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鏑木からもらったツボの本は、なかなか面白かった。人間の体にはずいぶんとたくさんのツボがあるんだな~。
むくみ、水分代謝にはおへその上の水分というツボが効く、とな。試しに指で押してみる。う~ん、どうだろう?足の疲れとむくみにはふくらはぎの真ん中の承山ね。うおぉっ、痛い!効いている気がする!
私は手近な丸いぺンで、足の裏の反射区もぐりぐり押した。痛たたた…。
すっかりツボにはまった私は、次の日にシールを剥がして貼るタイプのお灸を買ってみた。お灸は前から気になっていたんだよね~。
痕になると怖いので足の裏から貼ってみよう。湧泉にぺたり。うおぉっ!熱痛い!熱痛いから効いてる気がする!本当か?!
お灸を貼った箇所は赤くなっていた。これは皮膚の柔らかいところや、目立つところにはやらないほうがいいな。足の裏は煙が消えてお灸を剥がすまでうつ伏せでいないといけないのが少し不自由なので、手のひらにすることにした。手のひらの真ん中は労宮か。ぺたり。親指の付け根の魚際は指で押すと気持ちいい~。ここにもぺたり。それから全部の指先に貼ってと…。
煙が消えるまでは指を広げ手のひらを上にし、同時に足の裏のツボも刺激するために前に買った青竹を踏む。土踏まず痛~い!でもこの痛みの向こうに健康が!
「麗華、ちょっといい?」
ノックの音がしてお兄様の声が聞こえたので、入ってくださいとお願いする。すべての指にお灸を貼ってある私の手では、ドアを開けることも出来ないからね。
部屋に入ってきたお兄様は、私の姿に目を見開いで絶句した。
「こんな姿でごめんなさい、お兄様。お兄様もご一緒にいかがですか?」
私は青竹をリズミカルに踏みながら誘った。
「麗華、仕事が一段落ついたら食事にでも行こうか。悩みがあったら相談に乗るから…」
「わぁ、嬉しいですわ」
お兄様とお食事か。だったらそれまでに念入りに胃腸のツボを押しておかないとね。最初はなにこれって思ったけど、いやぁ、いい本もらっちゃったな~。く~っ、効いてる、効いてる!
とうとうこの日がやってきた。2、3年生のメンバーを中心とする、ピヴォワーヌ次期会長を決める話し合いのためのお茶会。
話し合いと言っても、毎年あらかじめ根回しなどがなされ、当日にはほぼ誰が次期会長になるかは決まっていたりするのだけれど。
あー、結局断りきれなかった…。おなかが石を詰め込まれたように重苦しいよ。やだなぁ、来年いっぱい平穏無事に過ごせるかなぁ。ムリだろうなぁ。
ダメ元で円城にお願いしてみようかとも考えたけど、のらりくらりと笑顔でかわされそうだし、もし引き受けてくれたとしても、そのあとが怖い。あいつに借りを作ったら、闇金なみの取り立てに苦しめられそうだ。
しょうがない。自分で解決できないくらいの大きなトラブルが勃発したら、最後はお兄様に泣きつこう。もしかしたら伊万里様も助けてくれるかもしれない。お兄様は頭脳で、伊万里様は色仕掛けできっとなんとかしてくれるはずだ。心を落ち着かせるために、こっそり手のツボを刺激。
「では、来期のピヴォワーヌの会長についてですけれど、どなたか立候補なさりたいかたはいらっしゃるかしら?」
当たり障りのない話題が一通り終わると、現会長の瑤子様が本題を口にした。もちろん私は手を挙げない。自分から名乗りを上げるのは、さすがにちょっと…。
「もし、誰もいらっしゃらなければ私が推薦したいのは…」
「俺がやる」
瑤子様の言葉をさえぎって手を挙げたのは、信じられないことに、皇帝、鏑木雅哉だった。
「え…」
「鏑木様…?」
全員が驚愕した。もちろん私もびっくりだ。
鏑木が自ら会長に立候補?!そんなバカな。あの会長なんて職には全く興味もなさそうな鏑木が?!嘘でしょう、どういう風の吹き回しだ?!ありえない。
「俺では、不満ですか?」
固まる私達に、鏑木が視線で威圧した。それを受けて全員が慌てて取り繕った。
「鏑木様が引き受けてくださるんでしたら、ねぇ?」
「ええ、願ってもないことだと思いますけど…」
「ピヴォワーヌの会長に、鏑木様ほどふさわしいかたはいないと僕達も思いますが…」
でも本当に?全員が半信半疑だった。そりゃあ瑤子様を筆頭にみんな鏑木に会長をやってもらいたいのは山々だったけど、絶対に引き受けないと思っていたからこそ、最初から諦めていたのだ。
「ならば来期の会長はこの俺、鏑木雅哉ということで、異論はないですね?」
全員が頷いた。
「そうですか。では、そういうことで」
鏑木はそう言って話を終わらせると、尊大な態度でソファに背を預け、お茶の香りを楽しんだ。
話し合いが終わると、瑤子様が申し訳なさそうな顔ですぐに私の元にやってきた。
「麗華様、本当にごめんなさいね。まさか鏑木様が立候補なさるとは思ってもみなくて…」
「いえ。今日のことは私も驚きましたもの。でもむしろ、ピヴォワーヌの顔ともいえる会長に鏑木様がなってくださるのなら、これほど心強いことはないと私も思いますのよ?」
「そうですわね。鏑木様はピヴォワーヌというより、今やこの瑞鸞の顔とでも言えるお方ですもの。その鏑木様が会長ならば、水崎有馬率いる生徒会など物の数ではないわ」
「ええ」
「会長の鏑木様を中心に、両脇に円城様と麗華様がいらっしゃる来期のピヴォワーヌ。なんて素晴らしいんでしょう。ねぇ、麗華様?」
ほほほと瑤子様は機嫌よく笑った。
なんだかよくわからないけど、私がピヴォワーヌの会長になるという最悪の事態からは逃れることができたらしい。これで総白髪の運命からは回避だ。
やったー!待てば海路の日和あり!ってちょっと違うかな?果報は寝て待て?これも違う?まぁ、なんでもいっかぁ。うっほーい!
