葬式篇
いま手元に父の写真が一枚ある。写真の中の父は黒い背広を着て薄青い背景の中でにっこり微笑んでいる。髪の毛は黒々とし、ふくよかな丸顔で、特徴のある垂れ目はちょっと黒目がちだ。黒枠に入ったこの写真、実は父の葬式で雛壇に飾られた写真である。数ある父の写真の中から私と母と倫子とで選びに選んだ一枚なのだが、これを選ぶに当たってはかなりの苦労があった。葬式にふさわしい写真がほとんど見当たらなかったからである。
この元になった写真は、私の長女が生まれた頃、当時私が住んでいた高崎の社宅で撮られたものだ。六十代前半の父は生まれたばかりの初孫を両手にかかえ、相当うれしかったのだろう、普段ならカメラを向けるとヘンにカッコつけてブスっとした表情になるのに、このときばかりはカメラに自然な笑顔を向けたのであった。
ところで、葬式にふさわしい写真、祭壇に飾られる写真を選ぶとなると、まずそれなりにカッコいいものである必要がある。バッチリきまったカッコいい写真ならプロの写真屋が撮った記念写真が適切だろうと思い、数少ない父のアルバムから最近のやつを探すと、おお、あったあった。わが子供らが七五三の時の家族写真、これがいちばん直近のものである。それなりにしっかりと写っているが残念なことに父の表情が固い。カッコつけている。口はへの字に曲がっているし、そもそも目に生気というものがまるで感じられない。で、結局ボツになって他を探す。茶色く変色したモノクロの結婚写真が戸棚の奥から出てきた。燕尾服姿の父と白無垢の文金高島田姿の母である。二人とも若い。七三に分けた黒々とした髪とツルリとした肌艶の父は一昔前の銀幕のスターといった感じで、こんなのを雛壇に飾ったら誰が死んだのか誰もわからない。通りがかりの人が見たら若死にした一人息子の悲しい家族だなどと勘違いされてしまうかもしれない。だいたいどんな人でも若い頃はそれなりにカッコいいのだから、その頃の容姿を参列客に見せつけるような変な見栄を張っているように思われてしまう。葬儀に見栄を張っていては失礼だ。参列してくれる人たちだけじゃない、死んだ本人にも失礼だ。まあ当の本人はかなり見栄っ張りではあったが。
記念写真はあきらめるとして、それなら直近のスナップ写真か何かでいいのかというとこれもまた必ずしもそうではない。これはこれで問題がある。老いさらばえてみっともない姿を人前にさらすのもやっぱり参列客に失礼だからだ。そうなるとなるべく直近の写真でかつ葬式に使えそうなものに候補は絞られる。ただでさえ父の写真は少ないのに、母が「笑顔の写真がいい」などとまた余計なことを言い出すものだからますます候補は少なくなる。まったく困ったものである。それにしても父が笑顔で移っている写真がないというのは、今回発見した新たな事実だ。実のところは父の生活は内面的には苦渋に満ちていたのではないか。あらぬ疑いを抱かずにいられない私であった。
そんな中で、唯一自然な笑みを漏らしている写真、それがこれなのである。悩みに悩みぬいた末ようやく選び出した一枚だけあって、生まれたてのわが娘を両手に抱いた父は、本当にうれしそうに微笑んでいる。父の笑顔をおさえた貴重な一枚である。
最近は写真のデジタル合成技術が進んでいて、元の絵さえあればどんな写真にも加工できる。この高崎の社宅で撮られた写真を見ると、部屋はずいぶん散らかっているし、父は小汚いポイロシャツを着ている。デジタル合成技術は小汚いポロシャツをパリっとしたスーツに変え、散らかった社宅の床を薄青の清澄な背景に変えてしまった。出来上がった写真はすっかり葬式にふさわしい様相に仕上げられていた。
この葬式写真は大判サイズのものが一枚と手のひらサイズのものが二枚、合計三枚あって、大判サイズのやつは長岡の実家の座敷に掛けられている。手のひらサイズの一枚は同じ座敷の仏壇の中に納まり、残る一枚が東京の我が家の箪笥の上にあるというわけだ。
それにしても不思議なのは、この写真の父を毎日見ていると、最期の父の姿がこのとおりだったように思えてくることだ。死ぬ間際の父は決してこんな顔をしていなかった。
父の生前の最期の写真はN病院で義弘叔父がデジカメで撮影したものだ。これが直近の父の姿を写したリアルな写真だ。
誰が入れ知恵したのかわからないが、父を身体障害者として認定してもらえば新車を安く買うことができるし電車賃も安くなる、実際に父が車を使うことがなくても全然かまわない、父の名義で買えばいい、身体障害者をうまく利用すると何かと便利だとのこと。これを聞かされた母は、それならばとばかり義弘叔父に頼んで、見舞いのついででかまわないから申請書用証明写真を一枚撮ってきてくれるようお願いした。出来上がった写真はいかにも身体障害者ですと人様に訴えかけるに十分な効果を持ったものだった。薄汚れた入院服がはだけてあばら骨が浮き出た胸元がのぞいているし、ところどころ抜け落ち灰色の髪は栄養不足でございといった感じがする。垂れた目には生気がなく死んだ金魚のようだ。何とも印象的なのはポカンと開けたまま閉じることのなさそうな口元である。みっともなさを通り越してどこか滑稽なところさえある。写真を見ただけで身障者認定してくれそうな気配だ。母はこの写真を見て大声上げて笑い「本家のばあちゃんにソックリらねえ」などと言っていた。悲哀感漂うこの写真、身障者認定には十分効果的であるが、とても葬式の雛壇なんかに飾れるシロモノじゃあない。
厳密に言えば、この写真の顔もまた最期の顔ではない。棺に収められた父の顔がちがうのだ。最期の父の顔は、葬儀屋の専門家の手によってみごとに若々しく化粧を施された顔だった。乾いた土色の肌は真っ白く塗られ唇に真っ赤な紅がさされた。灰色の髪は真っ黒に染められ七三に分けられた。顔全体をふくよかにみせるため、げっそりとこけた頬に綿を含ませた。最後に眉と睫毛を書き入れられ、父はカッコよく若返った。
しかし、葬儀屋によって作られたその顔はもはや父の面影をまったく留めていなかった。元気なとき父はこんな顔をしていなかった。若々しく化粧を施されたが、若かりし頃の父の顔では全然なかった。やはり作られた顔、他人の顔だった。この顔を見て私は誰かに似ていると思った。躊躇なく言おう。マイケル・ジャクソンだと。
父の死の第一報は、私が東京行き新幹線に乗り込もうとする寸前、K病院からの突然の呼び出しだった。私はすぐさま母に電話を入れ、東京へは帰らず、これからタクシーでK病院に向かうから、義弘叔父に連絡を入れておいてほしいと告げた。
K病院に着いたとき、父は病院の小部屋のベッドに横たわっていた。父はあんぐりと口を開け、気持ちよさそうに眠っているように見えた。念のため父の口元に手のひらを寄せてみたが、そこに命の息使いはなかった。ぽっかり開いた口の中は真っ暗闇で、無限の宇宙につながっているように思えた。父が死んだ。私にわかったのはその事実だけで、死をあるがままに受け入れる、それ以外の思考は一切なく、何の感情もわかなかった。悲しみも哀れみもなかった。唯一できたのは父に声をかけてやることだった。
「死んじゃったか、じいちゃん。」
私はしばらく父の死顔を見つめていた。あれだけワガママだった父がまた何か要求してきそうな気がする。どれくらい時が流れただろうか、いつしか本家の秋幸さんと義弘叔父、おちゃめなイトコの貞夫さんが到着していた。私の電話を受けて母が連絡しておいたらしい。
「オヤジさん、どうら?」
本家の秋幸さんが問う。
「死んだみてえら。」
そう答えるのが義務であるかのように私は淡々と答えた。それを聞いて、義弘叔父も秋幸さんもイトコの貞夫さんもめいめいが廊下に出、一斉に携帯電話をかけ始めた。父の訃報はこうやして一族に伝播された。
しばらくすると若い医師がやってきた。医師は言った。
「今日息子さんが帰られた後、七時半頃ですかね、どうやらまた一人で歩き回られたようなんですよ。看護婦が発見したときには別の病室(そこは婦人病室なんですがね)の真ん中のベッドに横たわっていまして、呼吸も脈拍も停止していました。緊急マッサージ措置を行って薬を打ちました。それからしばらくマッサージを続けましたが蘇生の見込みがないと判断して、私のほうで死亡とさせていただきました。」
「また歩き回っていたのですか?」
「そのようですね・・・。もう少ししたら主治医が着きますので、後は主治医のほうから詳細をうかがってください。ではこれで。」
若い医師は逃げ去るように部屋を後にした。
父がいつ死んだのか、正確な死亡時刻が何時何分何秒なのか、実は誰にもわからない。最も父のそばにいたはずの医者だってわからないはずだ。もちろん父本人もわからない。だいたい自分が死んだとさえ思っていないかもしれない。とはいえ父の死亡時刻は医者によって午後八時三十分と認定された。後でわかったことだが、医師による死亡診断書という紙が保険やら年金やらの証明で大活躍するのである。つまりこれが金をもらう際の証明書となり、政府なり自治体なりの信用のおける公の機関が父が死亡した事実を認めない限り、保険会社も年金機関もビタ一文金は払わないというわけだ。家族や親族の間でこそ父の死が明らかな事実であるのに、国がこれを認めなければ金は払えん、世の中はそう言っているのだ。父が死んだことは政府の認める医師免許を取得した人間によって確認され、これを証拠として公の機関が戸籍なりのデータベースを更新し、世の中に父が死んだことが公に認められてはじめて、保険会社や年金機関は金を私達に支払ってくれる。保険会社も年金機関も決して人間を甘く見ていない。その意味で世の中のあらゆる制度は性悪説に立って作られている。だから医師による死亡認定というのは、生き残った私達家族にとって葬式並み、いやそれ以上に重要な儀式なのである。
