ついにはじまってしまいました。ワールドカップ。初日からやっぱり夢中になってしまい、他のことはなんにも考えられない次第。たぶんここの日記もさらに鈍行となり、他のブログに遊び行くこともあまりできなくなるかとおもう。(ゴメンナサイ)
けれど、わたしにとっては4年に一度の大イベント。なんなら遅刻だの欠席だのドタキャンなぞしてしまったとて、言い訳としては最大級に免除される理由となるほどの、大イベント。誰の許しを乞うことなく、ここから数週間、世界中のフィジカルばかたちの大競演に釘付けにされていこうと、そう、おもうのです。
(・・というようなことは、今回の話題とはまったく関係の無いことなのですが。)
かのじょが若い子と談笑をしているときに、荷物がいつも重いので「ホイポイカプセルが欲しい」というと、なんですかそれ?といわれたらしい。ホイポイカプセル知らない!?わたしは大いに驚いた。
現在進行形でいまでも沢山のコンテンツに組み込まれている「ドラゴンボール」なので、タイトルを知らないひとはあまりいないにしても、もはや本筋は知らないという世代がいよいよ現れていたことに、わたし的にはびっくりした。
まあ端的にいえばジェネレーションギャップの話なのだけれど、わたしにも10歳以上下の友人アイくんがいて、普段彼と話している限りでは、さほどそういうギャップみたいなことを感じたりはしない。
無理に話を合わせたりしているかとおもうときもあるけれど、必ずしもそういうわけでもないようだ。時々向こうから予期せぬ変化球が投げ込まれることもある。「異邦人いいですよね、」だとか「さよならの向う側」だとか、わたしよりもさらに前の世代の歌謡曲を知っていたりする。
それにしたって話を合わせてくれているに違いないが、確かに彼はそれらの曲を聴いていて、良いと感じていることには変わりないだろう。古い曲知ってるよねというと、動画でそういうのあるんですといい、「結構聴いているんですよ」なんていう話し通り、アイくんは確かによく知っていて、こちらが関心することも多々ある。
そうかとおもうと、以外と、というかやっぱり知らないこともあり、わたし的にはその垣根みたいなものがいつも掴めずにいる。試しにわたしが、ホイポイカプセル知っている?と訊くと、「あー、なんでしたっけ?」と案の定いい、ほらドラゴンボールの、とまでいえば、「ああ、わかりますわかります」とようやく思い出す。
今の時代は動画でも何でもいつでも引っ張り上げることができて、良いものや話題の作品は時空を超えてある程度のものならばいつでも見ることができる。
音楽でも映像でもそれらがいつの時代のものかだとか、どういう背景のもとに作られたものなのかなんて、たぶんみんなそれほど気にしてはいない。
ただウェブ空間に落ちていたものが少しだけ気になって、しっかり、(あるいはかいつまんで)眺めてみたらすごく良いものだったりして感動したことは、誰しもが経験していることだろう。
そういうのはすごく良い時代になったとおもうし、いわずもがな便利になったとおもう。それでもウェブには明らかに得手不得手があって、話題になりやすいものはずいずいコピーされて増殖していくいっぽうで、同じコンテンツだとしても話のネタにならないようなものは、なんとなく忘れ去られていく印象。
アニメやゲームなどは圧倒的にウェブと相性が良いようなので、ましてホイポイカプセルがそうだとはいわないけれど、リアルタイムで「ドラゴンボール」をみていた世代のわたしとしては、絶対に忘れないアイテムだとはおもう。
訊ねたことはないけれど、たぶんアイくんは、「スラムダンク」のバスケがしたいと泣きだすロン毛の男のフルネームまでは知らないかもしれないし、ザクとは違うと息巻いていた赤い彗星は知っていても、間違いなくカイシデンが惚れたミハルのことは知らず、ましてポジとネガといっただけでクリーミィマミちゃんを連想することなんて、逆立ちしたって絶対にあり得ないとおもう。
わたしからしてみれば、そういうアニメやマンガは当時の自分のカルチャーに平行して側にあったもので、詳しくなくても知っているのが当然なのだけれど、そういう時代に横たわったものが現代にふわりと浮上したり沈んだりしていくのを感じたりするのは、単純に面白いとおもう。
なんてことが話したかったわけでもないのだった。またしても思考の関連ワードが走り出してしまった。
本当はドラゴンボールのエンディング曲の話がしたかっただけなのだ。
あの、雨の日にブルマが白いワイシャツで、物憂げに窓の外を眺めているエンディング曲は、少年のわたしをドキドキさせたものだ。
三浦半島の突端に住んでいる友人がいるのだけれど、そいつは三十過ぎるまでずっとニートで、楽器ばかり弾いていた。
彼の家へ遊びに行くと、彼はヨレヨレのシャツでぼぞぼぞと言いながらわたしを招じいれ、ギターを弾いたり作った曲を聴かせてくれたりした。
グラインドコアにアレンジされたビートルズのカバー曲やら、オリジナルのテクノやボサノバなど、ジャンルを問わず彼はたった一人で作り上げていた。
ニートだったことにはそれなりの理由があるのだけれど、それにもまして、彼はお世辞にも人付き合いが上手な人間ではなかった。
話し声なんて、蚊の鳴くようといっても大袈裟でもなく、か細いというよりもなんならうめき声でしかなく、いつも主語さえないので、ほとんどのひとには理解さえされないほどだった。
