昔、夜道を(詳細は省くけど)いい感じになった女性と手をつなぎながら歩いていた。各々その日は家に帰る必要があり、いつまでも一緒にいることはできなかった。が、可能な限りふたりでいられる時間を引き延ばすために、最後の最後まで(要するに終電が来るまで)とにかく手をつなぎながら街を歩いた。特に言葉はいらなかった。ただ、一緒にいられることがたまらなく嬉しく、同時に、残された時間が少なくなっていくことの「どうしようもなさ」を噛み締めながら、歩き続けた。
が、時間の流れは残酷なもので、我々ふたりの間にも、別れの時間は訪れた。私が「時間だね。もう行かなくちゃ」と彼女に言った。ら、彼女は、これはもう本当に尋常ではなくかわいらしい感じのふくれっ面を浮かべながら「つまんないの」と言った。その、なんて言えばいいのだろう、まるで少女のように無垢な言葉に、私のこころは「ぎゅーん!」となった。私は、かつて、これほどまでに『言葉とこころが一致をしている』発言を聞いたことがなかった(ように思う)。いまでも時折、この、彼女が発した「つまんないの」という言葉を思い出す。
クソみたいな日々を過ごしていました。
今日はこれから別府経由で大分に向かう。明日以降の予定はない。昨日まで、福岡と下関を行ったり来たりしていた。道中、自分実況に(ちょっとだけ)はまった。色々なひとにあった。ひとに会うときは(余裕がある時は)花を渡すようにしている。下関駅前の大丸の花屋さんと、博多駅ビル内の青山フラワーマーケットの店員さんと、無駄に顔馴染みになった。あ、あいつまたひまわりを買いに来たよとか思われていた気がする。
私は、悪態をつかないと自分のバランスを保てない。みなさまは悪態をついていますか??下関ではゲストハウスに招待された。その宿は外装も綺麗でいかにも「いまっぽい」感じの宿だったのだけれど、チェックイン時にいろいろ細かいルールブックを強制的に読まされた段階で「なんなんだ!」と思ってしまい、結果的に海辺で寝た。私は、多分、おしゃれな場所が苦手なのだと思う。正確には「おしゃれなお店をいかにも『自分おしゃれです』と思ってやっているひとたち」とは、肌が合わないのだと思う。
海で寝ながら「おれはなにをやっているのだろう」と百万回くらい思った。いい加減おとなになれよと思った。が、同時に「夜の風は死ぬほど気持ちがいいなあ」とも思った。海辺ギリギリの断崖絶壁みたいな場所にひょっこり体育座りをしながら、夜空を見上げたりしていると「おれにはここがお似合いだ」みたいな気持ちになる。と、この時の出来事を博多で出会った男性に話した。ら、男性は「坂爪さんはもっと華やかな日々を過ごしていると思っていたので、なんだか親近感が湧きました!」と笑ってくれた。私は「クソみたいな日々を過ごしていました!」と答えた。答えながら、なんだかとっても楽しい気持ちになった。
自伝風物語の更新は続きます。
書き続けることができている自分を褒めてあげたい。最近、自分の傾向を少しつかんだ。私は「こどもといると元気になり、おとなといると元気がなくなる」みたいだ。言いたくないことを言ったり、笑いたくもないのに笑っているひとを見ると「社交辞令ってなんだ??生きるってそんなことか??」と問い詰めたくなる。これは非常に生きづらい。生きづらさを感じたときは、生きづらさを克服したひとだけではなく、自分と同じ生きづらさを抱えているひとに慰められる(ことは多い)。とある女性が書いた、この、素晴らしい言葉に励まされたりしていた。
i wanna be adult who can be child.
おとなになりたい。こどもになれるおとなに。
i wanna be human who can be animal.