幸運を噛みしめスキップしそうな勢いでサロンを出ようとした私を、鏑木が引き止めた。え、なに。もしかしてやっぱりやーめたって話?それなら絶対に聞かないよ!
「なんでしょう…」
「お前、会長になるつもりだったのか?」
「え?」
なんで鏑木がそんなことを?あぁ、瑤子様との話が聞こえていたのかな。
「誰も成り手がなければ私に、という話はされていましたけど、私自身は会長は荷が重すぎると思っていましたので、出来れば別のかたにやっていただければと思っていましたわ」
「そうか。だったらいい」
なんだそれと思っていたら、鏑木の隣にいた円城が、「雅哉は吉祥院さんから横取りしたんじゃないかって思ってたんだよね?」と説明してくれた。あぁ、そういうこと。
「本当に本心から会長職への野心など持っておりませんでしたから、お気になさらないでください。来期からの会長、どうぞ頑張ってくださいね」
「ああ」
あ、そうだ。忘れるとこだった。
「鏑木様、いただいた本、とても興味深く拝見しておりますわ。ありがとうございました。では、ごきげんよう」
さーて、悩みも解消されたことだし、今夜もお灸をしちゃおうかなぁ。
でも鏑木って、なんで突然会長になろうなんて思ったんだろう?ま、いっか。
朝起きていつものようにお風呂に入って目を覚ます。はぁ、あったかい。髪は朝濡らさないと寝癖が付いてきれいな巻きが出ないからね。
お風呂からあがって鏡の前でスキンケア。化粧水は惜しみなくたっぷりとね。たっぷりと…って。
「わああああっっ!!」
ないっ!眉毛がないっ!!
私は鏡に両手をついて、己の眉毛を凝視した。ない…。
右の眉毛の眉山が、眉頭と眉尻を残してばっさりとなくなっていた。真ん中だけない眉毛…。
片方の眉毛の、それも一部分だけがなくなっただけで、こんなに変な顔になるなんて…。いや、そんな感想を抱いている場合じゃない。なんで右の眉毛がなくなった?!いつからだ?!
とにかくこれをどうにかしなければ。こういう時に一番頼りになるのは…。
「お母様~っ!」
私は手で眉毛を隠して、お母様の元にすっ飛んで行った。
お母様は私の眉毛を見て悲鳴をあげた。
「麗華さん、貴女いったいなにをしたの?!」
「わかりませんわ、お母様!さっき鏡を見たらこんな状態になっていましたの」
「間違って自分で剃ったのではなくて?」
「いいえ!そんなことは絶対にしていませんわ。しかも眉毛の真ん中だけ剃り落すなんて、ありえません!」
「そうよね…。だったらどうして…。麗華さん、もしかして寝ている間に自分で抜いたのではないかしら?」
「そんな器用な真似できませんわ。たぶん」
「そうよね」
「どうしましょう、お母様~っ!」
「とにかく、今日は学校をお休みなさい。今からお母様と病院に行きましょう」
うんうんと私は半泣きで頷いた。
うお~んっ!こんな間抜けな顔じゃ、人前に出られないよぉっ!いったい、どうしちゃったの、私の眉毛!虫にでも刺されたのか?!
お父様とお兄様が私達の騒ぎにどうしたとやってきたけれど、見ないでください!特にお兄様にはこんな変な顔を絶対に見られたくない!
病院での診断結果は、円形脱毛症だった。
どうやら円形脱毛症は頭だけに出るものではないらしい。完全に油断していた。
「結構よくあることですよ。男性ではヒゲに円形脱毛症が現れることもあります」
そうなんだ。私のメンタルってば、ブランマンジェのように繊細だから、ここしばらくのストレス続きに耐えられなかったのね…。
塗り薬を処方され、お母様に支えられながら帰宅。一生生えてこなかったらどうしよう…。悩んじゃダメだ。余計に抜ける。
鏡を見ながら綿棒で丁寧に薬を塗りこむ。どれくらい効果があるのかわからないけど、指で適当に塗って、右眉だけボーンッと生えたらそれも困るし。明日からアイブロウペンシルと前髪でなんとか隠せるかなぁ…。
「あ~あ…」
お正月には絶対に厄除けのお祓いをしてもらおう。
そして今はまず、育毛のツボ押しだ。