院長がK病院に着いた時、院長は赤い顔をしていて、明らかに晩酌中だったと察せられた。院長は数珠を手に父に向かって合掌し、悔やみの言葉を述べた。先生のその姿はいかにも悔やんでいるといった表情で、ずいぶんサマになっていたが、父に対して手を合わせているのでなく、遺族たる私達に対して申し訳なく思っているように思えた。
私達には先生を責めることはできなかった。私達にも共謀者のうしろえめたさがあったからだ。いずれ近いうち父がこのようにしてに死を迎えることは、その場にいた誰もがわかっていたことだった。誰も父が元通り元気な姿で家に帰るなどとは思っていなかった。だからそこに哀しみの気配は微塵もなかった。私達は、ただ懸命にすまなそうに手を合わせるだけの院長先生と、あんぐりと口をあけたまま何もしらず気持ちよさそうに横たわる父の死に顔を交互に見ることしかできなかった。
看護婦さんがやってきた。銀縁眼鏡をかけた中年の看護婦さんで、ナース帽の脇からヘタクソに縮れたパーマ髪がはみ出てい、単に塗りたくっただけの厚ぼったい真っ赤な唇が妙に印象的だった。看護婦さんは、遺体を綺麗にして引き渡すまでしばらく時間がかかるから、その間に葬儀屋に連絡して、運搬の準備をしておくといいと私達に言った。そして、
「どこかお宅さんでお決めになっている葬儀屋さんなんかありますか?もしないようでしたらこちらでいつもお願いしているところをお呼びすることもできますが。」
と言うので、私はいつも本家の葬式を頼んでいるところでやってもらったほうが何かと都合がいいだろうし、そもそもふだんから儀屋なんてつきあいがないから、結局本家の秋幸さんに任せることにした。秋幸さんは、
「じゃウチムラだな」
と軽く言い、電話帳で『ウチムラ葬儀店』を捜すと、あったあった。広告入りででっかく出ている。早速電話を入れ、すぐに来てもらうことにした。
ウチムラ葬儀店の社長は黒縁の眼鏡をかけた五十代後半の小男だった。もし人の商売を見た目で判断できるなら、この社長こそ葬儀屋というにふさわしかった。下顎の強そうな三角形の顔の上に、黒々とした髪が整髪料でなでつけられて光り、真っ黒の背広に黒いネクタイで、数珠を手に父の遺体に合掌するその姿は、じつに格好がよかった。いや、よかったのは格好だけではない。そこには仏に対する敬いの気持ちが表れていた。これぞ葬儀のプロ。院長先生のようなわざとらしさはまったくない。そりゃあそうだろう、仏様で商売させてもらっているんだから。仏様を作ってはならない商売の病院とはそもそも成り立ちが違う。比べちゃいかん。
父は病院からウチムラ葬儀店の専用車で運び出された。父を運んだのは、義弘叔父、秋幸さん、イトコの貞夫さんとウチムラ社長の四人。布団に乗せたままかつぎこまれ、座敷の横の床の間に枕を北にして横たえられた。見舞いに来た私を見るたびに家に帰りたい、帰りたいと泣くように訴えていた父は、ようやく三ヶ月ぶりになつかしいわが家に帰って来たのだった。北枕に横たえられた父はまだ息をしていて、静かに眠りこんでいるように見えた。私は思わず父にこう声をかけた。
「じいちゃん、おかえり。やっと帰ってこれたなあ、よかったなあ。」
「まず仏様にマクラギョウをあげなければなりません。」
仏様を運び込んで一段落すると、ウチムラ社長はおもむろにそう言った。マクラギョウ?何の事だ、そりゃ?
ポカンとするわれわれを意に介さず、社長は続けた。
「こちらはハツボトケ様ですね、おそらくセエベェさんですと、ボダイジはガンコジジィ様だと思いますが、そちらでよろしいでしょうか。」
何を言っているのかよくわからない。ここはひとつ本家の秋幸さんに助けを求めるしかない。テーブルの隅に座る秋幸さんに訴えかけるような視線を投げかけると、秋幸さんは言った。
「ガンコー寺でいいて。ここん家のオヤジはへえ、こってえ前から自分が入る墓の場所を決めてたがあて。」
話を総合するとつまりこういうことらしい。
まず、セエベエというのは本家の屋号で、あの辺一帯で「清兵衛さん」といえば本家のことをさす。ちなみに本家の隣の家はヨシベエさん、前の家はチョウベエさんである。で、この「清兵衛さん」
ウチムラ社長の言ったマクラギョウというのは漢字にすると「枕経」と書き、死んだ直後に読んでもらうお経のことらしい。お経をあげてもらうのは坊さんにお願いするしかないから、つまりウチムラ社長は今から「清兵衛」一族の菩提寺であるガンコー寺の住職を呼び出せというのである。
夜中の十一時になろうとしているのに、今から坊さんを呼んで果たして来てくれるものかどうか。私は半信半疑のまま秋幸さんに教わった番号に電話をしてみた。電話に出たのは女性だった。ずいぶん若そうな声だ。まず父が死んだ旨を伝え、とにかくこれから来てもらえないかとお願いすると、「少々お待ちください」と言って女性は電話口を離れる。通話を保留状態にせず受話器を置きっぱなしにしているので電話の向こうで何を話しているか筒抜けだ。女性は住職を呼んで、簡単に事情を説明しているのだが、女性の声の合間合間にしわがれた男の声が聞こえる。「で、どこの家?」「ナガサワさんとか言ってましたけど」「ナガサワ?どこのナガサワだ?」そんな会話が聞き取れる。そうこうするうちしわがれ声の主が電話口に出た。住職だ。私はまだマクラギョウという言葉を知らなかったので、先ほど女性に話したのとまったく同じことを繰り返す。住職は「ハイ、ハイ」と繰り返す。果たして坊さんわかっているのだろうか。不安になって言葉が途切れる。私は再び本家の秋幸さんに目で助けを求める。秋幸さんは仕方なさそうな表情で「どれ」と電話を変わる。
「ああ、住職ですか、清兵衛ですて。ああ・・・、そう、大島の清兵衛ですて。夜分遅く悪いですねえ、うちの分家の三郎がいまさっき死んだがあですて。え?ああ、そうです、あの三郎ですて。」
秋幸さんとの会話で住職は死んだのが誰かすぐ特定できたらしい。いまから来てくれるという。いきなり見ず知らずの者から真夜中に電話を受けて「長沢三郎」という人間が死んだと聞かされても、さすがにすぐにはピンと来ないのだろう。だが「清兵衛んとこの三郎」、これですぐ住職はわかったのである。さすが本家である。
住職が来るまでの間に枕経の準備が始まった。ウチムラ社長は北に向けられた父の枕元に小さな台を据え付けた。そして私達を呼び、
「ご親族の方々、ご遺体の手をこう指を組んで合わせてあげてください。」
私は恐る恐る父の手に触れた。父の手は氷のように冷たくゴツゴツしていて、枯れ木のように固まっていた。ここに横たわる父がもはや生きていないことを、私は触感によって改めて知らされたのだった。私は一本一本を織りたたむように父の指を組み合わせ、静かに胸の上に置いた。
「次に両足に足袋を履かせてください。」
ウチムラ社長に言われるがまま足袋を着ける。足もまた冷たく、やはり
一通り枕経の準備が終わると、次にお通夜と告別式をどうするか話し合われた。まず喪主を決めなければならない。母には極力苦労をかけたくないので私が喪主をやることにした。ウチムラ社長は今後喪主としてすべき事柄を逐一私に教えてくれた。まず日取りの決定である。さすがに明日すぐにお通夜というわけにはいかないだろう、明日は月曜だから、知っている限りの範囲でかまわないので、明日中に父の死亡を告知すべし、段取りをすべて済ませたら、明後日の火曜日を通夜に当て、翌水曜日を告別式に当てるべし、とのことだった。
「それにしても、住職、ちと遅いな。」
本家の秋幸さんが言う。すると母が不安げな様子で秋幸さんに訊く。
「秋幸さん、枕経ん時のお布施てやどれぐれえあげればいいがろかね?」
「これぐれえでいいがんえろかね。」
秋幸さんはそう言って人差し指と中指を二本立てて示した。決して二千円ではないだろう。それを見てウチムラ社長は言った。
「相場は三万前後だと思いますが、まああくまで気持ちですから、そのくらいでもかまわないと思います。」
住職が来たときすでにわが家の狭い座敷は急報を聞いてかけつけた親族で一杯になっていた。ガンコー寺の住職はウチムラ社長によって恭しく奥座敷に通された。親族一同、住職に深々と頭を下げた。