にんげんになりたい。どうぶつになれるにんげんに。
面白い人生を送るには、自分が面白くなるのが一番。
ここまで書いて、大阪で震度6弱の地震があったことを今更知った。みなさま大丈夫だろうか。最悪の場合は熱海か横浜の家【ごちゃまぜの家】を避難場所(?)として使うこともできるので、家が崩壊したとかなにかありましたら、遠慮なくご連絡ください。生きているといろいろなことがある。時には「まじかよ!」と思うことも。困った時はお互い様、という言葉は本当に素晴らしい言葉だと思う。困った時は、(これも「甘える力」とか「助けを求める力」を磨く機会だと捉えて)おおいに甘えた方がいいのだと思う。
🌈🌈🌈 ごちゃまぜの家の成り立ちはこちら 🌈🌈🌈
生きていると「つらい」と思うことがある。が、愛別離苦や地震の苦しみは別として、基本的に、仕事や学校がつらいと思う時、それは「実は、つらいのではなく『つまらない』だけ」なのではないだろうかと思う。現在、私は好き好んで移動を続ける日々を過ごしている。が、自分でやりたいと思ってやっておきながら、いつの間にか「つらい…」と思って自爆をしていることは多い。この数日間も、勝手に自爆をしては「生きるのがつらい…」などと思って自滅をしていた。が、実際は自分が自分(の生き方)に飽きているだけに過ぎなかったのだと思う。
つらいは一時的な感情で、積もり積もると「つまんない」になる。生きることがつらいのではなく、生きることが「つまんない」ことになる。多分、退屈と虚無は似ている。放置された退屈は『虚無』を生む(気がする)。これは危険だ。虚無はやばい。虚無はブラックホールのように人間のすべてを飲み込んでしまう。多分、生きることは自分自身のクラッシュ&ビルドだ。虚無っている場合ではない。規定された自分を壊し、新しい自分に生まれ変わること。ここに生きる醍醐味はあるように思う。格闘技をライフワークとする男性と、先日、牧のうどんで『強さ』について話した。牧のうどんの盛りは半端ない。私も、また、強さをもちたいと思った。
強さとは何か今の僕が考え付くことが幾つかあります。
まず、強い人は力んでいません。スパーリング(試合形式での対人練習)の際に、対戦相手はまさに殺気プンプンで自分を殺しにくるような展開です。そんなときでも力まずに対処しているように見えます。なんだか包み込まれるような大らかさのようなものを感じます。度胸があるというのでしょうか。肚が据わってる感がハンパないです。覚悟を感じます。
あと強い人は流れを読むのが上手で、その流れに身を任せているような気がします。
勝負処が分かっているかのように振舞います。
僕のような雑魚は手玉に取られて手のひらで泳がせられるような感覚です。泣
他にも実生活で感じる強さもあります。
強い人の優しさと弱い人の優しさは全然違います。
弱い人の優しさは一様に表面的で、その場をしのぐ為だけの取り繕ったものです。
強い人の優しさはより本質的で、厳しいようにも見えますが、胸に響きます。自分の弱さを認めれない者はほぼほぼ反発します。
強い者の大らかさに触れたときに反発したことを後悔します。
僕の人生はこれの繰り返しでした。笑
強さとは何か。僕自身弱い男なので喧嘩に例えるようなことでしか表現できません。スイマセン。泣
あと家族のことです。
とても考えさせられています。
元はといえば赤の他人同士がくっついて家族というモノを作り上げるのですね。
また孤児院で育つ子供たちのことを考えると、新たな視点から何か見えてきそうな気がします。
現代の日本では年間の結婚件数に対して3割程の離婚件数があると以前兄に教えてもらったことがあります。
なんでこんなにも離婚件数が多いのかと驚きました。
実際、僕のまわりの結婚をした友人は8割離婚しています。笑えません。子供たちのことを思うと可哀想で仕方がありません。
この負の連鎖をどこかで断ち切らなくてはいけません。
人生の課題が増えました。
坂爪さんにはホントに感謝の気持ちしかありません。
ありがとうございます。
うまく口にすることができなかったので、自分の思いをこのような形で伝えることになってしまっています。泣
死ぬまで男を磨きます。
坂爪さんに会えて直に会話ができて、生きてたらイイことがあるなと、神様ありがとうと帰りの電車で満ち足りた気持ちになりました。
拙い表現しかできず、申し訳ございません。
長くダラダラと一方的に発してしまうのが僕の悪い処です。
男を磨きます。
どうぞこれからも宜しくお願いいたします。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu