの「自己責任」でした。
デートの時などは、そんな「勇姿」を男子が披露し、それに女子がウットリ(汗)なんて構図もあったんじゃないでしょうか。やがて、カーナビの登場により、男子が「勇姿」を披露できる場面が1つ奪われましたね。
「勇姿」はさておき、かつては道を間違えた場合に、ドライバが少なからず「自己責任」を感じていたと思いますが、今はその必要もありませんね。「このクソナビ!」と、カーナビのせいにすればよいわけですから(汚い言葉で失礼しました)。
では、人工知能が普及した場合の「自己責任」はどうなんでしょう?
運転の自己責任
将来的に自動運転が普及して、人間の負担が少なくなり、事故も少なくなることは良いのですが、現状の道路インフラに自動運転車を投入しても、事故がゼロになることはないでしょう。
現在のようにドライバが運転する車が事故を起こした場合、被害者は、ドライバの「倫理」と向き合えますが、ドライバのいない自動運転車が事故を起こした場合、被害者は、向き合う「倫理」がありません。
車の所有者や自動車メーカに責任を求めるのは難しいため、人工知能(AI)に「電子的人格」を認めて、AI を刑法の対象(主体)にすることも検討されていますが、もし被害者になった場合に、AI の「倫理」と向き合って嬉しいでしょうか?
このように、自己責任が倫理の裏付けとなっている場面は、薬害や公害なども含めて、多くのケースが存在します。ある意味、「人間対人間」の最後の砦となるものです。
人間が介在しなくなると、「自己責任」そのものが消滅してしまい、「被害」という事実だけがポツンと取り残されることになります。
出会い・恋愛・結婚の自己責任
今の 40代~ 50代以上の人に話を聞くと、親戚や近所の「世話焼きおばさん」的な人から「お見合い」の話があった、という経験談もチラホラ残っていますが、このような旧来型の「婚活システム」は、今はほとんど機能していませんね。
これに代わるかのように、人工知能(AI)が「相性」などをはじき出して恋愛や結婚の相手を探してくれるサービスが急激に増えています。スマートフォン用アプリなんかも充実してきています。
以前よりも出会いの場面が少なくなったり、自由恋愛の敷居が高くなったり、そもそも恋愛や結婚に対する価値観が多様化していたり、いろんな要素が絡まった帰結として、このような「クラウド型お節介おばさん」が登場するのは、時代の必然とも言えます。
ただ、このように AI が出会い・結婚をまとめてくれるのは良いのですが、その後の交際なり夫婦生活を築いていくのは、あくまでも人間です。忍耐や多様な価値観に対する理解が不可欠となる作業だけに、「自己責任」との向き合い方が重要になります。
従来型の「お見合い」であれば、「人間型お節介おばさん」が「自己責任」の後押しにもなるのでしょうが、「クラウド型お節介おばさん」の場合、「自己責任」を後押ししてくれるものが希薄に感じられます。
一方で、従来のように人手を介する場合は、「結婚生活がイヤになってもピリオドを打ちにくい」という弊害もありますが、それが AI に代わることで「ピリオドを打ちやすくなった」と考えると、結婚の自由度が増して良いのかもしれません。
イヤでも一生添い遂げるか、イヤになったら次の相手を探すか、どちらに幸/不幸があるのかは、もう少し時間が過ぎないと分からなさそうです。
「クラウド型お節介おばさん」サービスを提供する側としては、出入りが多くなってくれる方が儲かるわけですから、それはそれで1つの有力な方向性なんでしょうかね。
個人的には、出会い・恋愛・結婚を促進する側の AI も良いのですが、その後のケアとして、忍耐や多様性を補助するようにパートナー間を取り持つ AI も登場して欲しいところです。恋愛や結婚に限らず、「出会い」のチャンスだけが増えると、ますます「別れ」が安易になって、なかなか深い関係を築けない気もします。
翻訳・通訳の自己責任
あと2~3年もすれば、日常会話レベルの外国語を学習する理由やモチベーションなんて、なくなってしまうんじゃないかと思います。
ビジネスレベルでも、そこそこ簡単なやり取りであれば、人工知能がすべてやってくれるようになるんでしょうね。
以前であれば、仕事で海外とやり取りする際、四苦八苦しながら外国語(英語)の文面をしたためて・・・というのが普通であり、何かミスがあれば、それこそ「自己責任」と考えて汗をカキカキ修正に追われていたものですが、その手の苦労はなくなります。
ただ、ビジネスライクなレベルであればそれでも良いのですが、そこから進んで少し深い関係になろうとしているのに、いつまでも人工知能頼みでは、いつも第三者(AI)に監視されているような気がして、深まる関係も深まらないような気がします。
「自己責任」の消滅は幸か不幸か
「自己責任」とは、自分の意思で決めた行動の結果に自ら責任を負って「ケリ」をつけることですから、かなり重い言葉です。
その「自己責任」が消滅する、ということは、まさにそのような重しが外れるわけですから、それは「幸」と言えるかもしれません(のび太系男子(女子)にも大歓迎でしょう)。1つひとつの行動が軽くなり、さまざまな活動もさかんになるんでしょう。
一方で、「自己責任」というのは、人と人を近づけるきっかけになったり、人と人の深い関係を担保したり、といった役割があるようにも思われます。「自己責任」があるからこそ、深い所で関係を結ばざるを得なくなる、とも言えます。
単語の意味としては「責任」だけで十分なのに、わざわざ「自己」を強調するあたり、本当は誰しも、本能的に誰かと深い関係になりたいのかもしれません。
まとめ
比較的他人の「自己責任」に強く、自分の「自己責任」に弱いこの日本では、重大な事件や事故が発生した場合などに、「自己責任」という言葉がひょっこり現れます。
やはり、記憶に色濃く残っているのは、今から 14 年ほど前の「イラク日本人人質事件」ですね。数々の「自己責任」論が飛び出して、日本中に「他人を頼っちゃダメなのね」という空気が流れました(よね?)。
イラク邦人人質事件(イラクほうじんひとじちじけん)は、2002年のイラク戦争以降にイラク武装勢力によりイラクに入国した日本人が誘拐され、人質として拘束された事件。特に2004年4月に3名が誘拐され、自衛隊の撤退などを求められた後、イラク・イスラム聖職者協会の仲介などにより解放された事件と同年10月に1名が誘拐され、後に殺害された事件が活発に報道された。なお、米軍のファルージャ攻撃(en:Fallujah during the Iraq War)以後、日本人以外の外国(非イラク)人拉致事件が頻発している。
― Wikipedia より
あれからわずか 14 年。今度は人工知能(AI)の台頭により、「自己責任」そのものが存亡の危機に立たされています(と、言い切ってしまいます)。
「自己責任」という言葉は、今後も辞書に残るのでしょうか?