ガンコー寺の住職は年の頃六十代前半、半白のイガグリ頭に細くたれた目、顔つきはいかめしいが、どこか人懐こさを感じさせる坊さんだった。電話と同じしわがれ声で「それじゃあ早速はじめましょうかね」と言い、そそくさと父の枕元に向かった。そして黒い法衣の懐から丁寧に折りたたまれた紙を取り出し、枕元の台に置いた。紙には毛筆で何やら書かれていた。たぶん南無阿弥陀仏と書いてあるんだろう。それから線香を二、三本手に取り、火をつけて香鉢に横置きした。普段嗅ぎ慣れない線香の匂いが部屋中に漂った。住職は数珠を手にし、お経を読み始めた。私たちはみな正座してお経を聞いた。だんだん足が痺れてきた。ようやくお経が終わった。座敷で母が住職にお茶を出した。住職は茶を啜りながら「あれだけ元気な人らったがんにのう。」などと生前の父の様子を語った。みな恐縮して住職の話を聞いていた。住職はキリのいいところで白いクラウンに乗って帰っていった。母は結局三万円包んで住職に渡した。
倫子夫婦がようやく福島から駆けつけてきたのは親族一同がほとんど帰った後だった。倫子は化粧を施された父の横に正座し、しばらくうつむいていた。私の位置からは背中しか見えなかったが、倫子が泣いているのは明らかだった。倫子の隣で矢野さんがやはり正座して静かに両手を合わせていた。
翌日は葬式の準備やら告知やらで目の回るような忙しさだった。まずしなければならなかったのは隣近所に通夜へのに参列をお願いすることだった。私と母とで告知がてら一軒一軒回った。子供の頃から知っている懐かしい人たちは、みないい老人になっていた。
「この町にはへえ老人しか住んでねえて。老人の町らて。」
母はそう言っていた。
喪主として私があいさつしたのは通夜と通夜後のお
通夜にも告別式にも大勢の弔問客が集まった。告別式には、黒服の弔問客の中に、私が子供の頃から見慣れた深緑色の作業着姿が何人か混じっていた。父が勤めていた電気工事会社の人達でだった。仕事で現場に出向く途中せめて香典だけでもと、忙しいさ中立ち寄ってくれたのだ。私は彼らに深々と頭を下げた。感謝の気持ちを表さずにいられなかった。頭を下げながら目頭が熱くなった。
葬式はウチムラ葬儀店が経営するセレモニーホールで行われた。セレモニーホールはレンガ造りのたいそう立派な建物で、三つの棟に分かれていた。真ん中の屋根の丸いいちばん大きな棟にエントランスがあるが、このエントランスの両脇に西欧風な飾り窓が整然と延びていた。広い駐車場に大きな電光看板が立っていて、なかなかおしゃれな建物であるが、周りがだだっ広い田んぼなので余計目立つ。ウチムラ社長は相当の辣腕経営者であるらしい。
通夜も告別式も、司会はウチムラ社長自ら取り仕切った。葬儀会場はホールの真ん中の棟で行なわれた。祭壇を前に親族は祭壇に向かって左、一般参列者は右に座った。祭壇は生花で溢れんばかりであった。生花の札には供してくれた人たちの名前が書かれていた。親族、従兄弟、兄弟らの札に混じって父の勤めていた会社の社長や私が勤める会社の社長の名前などがあった。そして祭壇の中央にはあの父の写真が大きく掲げられていた。写真の中の父は、まるで馴染みのお客様が大勢訪問してくれたことを喜んでいるかのように微笑んでいた。
ちなみにこの祭壇はウチムラ社長が持ってきた葬儀関係のパンフレットにあったものだが、値段に応じてピンからキリまで五種類あるうちの、一番高価でハデな祭壇より一ランク落ちるものである。それなりに結構値が張った。母は「安いのでいいて」と言ったが、ウチムラ社長の読みでは弔問客が二百人前後とのことで、それだけの人数になると、もっとも目に付く祭壇をケチってみすぼらしく見えるよりは、多少派手目めにしておいたほうが、お客さんに失礼がないだろうとのことだった。
式が始まるとすぐ、ウチムラ社長はガンコー寺の住職を紹介した。
「導師は真宗大谷派ガンコー寺第十四代住職××師でございます。」
祭壇の脇から、きらびやかな紫と金の法衣を身にまとった住職と橙色の法衣を着た若い坊さんが入ってきた。若いほうの坊さんは住職の息子さんらしい。お経の読み方は若住職のほうが上手だとの評判だ。
住職と若住職の二人によるお経が始まった。みな神妙な面持ちで静かに経に聞き入っている。それとなくお経を聞いているうちに、私の脳髄にあるイメージが鮮明に浮かび上がってきた。それは、真っ白い衣装を身にまとった父が、黄金色に輝く階段を天に向かう姿であった。雲は薄紅色の輝きを滲ませ、隙間から光の帯が下界に向かって注がれている。二人の坊さんがかなでる二重唱のお経のゆったりしたリズムに乗って、父は天国への階段を一歩一歩踏みしめて上っていく。たまに下界を振り返って笑みを浮かべる父。すべては神々しく、厳粛で、美しい光景だった。
これから私達は初七日やら四十九日やらでこのお経を何度となく聞かされることになるのだが、繰り返し聞かされるうち、うちの子供らは「キーミョームーリョージューニョーラーイ」などと節まわしを覚えてしまった。『門前の小僧習わぬ経を読む』を地で行ったのである。後で調べたところによると、このお経、実はこういうものらしい。
帰命無量寿如来
南無不可思議光
法蔵菩薩囚位時
在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因
国土人天之善悪
建立無上殊勝願
超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受
重誓名声聞十方
普放無量無辺光
無碍無対光炎王
・・・・・
『正信念仏偈』という真宗大谷派でよく読まれるお経で、「阿弥陀如来への絶対帰依」を述べているんだそうだ。
「なんだか変わったお経ですね、なんだか音楽聴いてるみたいでしたよ。」
このお経を初めて聞いた矢野さんが私にそう言った。
「え? 矢野さんのとこはこんなお経じゃないんですか?」
「ええ、全然違います。まず驚いたのは、木魚がないことですね。うちは和尚さんが木魚をポクポク叩きながらカンジーザイボーサツとかいってお経読んで、シンバルみたいなのでジャジャーンってやるんですよ。お経は般若心経らしいです。」
なるほど言われてみればガンコー寺の住職の格好はテレビや何かでよく見かけるお坊さんの姿とちょっと違う。いわゆる「和尚さん」のイメージではないのだ。これは宗派の違いなのだそうで、矢野さんの家は曹洞宗なのだそうだ。曹洞宗では仏壇も黒檀、お寺では卒塔婆をよく見かけるとのこと。そしてわが妻の家もまた同じ曹洞宗であった。たしかに妻の実家の仏壇も黒壇であった。
これは私の勝手な推測であるが、曹洞宗というのはもしかしたらわれらが(?)真宗大谷派と違い、戒律が厳しいのではないか。お坊さんの戒律を檀家衆にまで持ち込んでいるのではないのだろうか。というのは、下世話な話であるがわが妻も矢野さんも人前では決して放屁をしないからだ。いやちょっと待て、いくら私でも、エライ人の前や見知らぬ人の前で平気でブーブーやっているわけでは決してないよ。「人前で」と言ったのを「家族の前でさえ」と言い直そう。そう、私も倫子も母も父も、そしてセエベエ一族のものはほとんどみな、家の中で寝転がりながら平気で大きな音で屁をたれる。それが家族の
「あそこん家はぜったい人前でオナラしないよ。」
高校時代だったか、日本史で鎌倉仏教を習ったとき、禅宗は武家を中心に広まり真宗は民衆に広がった、みたいな話を聞いたことがある。武家を中心として広まった禅宗、曹洞宗がおのずと戒律に厳しくなるのはなんとなく理解できる。真宗のようにただナムアミダブツとさえ唱えていさえすれば、厳しい戒律などなくても誰でも極楽浄土へ行ける、だから何をやってもいいのだというアマイ考え方、いい言い方をすれば、民衆独特のおおらかさみたいな考え方はそこにないのではないか。
通夜の後の
夜伽はホールのメイン会場の横の長屋風の建物の中にある宿泊棟で行なわれた。宿泊棟には六畳の和室が二つと洗面所、シャワー室がしつらえてあった。和室の床の間に父の棺を置き、ロウソクと線香が途絶えることのないよう、夜を徹するのであった。夜伽には総勢八名が集まった。喪主たる私と倫子夫婦、おなじみの義弘叔父と従兄弟の本家の秋幸さん、おちゃめないとこの貞夫さん、秋幸さんの弟の武郎さん、そして私と一番年の近い従兄弟の光さんである。武郎さんは新潟市内から、光さんは横浜からかけつけてくれた。
夜伽は親族を失った悲しみにつつまれ亡き人を偲ぶというものでは、まったくなかった。わがセエベエ一族による夜伽の実態は、久方ぶりに顔を合わせた親族らによる大宴会であった。たいして酒の飲めない私には本当につらい一夜だった。翌日告別式の喪主あいさつを控えている身であることなど誰も考慮などしてくれなかった。安っぽい横長の卓袱台に、缶ビールや日本酒やら焼酎やらの酒瓶、ビニールパックになった氷塊、プラスチック製の使い捨てコップ、割り箸などがセットされ、通夜後の会食で出たオードブルの残りや差し入れにもらった乾き物のオツマミ類が所狭しと並べられた。酒が進むにつれ昔話に花が咲き、わが一族の久々の宴会は大いに盛り上がっていった。
公務員の貞夫さんは普段固い仕事に追われているせいか、親族の飲み会になると極端にハメをはずして酔っ払う。酔ったとは誰も手がつけられない。清兵衛一族の”虎”として名をはせている。この日もまさに”虎”の面目躍如であった。
