「故郷のアレッポには戻れない、僕はブラックリストに載っているから」
アレッポ大学考古学科で講師をしていた時の教え子の一人、Yのこの言葉は、現在、外国に逃れている多くのシリア人に当てはまる。
Yは紛争の当初、破壊に瀕する文化財を保護しようと、「反政府」側で活動していた。
そのため政権側から目をつけられ、最終的に国外に逃れた経緯があるが、彼に限らず、「反政府」的な言動を行ったとされる者は、たとえシリアが「平和」になったとしても、国に帰った場合に想定されるそれ相当の「処分」に、非常な恐れを持っている。
「アラブの春」のうねりに呼応して、シリアで2011年3月に始まった自由と尊厳を求める市民の政権への抗議行動は、早い段階で政府の力の弾圧により押し潰された。
その後、宗教をかたる過激派の台頭を経て、自国の利害を追求する数ヵ国の介入は本格化し、国の主役であるはずの国民は不在であるかのごとき状況となっている。
シリアはいい国であったと、紛争前のシリアに行ったことのある人の大半は言う。実際、私もシリア人の暖かい笑顔と寛容さを23年間堪能しながら過ごした。
シリアはシリア人がいるからシリアなのだ、とある友人は言った。シリアは多民族国家であるが、この暖かで寛容な人々の中では、民族による区別などは二の次の問題であった。
私は、シリアではアレッポに住んでいた。アレッポは人口300万人ほどの大きな街だ。
もともと旧市街と呼ばれる地区と、その周囲の地区がアレッポの中心をなしていたが、この50〜60年の間にそれ以外の地域を取り込んで、街は急速に拡大した。
街は、元からアレッポに住んでいた人々と、周辺地域から移り住んだ人々で構成され、そこには様々な社会レベル、教養レベルが混在する。
この多様性を背景に、街は伝統的な旧市街や、洒落た店のある繁華街、クリスチャンの多く住む地区、周辺の村落部から出てきた人々が住みついた地区、クルド人の多く住む地区、等々で構成されていた。
しかし、それらの区割りは民族や宗教で厳密に分けられている訳ではなく、クリスチャンの家族の隣がムスリムの家族であったり、アラブ人の隣人がクルド人であったり、アルメニア人であったり、ということはザラにあった。
このような種々の人々が住む日常の中では、それぞれが他者に対して余裕とユーモアを持って接する。
例えば、いわゆるクリスチャン街であるアズィズィーエ地区のキリスト教会に囲まれた場所にタウヒードというモスクが1980年代に建てられ、その立地からこのモスクには「ジャーマア・ジャッカーラ」(当てつけモスク)という茶化し気味の呼び名がつけられたが、クリスチャン、ムスリム双方が、この呼び名を笑い話の材料にしながらその存在を尊重していた。
皆がそれぞれの帰属意識を大切にしていたが、そのことは共存の意識と矛盾するものではなかった。帰属間には、それなりの障壁があることは否めない。例えば、ムスリム男性と結婚したクリスチャンの友人は、「幸せだけど、やはり夫婦で宗教が違うのは大変」と言っていた。しかし、それは共存の枠組みを超えるものではなく、皆が節度を持って他者に処して来たのである。