どうしてわたしたちがそういう彼と馬が合ったのかは判然としないが、仲間内でも理解し難いその彼の話し声を、気がつけばわたしだけが耳をそばだてることでなんとか聞き取り、その意思をみんなに伝える通訳の役割を担っていたものだ。
だが音楽のセンスは抜群だった。(・・といっても、大手を振って一般ウケするようなセンスとはいえないが)彼はギターもベースもドラムも出来たので、その気になればその道で食べていけるくらいにはなっていたとはおもう。
わたしはクラブで働いていたりイベントのオーガナイズをしていたりした時期があったので、そのセンス開花の手助けに、少しでもなればと、彼をイベントに引っ張り出したりもした。けれど、如何せんひととのコミュニケーションがうまくいかず、孤立してしまうので、彼はあまり積極的には来たがらなかった。
仲間内では“プロニート”だとか“咲かない才能”だとか“誰にも知られることのない花”だとか揶揄したり、鼓舞したりもしたが、天性でマイペースの彼は、そのセンスを世の中に広めたいという野心みたいなものが、圧倒的に欠けていたようだった。
それで、結局は彼の音楽を聴きたい時には、個人的に友人として、彼の家を訪ねることが一番手っ取り早い方法だということに収まっていった。
彼の家を訪ねる時は、たいがい夏場だった。目の前が美しい海だったことと、海水浴の誘いだけは、なぜか彼も躊躇なく承諾したからだ。
わたしたちはたまに気が向くと車を走らせ、三浦半島の突端、大きな橋の下にある彼の家へと出向き、誰もいない海岸で、万華鏡のようにキラキラと光るイワシの群れと泳いだり、岩礁に取り残されたイソギンチャクをつついたりして、子どものように遊んだものだ。
そうして夕方になると彼の家へと戻り、シャワーを借りてカップラーメンを啜ったものだ。 彼の家では一匹の雌の豆柴を飼っていた。そいつもまた、人見知りが激しく、いっこうに懐こうとはしなかった。顔つきも家主たちとよく似ていて、犬のくせにどうやら散歩すらも嫌がるらしく、彼と(ついでに彼の弟と)同じく、まさにニート犬であった。
古い母屋の玄関には大きな木が絡みつくように繁茂していて、記憶の限りではいつでも大きな赤い花が咲いていた。
「この紅い花の木はなんて名前?」あるときわたしは訪ねたが、彼は返答をしなかった。彼に限っては、まったく返事をしないことなんて珍しいことでもなかった。
リビングで一息ついて、みんながシャワーを浴び終わると二階の部屋に上っていった。やけに蒸し暑く西日がひどい部屋ではあったが、そこにはとびきり音の良いアンプとスピーカーがあった。
わたしたちは彼の音楽コレクションを漁り、次々とそれを聴き、それから彼のオリジナルの新作を聴かせてもらったりした。田舎町なので窓を開け放して大きな音を出しても誰も文句をいいには来なかった。いつでも大音量。それがなによりも心地よかった。
一通り音楽を聴き終わると彼は時々ギターを弾いた。アイズレー・ブラザーズ、マディ・ウォーターズ、ランシド、ニルヴァーナ、サブライム。リクエストをすればたいがいは弾いてくれた。
あるとき彼は、だれのリクエストでもない曲を弾き始めた。ボサノヴァ調にアレンジされていたけれど、わたしたちはすぐにその曲がわかった。わからないわけがなかった。わたしたちの年代ならば、誰でも知っている歌だった。
それから彼は小気味よくイントロをはじくと、消え去りそうなかすれた声で歌い出し、にやりと笑いながらわたしたちのほうを見た。
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わたしたちは続いて歌い出した。太く低い男ばかりの歌声は、ひどくアンニュイに西日の差す窓辺から落ちていった。窓からみえる紅い花は、そっとわたしたちの不格好な歌声を受け止めていた。
ロマンティックあげるよ(あげるよ)
ロマンティックあげるよ(あげるよ)
(あげるよ) の合いの手のあとで、ロマンティックほしーなー、ロマンティックほしーなー、とわたしがさらなる合いの手を打つと、他のみんなはめいっぱいの声で歌い上げるのだった。
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それ以来、わたしは時々こうおもう。果たしてわたしは“ホントの勇気”とやらを一度だって誰かにみせたことがあるのだろうか?わたしはいまでもその答えを見つけられずにいる。
歌い終わると彼はぼそぼそとなにかを呟いた。耳を近づけてみると、「ブーゲンビリアだ」とひとこと。「なに?」ブーゲンビリア。「だからなにそれ?」わたしがしつこく聞き返すと、彼はじっと窓の外をみた。
やがて彼はニートを止め、働き出した。スロースターターなのだ。
彼とはしばらくあっていない。電車に小一時間揺られ、あるいはレンタカーでも借りればすぐに逢いにいけるのに、わたしはなぜかそうしなくなった。
ただこうして時々思い出す。彼のこと、ブーゲンビリアの咲く古い母屋のこと。親父さんの笑顔。寝たきりの彼の母親のこと。それから彼女を介護し続け、働くこともすきな音楽の夢を追うこともしなかった、優しい彼のこと。ついでに弟とニート犬のこと。
たしかに彼は落伍者かもしれない、今でいえばコミュ障なのかもしれない。けれど彼は間違いなく人生を自ら選んではいたのだ。選ばない人生を選んでいたのだ。わたしはそうおもっている。
なぜなら彼が、彼の母親に対して、“本当の勇気”をいつも見せてたことを、わたしはちゃんと知っているからだ。