「リョウ、オメエはたいしたもんだ、きちんと喪主やってたすけんなあ。立派らこてや。それに比べりゃあおめえ、武郎なんか気の毒らこてや、今まで喪主なんかさしてもらったこと一度もねえもんなあ。だいたい寺迎えは武郎の役目らったすけんなあ。武郎もたいしたもんだこてや。寺迎え一筋で苦節三十年、なかなかできることらねえろ。」
一同大爆笑である。武郎さんは苦虫を噛み潰したような笑いを浮かべる。調子付いた貞夫さん、さらに続ける。
「だいたいな、セエベエ一家は昔っから封建社会んがいや。何でもアニ(長男)が一番、オジ(次男)はカスみてえな扱いらこてや。本家行っても秋幸はもう別格でな、武郎なんかずうっと隅っこに追いやられて、"カスオジ"らとか言われていじけてたこてや。おめんちの父ちゃんも三男坊らすけんな、ココんちの(と本家の秋幸さんを指差して)父ちゃんみてえに大事にされんかったがいや。だすけに負けん気だけはやたら強いこてや。」
家の中で隅に追いやられた者の気持ち、私には何となくわかる気がする。うなづく私を見て、貞夫さんは言う。
「リョウ、おめえも長男らけど、倫子のほうが陸上で一斉を風靡したすけん、おめえんちの父ちゃんは倫子、倫子言っておめえのことなんか何〜んにもかまわんかったろ、なあ。」
「確かにそうだね。」
すると貞夫さん、今度は倫子に毒づく。
「倫子! おめえ、ちとこっちこいや!」
「何だねぇ?」
仕方ないな、このヨッパライオヤジは、といった表情で倫子と矢野さんがそばに来る。貞夫さん、すでにパンツ一丁になっていて、脇から剛毛につつまれたお宝袋がはみ出ている。倫子に対して説教を始めるが、そんな姿ではまったく説得力がない。倫子も目のやり場に困っているようだ。
「おめえはなあ、今までこんげなふうな飲み会にゃあ一度も出たことねかったろ! おめっちの父ちゃんはそればっかずうっと気にしてたがあれ。でもな、いかったこてや、こうやっていいダンナにめぐり合えて、父ちゃんも喜んでるこてや。なあ、父ちゃん!」
そう言って脇で棺のガラス窓から派手に化粧された父の顔を覗き込み、
「おお、父ちゃん笑ってらいらぁ!」
矢野さんは底なしの酒飲みだから、いくら飲んでも陽気になるばかりで全然変わらない。東北の人の酒飲みにはこういうタイプが多いような気がする。素朴で誠実な人柄が酒によってそのままにじみ出た矢野さんであるが、わがセエベエ一族での評判は飲むごとに高まっていった。前夫の正明は決してこんなことはなかった。
貞夫さんと千葉の叔父の掛け合い漫才が始まる。お互いの過去の悪事をばらしあう。一座は大笑いである。
「オメエは今のかあちゃんと付き合ってるのをオヤジに黙っててくれと頼んでおいたのに、平気でバラしやがって、こういう男んがいや、こいつは。」
「貞夫、バカ、おめえはホントにバカらな! おめっちのオヤジがどんげん心配しておれに言ってたか、全然知らねえがあすけんな。シワワセ者らいや、おめえは。」
こんな話が延々と続き、夜が更けるとともにいつしか酒が底をついた。
「リョウ、おめえ、ちと買出し行って来い。」
千葉の叔父が私に命令する。
「周りに店なんて何もないよ。こんな晩くなって。」
「国道まで出りゃあコンビニぐれえあるだろ。行って来い。」
私は真夜中に買い出しに行かされるはめになった。言われるがままに、寒い中、私は片道約一キロの田んぼ道を歩き、国道まで出た。ようやく戻ってきたとき従兄弟の光さんはすでに酔い潰れていた。酒が到着すると千葉の叔父は光さんの布団をめくって、
「オラ、光、何寝てるがいや!」
と光さんの頭をバチバチ叩いた。叩き起こされてボーっとしている光さんに千葉の叔父は言った。
「なんでえ、光、おめえは。センパイを差し置いてガーガー寝やがって。ホレ、飲め! お通夜みてえな顔してるんじゃねえ! 飲め! パーっといこうれ!」
お通夜みてえって、これ、そもそもお通夜なんだけど・・・。
この夜伽の席で私は本家の秋幸さんからこんな話を聞いた。父が息を引き取ったあのK病院の院長先生のことである。
秋幸さんによると、K病院の院長は手塚さんといって秋幸さんの奥様の母方の親戚なのだそうだ。
「大酒飲みんがてや、ありゃあ。お前っちのオヤジが死んだ時も赤い顔して来てたろう、あん時どっかで見た顔らなと思ったがいや。もっと早くわかってりゃN病院なんかさっさと引き払ってこっちに入れらいたがあろもな。」
父がN病院からK病院へ移ったのは、N病院の看護婦さん達が面倒見切れなくなって、N病院の副院長の紹介で移された、K病院の院長はそう教えてくれた。
「先生の紹介がなきゃ入れないんじゃないの?」
そう聞くと、
「そうらねえがいや。あんげん医者の胸三寸で決まるがいや。知り合いらとか親戚らと言えば融通つけてくれるがいや。」
何だそうだったのか。それじゃ医者の世界というのも普通のサラリーマンとビジネス構造はさほど変わらないじゃないか。秋幸さんはさらに衝撃的なことを教えてくれた。K病院に入るまでずっと空きを待っていたあのMの精神病院も、金次第ですぐにでも入れたという。それじゃM病院からの連絡というのはいくら待ってても来なかったということか。
秋幸さんはこの話を奥様を通してK病院の院長から聞いたという。
父をK病院に移した時の院長先生の何やら意味ありげな態度の理由がようやくわかった。
院長は、本来なら見ず知らずの認知症患者を受け入れるからには何らかの報酬をいただきたいところだが、先輩からのたっての依頼であるから仕方ない、その辺をわきまえてくれよ、と暗に言っていたのだ。良きに計らってやる代わりに見返りをよこせと仄めかしていたのだ。私たちはこの医療業界のプロトコルにいたって無知だったのである。この契約には見積書もなければ請求書も領収書もない。あるのはただ阿吽の呼吸だけである。
ようやく皆が床に就いたのは明け方近くになってからだった。夜が更けるにつれ徐々に寒くなってきたが、夜伽を執り行うこの部屋には三人分の布団しかなかった。この三枚の布団を八人が奪い合いながら眠りに就いた。最後まで酒をあおり続けて、もぐりこむべき布団を失った千葉の叔父は、暖かそうに布団にくるまっている武郎さんの頭をピシャピシャたたきながら大声で「武郎、おめえは一人で布団取りやがって!センパイを差し置いて、なんらあ!」などと大声で叫んでいた。紅一点たるは倫子は矢野さんと二人で布団を分け合っていた。私はほとんど寝付けないまま、徹夜状態で朝から始まる告別式に喪主として望まねばならなかったのだ。
通夜でも告別式でも、私はほとんど涙を流さなかった。深い悲しみに胸打たれた出来事がひとつだけあった。一とおり式が終わり、出棺前に参列者が次々父の棺に花を入れていく中、われわれ親族の間で「北ん家の婆さ」と呼ばれている隆治叔父の奥様、つまりあの茶目っ気で酒の席を賑わす従兄弟の貞夫さんのお母様が花を入れる番になった。「北ん家の婆さ」は突然
「ああ、長岡のお父さん!」
と大声を上げて泣き崩れ、棺に取りすがった。その姿を見て、しばらく忘れていた涙で目が曇った。涙が流れないよう上を向いて歯を食いしばった。隣に立つ倫子は俯いてハンカチを鼻に当てていた。
父の写真と位牌を掲げて霊柩車に乗り込むとき、一瞬ではあるが、私は自分達が特権階級になったような、得意げな気持ちになった。黒服の参列者がみな私達に向かって両手を合わせ、車が出るまでの間ずっと見送ってくれたからだ。参列者への最後の挨拶は義弘叔父がやった。根がマジメな義弘叔父はこの御礼のあいさつに私以上に緊張していたらしく、あの嵐のような通夜の夜、とても酒など飲んでいられる状態ではなかったようだ。
霊柩車霊はキャデラックだった。火葬場は長岡の南東、栖吉の山奥にあり、私にとって子供の頃からおなじみのところだ。火葬場に対して”おなじみ”という言葉はちょっとおだやかではないが、祖父も祖母も隆治叔父も、私の知る限り清兵衛一族の者はほぼ全員がここで焼かれたのだから、そう言うほかはない。
私はそもそも背の高いほうなのだが、清兵衛一族はそもそも全員ガタイがよく、一族総出で火葬場に並ぶとそれはそれは壮観であった。本家の秋幸さんはじめ、イトコら、イトコの子供らはみな百八十五センチをゆうに超える大男ばかり、女もまた倫子の百七十五センチを筆頭にズラリ丈の高い大女がそろっている。隣の列の家族が小人の一族のように見える。
おなじみの火葬場は今までとちょっと様相が変わっていた。天高くそびえ立っていた煙突があの大震災でぽっきり半分に折れてしまっていたのである。火葬場の煙突というのは本来天高く伸びていて、煙とともに死者を天国まで送り届けるような趣きがある。丈の高い煙突は白い鉄筋コンクリートの建物とほどよくマッチしていて、均整が取れている。この均整が火葬場に厳粛なイメージを与えているのに、その象徴たる煙突が銭湯のそれより短くなってしまい、どこか滑稽で、まぬけな感じがする。妙にかわいらしくさえ見える。コンクリートの床は所々ひび割れが補修されているし、大震災でおかしくなった父は大震災で様子の変わった火葬場で焼かれるのであった。
