昨日、SUSONOとWaseisalonどちらにも所属してくれている木津さんのブログを読んでこんなツイートをしてみました。
引用RTで多くの方が自分の意見を表明してくださって、本当にとっても参考になりました。どうもありがとうございます。
今日は少しだけ自分の意見も書き残しておこうかなと。
他者に自己の意思決定権を手渡さない限りは、群れずにいられる。
思うに、それぞれが自分で考えることを放棄しない限り、僕は群れずにいられると思っています。
どれだけ他者と群れようとも、他者に自己の意思決定権を手渡さない限りは、群れずにいられる。
逆に、僕が誰かと対峙したときに一番げんなりしてしまう瞬間は、相手が考えることを放棄したと見て取れたときです。
決して相手と意見が対立したときではありません。(むしろ互いを尊重した上での対立は大歓迎!)
強いて言えば、これが「ファン」と「仲間」の一番の大きな違いだと僕は思っています。
下記のインタビュー内で語った漫画『バガボンド』の一節が好きな理由もそれです。
なぜひとは、考えることを放棄してしまうのか?
じゃあ、なぜ考えることを放棄してしまうかと言えば、それは執拗に答え(らしきもの)を提示してしまうからだと、僕は思います。
子供が親の言いなりになってしまうのも、それがきっと理由で…。
「こうしなさい、ああしなさい」と自分で考えるための余白を与えずに、逆に考えることを放棄させたほうがラクになるように仕向けるから、自分で考えることを容易く放棄してしまう。
だからこそ、コミュニティやサロンの運営側が常に気をつけることは、答えが一つではないということを明確に伝えること。
そして、正解らしきものは極力提示しないことだと僕は思います。むしろ、積極的に余白を残していくこと。(これが従来の組織論と大きく異なるところでもある)
あくまで、運営側は場の提供だけに徹するべきであって、それ以上でも以下でもない。
僕がWaseisalonで、オーバーエイジ枠をつくった理由もまさにそこにあります。
最後に
逆に言うと「ファン」や「信者」と呼ばれるような人々を束ねていきたいのであれば、どんどん答えらしきものを提示していったほうが効率は良いのでしょう。
でも、そもそもこの世の中には正解なんてものは存在しないのだから、各人が自分で考えて、それぞれが自分の責任で意思決定を下せるための空間をつくっていったほうがいい。
そうすることで結果的に携わっている人々全員にとって、良い結果が待っていると僕は考えます。
もちろん、ときに残酷な面も含みますし、時間もものすごく掛かることではありますが、そうすることで「群れずに群れたい」を実現し、本当の仲間と巡り会えるようになる、というのが今の僕の仮説です。
いつもこのブログを読んでくれている方々にとって少しでも考えるきっかけとなれば幸いです。