火葬場へ行く途中、霊柩車の後部座席から母が一軒の家を指さし、
「あれがハヤカワさんの家らねえろかね」
と言った。
「この近辺で一番高い松の木がおれん家ら言うてたすけ、たぶんあれらろ。」
確かに広い庭のはじに大きな松が立っていて、それなりに目立つが、周りと比べて取り立てて立派というほどのものではない。
「あの人も自慢ばっかする人られうあね。なんで西の男てや自慢コキが多いがあろかね。」
まったく同感だと私は思った。母の言う西の男、それは信濃川の川向こうの地域の人のことだが、まさに父のことを指しているのである。ハヤカワさんというのはどうやら父のイトコ筋に当たる人らしく、会社で父の上司に当たる人だった。父が現役中、それなりにお世話になったらしい。張りのあるよく通る声とどこか偉そうな素振りが目立った。社会的地位が高いのだろう、お斎の席や大勢親族が集まる中、常に話題の中心にいて、またそうでないと不機嫌になる人だった。
火葬が終わるまでの間、親族、隣近所の皆さんに昼食を振舞わねばならない。これをお斎という。お斎の会場は大手通の割烹を予約してあった。喪主たる私はお斎の司会までやらされることになった。
うまそうな懐石料理が次々と運ばれ、酒が進む。お酌をしているうちにいつしか時は過ぎて、すでにみな食事を終え、手持ち無沙汰そうにしていた。そろそろ〆メ時だ。だがどこで〆メをすればいいのかタイミングがわからない。恐る恐るみんなの顔色をうかがいながら、ようやく「ごちそうさまでした」の音頭を取ったのは、お斎が始まってかすでにら二時間が経とうとする頃だった。
もう火葬は終わっているはずだ。誰かがお骨拾いをしに行かねばならない。だがこの場の〆メとお客さんの送り迎えは誰がやるのだ? 私しかいないだろう。私は急遽、倫子と矢野さん、そして『寺迎え一筋三十年』と通夜の席でさんざんみんなにからかわれた武郎さんにお骨拾いに行ってくれるようお願いした。武郎さんははじめ渋い表情を浮かべたが、引き受けてくれた。そんなわけで結局私はお骨拾いに立ち会えなかった。
お斎の席で、私は参列してくれたすべての人にお酌をした。私の知らない親族、隣近所の人たち、友人たち・・・いずれも私が父を知る以前から父をよく知る人々であった。お酌をしながら、私はその人たちから父の思い出を数多く聞いた。
「オヤジさんは『セエベエのサブ』って呼ばれてての、あの辺りじゃあ知らん者がいねえかったがあて。ガキ大将らこてね。隣村とケンカするときも仲間まとめて先頭切っていったがあて。またケンカが強くてなあ、まあどうしようもねえキカン坊らったこっつぁね。俺なんてショーゾー、ショーゾー言われてこき使われたこてさ。」そう語るおじいさんがいれば、
「オヤジさんは足が早くてなあ。ここの家のオヤジ(秋幸さんのお父さん)がマラソン、西ん家のオヤジさん(隆治叔父)が短距離で、おめえんちのオヤジが中距離らったがいや。その当時、この三人が集まればどの運動会に出てもいっつもこの地区一等賞らったこてさ。」
お客様のおもてなしは、お斎の席でとりあえず終わった。会場から一同マイクロバスに乗り込み我が家へ向かい、そこで解散となった。ようやく気苦労から開放された。後に残ったのは私たち家族と斎場から持ち込んだ豪勢な花束だけだった。狭い我が家の奥座敷は花束で溢れかえっていた。父の骨は美しい白木で造られたの骨壷に入れられ、生花に包まれた床の間に置かれていた。
やれやれやっと一息ついたと思ったら、まだすべきことがあった。ガンコー寺への最後のお礼参りである。本家の秋幸さんによれば、この最後のお礼参りでお布施を渡すのだそうである。
一口にお布施と言ってもいろいろ種類があるらしい。まず今回の一連の葬儀のお礼としてのお布施がある。秋幸さんの相場ではだいたい五十万前後。参列客は香典とは別に持参した「志」とか「灯明代」とか書かれた封筒、このお金はそのままお寺さんに渡すのだそうだ。これだけではない。どうやら「永代供養料」というのがあるらしい。本来であれば親族が毎日お墓にお参りし、南無阿弥陀仏を唱えなければならないのだが、この行為をお寺さんが親族に成り代わって末代までやってくれる、その報酬としてお支払いするお金なのだそうである。
「いくらくらい渡せばいいのかな。」
秋幸さんにそう聞くと、
「俺っ
と返す。百万だって!? どこにそんな金があるというのだ。五十万だってままならないのに・・・。これが真実かどうか確かめるべく、後でコッソリ義弘叔父に相場を聞くと、義弘叔父はこう言った。
「そりゃ本家らすけん、仕方ねえこてや。いいがいや、分家は。気持ちの問題らこてや。払える分だけ払っておけばいいこてや。」
私も母もちょっとホッとした。結局私たちは「永代供養料」として二十万円を包んだ。
その夜九時過ぎ、私と母、倫子夫婦、本家の秋幸さんとでガンコー寺にお礼参りに行った。ガンコー寺には毎年お盆の時期に墓参りに行っているが、そのときはいつも裏手に車をつけて墓場に直接入っていたので、表門から入ったのはこれが初めてだった。表門から入ってみると、暗いながらもガンコー寺がずいぶん大きな寺であることがわかった。デンと構えた大きな本堂の前に広々とした庭があり、右手には釣鐘台が、左手には大きな庭木が何本も植えられていた。年の暮れはずいぶんと人手で賑わうそうだが、それ以外の日でも普段からちょっとした町内のコミュニティ広場として使われているらしい。アマチュアロックバンドの演奏さえ催したことがあるという。
本家の秋幸さんが「ごめん」と言って入っていったのは、本堂に続く脇の棟の玄関だった。家の奥から四十代前半と思われる女性が現れた。住職の奥様らしい。住職の年を考えるとずいぶん若いが、後妻なんだそうだ。前の奥様は病気で亡くなられたらしい。初めてガンコー寺に電話したとき初めに電話を受けたのはこの人だ。
私たちは大きな座敷に通された。若奥様がお茶とお菓子を運んで来、「しばらくお待ちください」と言った。
住職が来るまでの間、私は秋幸さんにどのタイミングでお布施を渡したらいいのか、ヒソヒソ声になって訊いた。帰る間際でいいだろうとのことだった。住職はなかなか来なかった。みんな押し黙ったまま、病院で順番を待つときに似た気持ちで住職を待った。手持ち無沙汰だったので、私は部屋の様子を眺めた。床の間には花が活けられ、何やら文字の書かれた掛軸がかかっていた。違い棚には洒落た焼き物と開いた金の扇子が飾られていた。障子をはさんだ廊下の向こうにおそらく庭が広がっているのだろう。雨戸が閉められているのでわからないが、昼間はそれなりに風流な景観なのにちがいない。
ようやく住職が現れた。一同正座してお辞儀をし、礼を述べた。昨日今日の葬式の様子をみんなで振り返る。反省会だ。「いい葬式だった」「人が大勢来た」云々・・・。その後これからの法事の予定について話し合われた。葬式に続く重要な法事は四十九日だ。来月の三連休のいずれかでやりたいが住職の都合はどうかと母が訊くと、住職は
「十二月の三連休ですか、ええっと私の都合はどうだったかな。」
と言って黒い手帳を広げ、指を舐め舐めページを繰る。
「二十三日の土曜日の午前なら空いてます。それでどうですか?」
一同顔を見合わせる。
「わかりました。そこでお願いします。」
まだ喪主たる責任感を若干残していた私がそう言ってみんなを仕切った。一同異論はなさそうだ。
「それじゃあ決まりですね。」
住職は日程を手帳に書き込む。するとそれまで黙っていた倫子が口を開いた。
「十二月二十三日だともう死んでから四十九日を過ぎてますよね、それでいいんですか?」
みんな一斉に倫子のほうを見た。
「じいちゃんが死んだのが十一月五日だから、四十九日って十二月十五日前後になるんじゃないですか? いいんですか、二十三日で。」
倫子が言うと、住職は微笑みながら
「全然かまいませんよ。」
と答えた。すると倫子は住職の余裕綽々の態度が気に入らないといった様子で口をとんがらせて食らいつく。
「前に義理の父が死んだときお坊さんに言われましたよ、死んだ最初の七日間は人の霊魂はまだこの世を彷徨ってるんだって。初七日で三途の川を渡って、それから七日ごとに裁判があって、最後の七日間で閻魔大王の裁きがあって天国へ行ったり地獄へ行ったりする、その裁きが全部で七回あって七日×七回で四十九日になるんだ、だから絶対四十九日の日は守らなきゃダメだって。そう言われましたよ。」
倫子の話を黙って聞いていた住職は、それまでの丁寧な口調とうって変わった調子でこう言った。
「ほう、そうかい、あんた、それ見たんかい。」
倫子は口ごもった。誰も口を出さなかった。住職は続けた。
「あのねえ、人が死んだら三途の川原を渡るとかエンマさまが裁くとか、そんなことはどうでもいいことなの。そう思いたい人は思ってればいいの。肝心なのは生きているあなたたちがいかに真摯な気持ちで故人の冥福を祈るか、それだけなんですよ。四十九日めに絶対法事をやらなきゃならないなんてことはないの。生きている人たちみんなの都合に合わせて、みんなで故人を偲んだほうがいいんです。死んだ人が大事じゃないとは言わないけど、生きてる人のほうが大事なの。そんなの当たり前のことじゃない。なんで死んだ人の都合に合わせなきゃならないの。死んだ後なんて誰ぁれも知らないでしょ?」
確かにそのとおり。死んだ人の都合より生きている人の都合を優先する。これも宗派の違いというものか。曹洞宗はこのへんかなりキビシイらしい。確かにすでに死んだ人より今生きている人の都合を優先してくれるというのは、ありがたいことではある。しかしよく考えてみれば、私たちは父が生きていた時、父の都合などまったく無視していたのではなかったか。
ガンコー寺の本堂で、住職による最後のお経が上げられた。本堂は広く古びた木の香りがした。本尊はおそらく阿弥陀如来だろう、かなり大きかった。ガンコー寺は真宗大谷派としては県内有数のお寺らしい。本尊の手前の、私達が焼香する棚のすぐ横には、現在改築中の京都の東本願寺の瓦が大事そうに一枚置かれていた。
最後のお経が終わった。住職は「それじゃ、そういうことで」と言ってすたすた奥へ引き上げようとした。おいおい、まだお布施を渡していないぞ。タイミングを逸した私たちは、「これ、どうしよう」と秋幸さんを見る。秋幸さんは「あ、そうだった、忘れてた」と言い、「住職!、住職」大声でと呼びかける。その声で振り返る住職。待ってました、言わんばかりの振り返り方である。
「これ渡さんきゃだめらったて。」
秋幸さんが笑いながらお布施一式を渡すと、住職は、
「そうだった、そうだった。一番大事なことを忘れとった。」
と、お布施一式、何事もなかったような表情で受け取って、そそくさと奥へ引き上げたのだった。
秋幸さんがいなかったら病院のとき同様、お寺とのプロトコルも確立できなかっただろう。このプロトコル、データ通信のようにどこかに規約として明示されているわけではない。目に見えないプロトコルなのだ。お布施一式の値段だって「相場」という得体の知れないものがあるだけで、住職から見積書をもらったわけでもなければ、お布施を渡した後、住職が領収書をくれるわけでもない。すべては不可視の、しかしながらしっかり確立されたプロトコルなのである。病院とのプロトコルだって事前に秋幸さんに聞いておきさえすれば、もっと素直に医者や看護婦と接することができたろうに。
帰りがけ、ふと本堂の壁に目をやると、大勢の人の名前が書かれた紙が所狭しと貼ってある。よく見ると、どうやら永代供養料を支払った人たちを貼りだしているらしい。
「俺っ
秋幸さんが指差した紙は他の紙より一回り大きく、確かに秋幸さんの名前が書かれている。「永代供養料 金百萬円」が目を引いた。いずれこの中に私の名前が書かれた小さな紙が貼りだされるのだな。
四十九日までに仏壇を買っておかねばならない。秋幸さんが安い仏壇屋を知っているので紹介してくれるという。葬式が終わった翌週、改めて長岡に戻り、秋幸さんと母とで仏壇屋に行った。
仏壇屋は例の火葬場へ行く途中をちょっとはずれた通りにあった。キャデラックの窓際から山の端に大きな看板を見かけたことを思い出した。二階建ての仏壇屋のビルにはいると、秋幸さんは売り場へは行かず、二階の事務室へ向かった。曇りガラスのドアを開けると店長らしき人が事務机でスポーツ新聞を広げていた。その人はわれわれを見ると席を立ち、秋幸さんに軽くあいさつした。この店長、実は秋幸さんの母方のイトコなのだそうだ。仏壇の値段ってどのくらいなのか秋幸さんに聞くと、ピンキリだというが、
「ここで買えばいいヤツを安くしてくれるて。」
とのことだった。
売り場へ行って、どの仏壇がいいか母と物色する。売り場は明るく、大小さまざまな仏壇が整然と置いてある。金ピカの仏壇もあれば黒檀のシブいのもある。どでかい金の仏壇の値札を見てたいそうびっくりした。車が買える。私は黒檀のシブいやつが好みであったが、母は金ピカのがいいという。理由は部屋が明るくなるから。仏壇を置いておいて明るいも暗いもないと思うのだが、ここは母の好みを優先させることにした。念のため店長に宗派によって仏壇が違うのかどうか聞くと、真宗大谷派では金の仏壇が好まれ、曹洞宗では黒檀が好まれるとのこと。言われてみればわが妻の実家の仏壇は小さな黒檀だった。次は大きさだ。父は生前すでに奥座敷の床の間に仏壇を収める観音開きの棚を作っていた。物置がわりになっているその棚は結構広く、このスペースを埋めるだけの仏壇となると、かなりの大きさになる。
「小さいのでいいて。」
母がそう言うので小ぶりの仏壇を見定めることにした。
ところで、仏壇の寸法ってどういう単位で決められているのか、読者のみなさんはご存知だろうか? 仏壇の寸法を示す単位は「代」だ。三十代というのがいちばん小さいく、大きいものになると二百代になるのだそうだ。この「代」に合わせて、仏壇の奥に祭る本尊の大きさが決まる。いや、あるいは先に本尊の大きさが決まっていて、それに仏壇の寸法を合わせているのかも知れない。どちらが先かはわからない。
小さい仏壇は売り場の中央部に並べられている。三十代のはその中でももっとも隅のほうだ。中にひとつおしゃれなものがあった。木でできた部分が赤茶けていて、見た目に品がある。仏壇の中の作りも細かくできていて、全体的に垢抜けた感じだ。値段を見ると、さすがに予算を大幅に超えている。仕方なく隣の同じ三十代の仏壇に目を向ける。こちらなら十分予算内に収まるが、先ほどのと比べるとちょっとカッコよくない。真っ黒な木枠と安っぽい扉、金色がやたらに目だって、どことなく田舎の農家によくある仏壇を想像させる。私は赤茶けたほうの仏壇を指差して、店長に
「これ、いくらかまけてもらえないですか?」
と交渉してみると、十万ほど引いてくれた。しかしまだまだ予算を超えている。それを十分心得ているくせに、私は母に予算内に収まるかどうか聞いた。母と私との間で瞬時に店長を相手どった暗黙の交渉術が成立したのだった。
「こっちのほうがいいろも、仕方ねえて。いいて、これで。こっちで十分だて。」
母はカッコ悪いほうの仏壇を指差して言う。そこで今度は私。
「これかい? これ、やっぱりカッコ悪いよ。どこにでもある普通の仏壇って感じがする。ずっと家に置いておくなら、やっぱりこっちだよ。ぜったい。」
「そうらけどさ。お金が足りねえて。」
母がそう言うと、私たちのやりとりを窺っていた店長がズバリこう聞いてきた。
「いや、さすがにお目が高いですね。こっちの仏壇は長岡の腕の立つ職人が作ったものです。服で言うならオーダー服でしょうかね。こちらはいわゆる既製服です。で、ご予算はおいくらほどで?」
こちらの予算を告げるとと店長は、
「わかりました。それならばこちらのほうをこちらの定価と同じお値段でお譲りしましょう。」
そう、そうこなくっちゃ。この店長、われわれとのプロトコルをよく心得ているじゃないか。まあ紹介してくれた秋幸さんの顔を立てる意味合いもあったのだろうが、こうしてわれわれはまんまとカッコいいほうの仏壇を安く手に入れたのであった。
仏壇が決まると、店長はお寺様からご本尊を買うときに「三十代をください」と言うよう教えてくれた。
「え? ご本尊って、お寺さんから買うのですか?」
仏壇のご本尊というのは、本来三枚の掛軸から成り立っているのだそうだ。真ん中に掛けられるのが本尊で、本尊の両脇にそれぞれ一枚ずつ掛け軸が掛けられるのが普通だ。この両脇の掛軸のことを脇掛という。本尊も脇掛も、宗派によって様子がまったく異なる。真宗大谷派の場合、ご本尊はご存知「阿弥陀如来像」で、脇掛は何やらありがたみのある文句の書かれたものであるらしい。同じ真宗でもお西になると脇掛は仏像になる。曹洞宗では本尊からしてちがう。
「ご本尊はお寺様からしか買えません。でも脇掛ならうちでも売ってますよ。うちで買えば一枚五千円くらいです。」
ご本尊の値段、これを聞いて驚いた。ずいぶんお高いものだ。少しでも費用を節約したいならここで脇掛を買って安くすませてしまえばいい。ついでだから買って行こうとすると、店長はこう諭した。
「いやいや、お待ちください。まずはお寺様からご指示を仰いだ上でお決めになってください。ご本尊だけではダメだ、脇掛といっしょでなければダメだとおっしゃるお寺様もおられますますので・・・」
そうなのか。はたしてガンコー寺の住職、どう言うだろうか。
「来週には仏壇が入りますから、三十代のご本尊をお願いしたいのですが。」
私たちの申し出に、住職はわかりましたと言って、鉛筆舐め舐め例の黒い手帳にメモを取った。初七日の法事の席であった。倫子夫婦と義弘叔父、本家の秋幸さん、貞夫さんといったいつもの顔ぶれが揃っていた。
誰が「本尊だけでいい、脇掛はこちらで買うから」と言い出すのか、みんなお互い腹の中を探り合っていた。早く誰か切り出せよ、私はそう思った。みんなもまた私が切り出すのを期待しているようだった。住職はスラスラと手帳にメモを書きながらこう言った。
「二週間後くらいには東本願寺から本尊が届きます。届いたら連絡をください、仏壇に魂入れをしますから。」
このまま誰も言い出さなければ住職は本尊と脇掛の三点セットで申し込んでしまうだろう。早く誰か切り出すんだ!
切り出したのは案の定、気の強い倫子だった。
「あの、仏壇で本当に必要なのはご本尊だけでいい、両脇の掛け軸は付属品だから仏壇屋で買ってもいいと聞きましたけど、どうなんですか?」
キターッ! 倫子の言葉に住職は一瞬ムッとした表情になり、眉をひそめる。そして、あたかも無知な衆生の者どもにありがたい訓告をたれるようにこう言った。
「あのねえ、そもそも宗教って何でこの世に生まれたのか、オメサン(お前さん)方、考えたことあるかね? ねえろ? 宗教なんか本当に必要んがろかって、そう思ってる人は大勢いらっしゃるろもね、それでもちゃーんと宗教は世の中にある。世の中にあるってことは、やっぱり必要とされてるすけんがあて。
じゃあ何で必要とされてるがろね。もしかしたら宗教なんかねえほうが世の中幸せかもしんねえのう。でもそんな世の中はユートピアらろうの、きっと。宗教は極楽のことを説くけど、極楽で宗教が語られているという話は今まで聞いたこともねえ。極楽には宗教は要らんがあろうの、きっと。だあすけ宗教ってのは必要悪なんじゃねえろかね。あんたらが大酒飲んだりバクチしたり色欲にふけったりするのと
中にはおれは宗教なんか要らんっていう人もいるろもね。ガンとして宗教を受け付けない人ね、これはこれでひとつの宗教んがろうね。こういう人は身内の人が亡くなったらいったいどうするがあろかねえ。まずご遺体をどうするか。マンションに住んでたら地面にも埋めらんねえでしょ? 焼いたお骨を海に撒くなんていう人もいるろも、今の世の中環境問題がうるさくてそれもなかなかできないらしいのう。そういう人には、それなら宗教に頼りなさいな、と言いたい。だいたいどんな人でも肉親の死を平然としていられる人は、まずいない。もしいたらその人はそういう宗教を信じている人らろうの。何らかの形で誰しもが近しい人の死を嘆き悲しみ、悼むもんらこてね。その気持ちが大事んがあて。その気持ちが宗教の基本のがあて。オレは無宗教らという人がいるけど、そいらったら人が死んで坊主なんか呼ばんきゃいいねかね。何でもぜ〜んぶ一人で解決すればいいねかね。ホントに無宗教の人は、無宗教という宗教しかねえこてさ。
じゃ宗教ってのは人が死んだときだけのために必要なのかというと、実はそうでもねえがいの。
オメサン方、普段は宗教のことなん全然考えてねえろね? とりあえずそれでいいがて。宗教によっちゃ日常のイトナミ全部規定して神様を身近に感じる宗教もあるろも、日本人はそうらねえろね。オメサン方は無宗教じゃなくて、宗教が身近でねえだけんがて。
だいたい人間がこの世にオギャーと生まれてから死ぬまでの一生に、何か意味があると思うかね? たぶん意味なんか何にもねえがあて。たまたまこの世に生まれて、生まれたからには生きなんきゃダメら。大昔らったら生きることすら大変らったすけ、何かにすがらなきゃ生きていけんかったがあて。キリスト教もイスラム教も仏教もそのあたりの事情は同じらこてね。でもね、本当の宗教、特に仏教の本質というのは、生まれてきたことに意味がないという事実を自覚することから始まるがあて。意味がなかったら生きていても仕方ないと普通は思うろね? だけどちがうがあて、これが。意味がねえすけに一生懸命生きればいいがあて。逆に自分の生には何らかの必然性がある、何らかの使命を担って自分は生まれてきたんだなんて考えてみなせえ。その人はアタマがおかしいと思われるこてさ。生まれてきた意味なんか本来ない、地球と同じくすべて偶然の産物んがあて。であればなおさら人間は何迷うことなく生きればいいねかて。どう振舞ってもいいし何やったってかまわんがて。そこには善も悪もねえがあて。あるのはただひとつ、生きねばならないということんがあて。生きることに迷いは要らんがあて。もし迷ったらどうするか。真宗じゃ人間何やったったって「南無阿弥陀仏」と唱えてさえいれば必ず阿弥陀如来が救ってくれる。親鸞聖人はおっしゃった。『善人なおもて往生をとぐ、況や悪人をや』。学校で習ったろね? だから本当なら人間は生きてるうちはいつでも「南無阿弥陀仏」を唱えていんきゃあダメんがらて。死んだ人が出て初めて「南無阿弥陀仏」が身近になるんじゃダメんがらて。つまりの、「南無阿弥陀仏」を唱えるのは死んだ人の成仏を願うだけじゃねえがあて。今生きてる人に宗教を身近に感じてもらって、生きることへの迷いを絶つという意味があるがあて。
で、南無阿弥陀仏を唱えるとき何にもねえ所で唱えるよりは阿弥陀如来をご本尊にいただいて唱えたほうが余計信仰心が沸くろ? ご本尊がいつも目の前にあればいつでも宗教の意義を感じることができるねかね。だあすけん、ご本尊は絶対必要んがあて。そのご本尊も、魂が入ってなきゃただのモノでしかねえがて。」
延々十分も話されただろうか。われわれは誰一人として、何一つとして住職に言葉を返せなかった。こうして住職は尊い教えを説きつつも、いつの間にかわれわれを
「それじゃ阿弥陀如来のご本尊はお願いしますけど、脇掛じたいは飾りみたいなものなんでしょ? それじゃ別に仏壇屋から買ってもいいということですよね? どうしても本願寺から買わなきゃならないわけじゃないですよね。」
倫子の言葉にそれまでしかめっ面をしていた住職は突然顔を笑みでほころばせて、こう言った。その顔がまたとても人懐っこく、照れた子供のような、憎めない顔なのである。
「まあまあオメサンさ、そう言うなて。仏壇はこの家の財産になるがあねかて。車らってテレビらって、何でもそうらろね、やっぱりブランド品がいいろがね。そんな仏壇屋から買ったマガイモノをご本尊の脇に飾ったらバチが当たるて。」
何だ、最初からそう言えばいいじゃないか。キリスト教だのイスラム教だのまで持ち出してきやがって。この坊さん、相当な営業マンだ。私が営業でお客様回りをしてもこれだけの営業トークを展開するのは難しい。ご本尊セットを東本願寺から取り寄せると、何か坊さんの位が上がるんじゃないか、あるいはいくらかキックバックやインセンティブなんかがあるんじゃないか、そんな疑いさえ抱いてしまう。まあさすがにノルマなんてものはないのだろうけれど。
一流の営業マンたる住職の口車に乗せられ、結局私たちは法名に院号まで授けてもらうことになった。院号というのは法名につける尊称のようなもので、いくらかお布施をするとつけてくれるのだそうだ。法名の上に「○○院」とつき、位牌にこの院号つきの法名が記されて仏壇に置かれる。これがあるとないとで死んだ人が来世で扱いが違うのかと言うと、そうではないらしい。院号があってもなくてもちゃんと成仏できるし、きちんとお寺さんは法事を執り行ってくれる。だから実際は飾りみたいなものだ。住職のさらなる演説の前に、私達は飾りのためだけにまた大きな出費をしたわけである。この坊さん、ホントにたいしたものだ。サラリーマンで営業やったら、きっとかなりの業績を上げるにちがいない。
仏壇はその翌日には納入された。スーツに身を包んだ若い店員が来て仏壇を組み上げた。店員は奥座敷に入るとまず正座し、数珠を手に父の骨壷に向かって合掌し、仏壇を組み立て始めた。三十代の仏壇は生前父が用意した棚よりずっと小さく、ずいぶんと隙間ができたが、観音扉を開くとそれなりに丁度よく収まっているように見えた。仏壇が収まると次は仏具だ。店員は大きな段ボールから次々紙箱を取り出し、蓋を開けていく。紙箱の中には薄い白紙に包まれた
「宗派によって並べ方ってあるんですか?」
私がそう聞くと、
「もちろんございます。仏具そのものがまず違います。同じ真宗でもお西と大谷派でまた違うのです。」
店員は真宗大谷派の仏具の置き方をよく心得ていた。私は店員の仕事ぶりを感心して眺めていた。その時私はあっと思った。店員が手に取ったのは、首を天に向けて長く伸ばした金の鶴だった。私はこの鶴を前に一度見ていた。それは父を最後にK病院に見舞ったあの日だった。K町の川の中洲に黄金色の夕日を浴びて白鳥が一羽佇んでいた。私はその場違いな美しさにしばし見とれ、あやうく車のハンドルを切りそこねて川に落ちそうになったのだった。その時の白鳥の姿がこの金の鶴の燭台とまったく同じだったのである。あの時の白鳥が父の魂を極楽浄土へと運び、今こうして父の仏壇の中に戻ってきたのかもしれない、私は一瞬そんなふうに思った。
仏壇は三十代よりもう少し大きくてもよかったかもしれない。棚のスペースがありすぎるのだ。ちなみに本家の仏壇は二百代だそうだ。仏具もすべて手作りだそうで、何年かに一度きれいに手入れしてあげないと。金が黒ずんでしまうのだそうだ。この手入れにまた百万以上かかるらしい。さすが本家である。本家のから見ると、さすがに我が家の仏壇はかわいらしく見える。
仏壇棚の空いたスペースには一冊の大判のスクラップブックと古ぼけた賞状の束がしまわれた。
このスクラップブックには、倫子が若かりし頃、インターハイやら国体やらの陸上競技で世をはせた古い新聞記事が保存されていた。父は倫子の偉業をすべてこうし保存していたのだった。中にはコピー機で複写された記事もあったが、このコピーの記事は、父が同僚達に自慢するために会社へ持っていったものに違いない。これを仲間達に見せながら、わが娘たる倫子の偉業を得意満面に語ったのに違いない。その当時、私はそんな父の姿が恥ずかしくてならなかったが、今となっては父への妙ないとおしさがどこかくすぐったい思い出とともにあるだけである。倫子もまた同じ思いだったのだろう。倫子はまるで生まれたての我が子を慈しむような目で自分が載っている記事を眺めていた。ページをめくる倫子の目に、うっすら涙がさしているのがわかった。
古びて茶色になった賞状の束は、父の遺品を整理している際、押し入れの奥からひょっこり出てきたものである。中身を見ると、どうやら父が若かりし頃に地区の陸上競技大会でもらったものらしい。日付はいずれも昭和二十年代、父が二十歳前後の頃のものであった。ずいぶん量がある。お斎の席で父を知る人達から伝え聞いた話がまんざらウソでなかったことがわかる。母にそのことを言うと、
「確かにまあ足は早かったこてさ。それを人に自慢さえしなきゃあ、本当に立派んがあけどね。」
笑いながら母はそう言うのであった。
ガンコー寺の住職によって仏壇に魂が入れられると、私たちは住職に教わった作法に従って合掌した。
お焼香にも作法がある。真宗大谷派ではまず線香を立てることはしない。香鉢の大きさに従って折ってもかまわない。抹香を焚くときは、淡々とつまんで線香にかければよい。抹香を額におしいただくこともしなくていいし、立ち上る線香の煙を仰ぐ必要もない。焚くのは二回と決まっているが、素っ気ないくらいそのままかければよろしい。ただし、焼香を終えた後にしなければならないことがひとつある。次に焼香する人のために、つまんで凸凹になった抹香の表面を平らにならしておかなければならない。仏様ではなく生きている人に向けたマナーのように思える。合掌のしかたにも個性がある。
この作法は通夜の席で教わったのだが、私が喪主であったからまず最初に焼香するのは私になる。後に続く参列者は私を真似て焼香するのだから、私の責任は重大であった。作法を間違えないようにと思うと余計緊張する。緊張して焼香したせいだろうか、この大谷派の作法を、私は体で覚えてしまった。
線香に着火する際の作法については、これといった指示はなかったが、若い住職がやった着火の仕方がいかにもその道のプロといった風情があってカッコよかったので、ちょっと紹介しておこう。
ます線香をニ、三本手に取り、それをおおむね三等分に折る。次に揃えた先端を扇状に広げて手に持ち、一番下になった一本を蝋燭にかざして、その一本だけに火を着ける。火のついた線香を上下に煽りたてるように動かすと、あら不思議、火が一番下の線香から次々上の線香に昇っていくように見えるではないか。扇形の線香すべてに火が移ったら線香の火を消す。若住職がやったときは線香の火が一瞬にして消えて、扇の軸それぞれから白い煙が立ち上った。この若住職の着火方法があまりにもカッコよかったので、私は真似して今でもこのやり方で着火している。
私同様、わが子供らもまた線香を焚きつけることに面白さを見出したようだ。私が上げた後でも次々新しい線香に火を着けていく。もういいと言ってもすぐ火をつけたがる。おかげで奥座敷に煙が充満し、火事のようだ。いくら線香が芳しいとはいえ、それだけの煙が立ち上るとさすがに臭い。
父の骨を初めて目にしたのはこの翌年の春、ゴールデンウイークで長岡に帰ったときだった。
冬の厳しさが嘘のような麗らかな春の午後であった。父が生前指定していたガンコー寺の所定の場所には、すでに墓が建っていた。冬の間に母が秋幸さんの知人を通じて安く買った墓だった。
墓を買うに当たって秋幸さんはサンプルの石板を何枚か持ってきた。いずれも御影石で、白い石もあれば黒い石も灰色の石もあった。サンプルの石板の裏にはマジックインキで「インド産」だの「糸魚川産」だのと書かれていた。秋幸さんによれば、国産の御影石は若干値段が張るのだそうだ。
「安いやつでいいて。」
母は仏壇を買ったときと同じセリフで墓を買った。
周囲の墓と比べてピカピカに輝く墓石を私たち家族と本家の秋幸さん、貞夫さん、義弘叔父が取り囲んだ。みな礼服で汗ばむくらいの陽気だったので、タオルで額を拭きながら、ガンコー寺の住職を待った。本堂から小さな鉦を手にした住職が現れた。一同住職にお辞儀した。
住職の指示に従って白木の骨壷が母の手によって開けられた。恥ずかしい話だが、墓の下に実際に遺骨が入れられるということを私はこの時初めて知ったのであった。父の骨は、葬式が終わってからずっと仏壇の脇に置かれ、母とともに一冬を過ごしたのだった。
開けられた骨壷の中からところどころ薄茶色にまみれた灰白色の骨片が現れた。その骨を見た瞬間、私はこの骨がまさしく父であることを直感的に悟った。それどころかどの骨がどの部分に当たるのかさえ明瞭にわかるような気がした。
墓石の前の部分が開けられた。墓の奥は真っ暗闇だった。父の骨は、いったん母の手でアルミ製の大きな塵取のような容器にあけられた。この容器はガンコー寺から借りたものだ。母は父の骨を大事そうに一つ一つ丁寧に容器にあけていった。白木の骨壷に白い粉だけが残った。これも父の一部だった。この粉もすべて一粒残らずアルミの容器にあけられた。
「それではお墓にお骨をお納めください。」
住職が言う。納骨は私の仕事だ。私はアルミの入れ物を無造作に墓の中に傾けた。まるで塵取にたまったゴミ屑をゴミ箱に捨てるような感覚だった。墓の入り口が狭かったので、脇にいくつか小さな骨がこぼれ落ち、白い粉が舞い上がった。この様子を見ていた住職が大声で怒鳴った。
「おい、お前さん、バチ当たりな入れ方をするんじゃない! 大切な人だったんだろ、もっと丁重に扱わんかい! まったくお前さんもいい加減な人だな。」
私が父を人として扱わなかったのはこのときが初めてではなかったような気がする。もうずいぶん前からだったような気がする。末期の父がK病院にいたとき、車椅子で父を運ぼうとして父の足を長椅子の角にぶつけてしまったことがあった。そのとき父は「いてえいやあ。」と訴えたが、その痛みを私はまったく無視したのであった。
納骨を終えて一月ほど経った土曜日の朝、まだベッドでうとうとしていると、突然枕元の携帯電話が鳴った。表示を見ると、めずらしく倫子からである。倫子からの電話は本当に久しぶりだ。父が生きていた頃は、病院からの電話同様、また父が何かやらかしたのかと一瞬どきりとしたものだが、父の介護から解放された今となっては、何気兼ねすることなく電話に出ることができる。ただ一つの不安要素を除いては。私達に残された唯一の不安、それは母の健康状態である。まさかまた母が倒れたのではあるまいか。いやいや、父が死んでからかえって前より元気になった母のことだ、そんなことはあり得ない、だが急性の心筋梗塞が再発しないともかぎらない、寝ぼけた頭でそんな思いをめぐらせながら電話に出る。電話の向こうから、明るい倫子の声が響く。
「寝てたけ?悪いね、突然。今さ、ばあちゃんとタカちゃんと三人で富士山にいるんだよ。これから東京周りで長岡に帰るから、その途中でオメサン家に寄りてえってばあちゃんが言うもんだから、これから行くからね。」
倫子によると、死ぬ前に一度富士山に登ってみたいと母が言うので、日取りを合わせて昨日、行ったのであった。
倫子らは午後三時を少し回った頃にやって来た。
まだ子供達が保育園に通っていた頃、風邪を引いて休ませなければならなくなると、呼び出せばすぐ長岡から駆け付けてくれたものだ。共働きの我が夫婦にはとてもありがたかった。それが父が死んで以降、こちらがいくら頼みこんでも「心臓が心配だから」と、一向に来てくれなくなった。以前ほど子供に手がかからなくなったからまだいいものの、私はちょっと寂しかった。今になって思うに、あの当時からすでに、母は一時でも長くワガママな父から逃れていたかったのだろう。孫の病気は家を離れる絶好の機会であったというわけだ。そんなわけで、母が我が家を訪れたのは、実に久しぶりであった。
一方倫子はというと、これが実に二回目の訪問だった。意外に思われる方もおられようが、兄弟の縁なんてそんなものだ。まして情の薄い私のこと、兄らしいことをこれまで何ひとつしたことのない私のことだ、二度の訪問というのは多いほうかもしれない。
カラリとよく晴れた日曜の午後だった。倫子達はいそいそとやって来た。マンションのインターホンが鳴る。通話ボタンを押すと、
「アタシらて、着いたて。」
と、玄関ホールに響き渡る倫子の声が聞こえる。子供らが「来た、来た」とはしゃぎ出す。しばらくすると部屋のインターホンが鳴り、うれしさのあまり狭い廊下をドタドタ駆ける子供らの後から、私はゆっくりと玄関口へお出迎えに出た。玄関の扉が開き、倫子が満面の笑顔で「どうも〜」と簡単な挨拶をする。そのすぐ後ろには母の笑顔があった。母の後ろからは人懐っこい矢野さんが顔を出す。
そのとき私ははっと思わず息を呑んだ。矢野さんのすぐ脇に父が立っているではないか! 青々とした初夏の空を背景にして、父は写真とまったく同じ黒目がちな垂れた目で、歯のない笑顔をたたえてながら、じっと私を見ていた。
「何だ!おまえら、じいちゃん連れて来たんか!」
私は思わず大声で叫んだ。倫子が素っ頓狂な表情で私を見た。私がいったい何を言っているのかわからず、倫子は「はぁ?」と言う。母が背後を振り返った。しかしすでに父の姿はなかった。
父が死んでからというもの、倫子はまるでこれまでの人生を反省するかのように親戚づきあいを大切にするようになった。福島から帰った時は、なるべく本家に立ち寄るようになり、矢野さんとともに評判を上げている。
「アタシ、この歳になってやっと−」
倫子は言う。
「−親戚のありがたみがわかったて。今の今まで、自分が人と人とのつながりの中で生きてることがわからんかったて。」
母はやや耳が遠くなったが、父が生きていたときよりもかえって元気になった。
千葉の叔父はこれからは自分の時代だとばかりに親戚が集まる宴席では、ますます遠慮なく酔っ払った。
義弘叔父は娘さんの友人からピアノを習い始めた。この友人というのが結構な美人だそうで、奥さんに言わせると、六十を過ぎての手習いに生きがいを感じているらしい。本人は
「お前んちの父ちゃん見てるすけん、今からボケねえようにしてるがいや。」
などと弁解じみたことを言っているが、案外まんざらではないようだ。
本家の秋幸さんは、葬式の二週間後に跡取り息子の結婚式を控えていた。秋幸さんは、母にこの際延期したほうがいいのではないかと相談したのだが、わが母はお祝い事とこれとは別だから気にせず進めてほしいと答えたのだった。
ちなみに秋幸さんの息子さんの結婚式には私が出席した。礼服は長岡に置きっぱなしだったので、ネクタイを黒から白に変えるだけでよかった。この一ヶ月間で礼服は大活躍したわけだ。結婚式が終わって、新郎新婦が来賓のみなさんにぜひ花束を持っていくよう勧めたが、私は「花ならいま家にたくさんあるからいいよ、菊だけど」と答え、秋幸さんらを笑わせた。新郎新婦が来賓をお見送りする際、小さな可愛らしいキャンドルをおみやげに配ったのだが、その時も私は「ロウソクなら家にたくさんあるからいいよ」と言って秋幸さんを笑わせた。
そして私。
私はいま、私の姿格好立ち振る舞いのすべてが父そっくりになった、まるで生き写しだ、妻からも子供達からもそう言われている。
(倫子のメロドラマ・完 平成二十年八月)
ここでいったん連載を終了させていただきます。
読みづらい雑文に最後までお付き合いいただきました読者の皆様には本当に感謝しております。本当にありがとうございました。