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そこにはいか焼きにかぶりつく私を、驚いた顔で見つめる若葉ちゃんの姿があった。
「えーっとぉ…」
若葉ちゃんは思わず声を掛けてしまったものの、そのあとをどうしたらいいかわからないといった様子で、言葉を探していた。
しかし私はそれ以上に内心パニックに陥っていた。動悸が止まらない。
どうしよう。今までずっと、外では知り合いに会わないように気を付けてきたのに。こんな小さな縁日なんて、瑞鸞の生徒がいるわけがないと高を括ってしまった。普段だったら絶対に人目に付かない場所で食べたはずなのに。バカすぎだ、私。どうしよう、瑞鸞の生徒に見られてしまった!
「えっと…、奇遇ですね?」
若葉ちゃんが少し困ったように言った。
「…そうです、わね」
食べかけのいか焼き片手にお嬢様ぶってる私ってば、とんでもなく間抜けだ!ああ~っ!なんで食い意地に負けた、私!前世の思い出に浸って油断しすぎだ、バカ!
瑞鸞の生徒達の顔が次々に浮かぶ。芹香ちゃん、菊乃ちゃん、あやめちゃん、流寧ちゃん…。ピヴォワーヌのメンバー。会長。あぁっ、会長の瑤子様に知られたら、私は終わりだ!ピヴォワーヌの恥晒しと、私の所業に怒り狂う会長達の幻影が見える…。
「あの、大丈夫ですか?」
ネガティブ思考に陥って黙り込む私に、若葉ちゃんが遠慮がちに声を掛けた。そうだ、口止め!
「高道さんっ!」
「はいっ!」
若葉ちゃんは直立不動で返事をした。
「このこと、誰にも言わないでもらえないかしら…」
「このことって、今日会ったこと?」
今日会ったことというか、正確には私がいか焼きにかじりついていたことなんだけど…。
「その…もろもろすべてです…」
「…う~ん、よくわからないけど…。でも、わかりました。今日のことは誰にも言いません!」
「えっ、本当?!」
本当に?!誰にも言わないでくれる?!
「うん!約束します!」
若葉ちゃんは力強く頷いた。
「ありがとう!絶対ね、約束ね!信じてるからね!」
「う、うん」
必死に詰め寄る私に若葉ちゃんは少し引いたけど、もう一度ちゃんと頷いてくれた。
よし。マンガの通りの若葉ちゃんなら、きっと信用できる!たぶん、きっと!むしろ無理やりにでも信じないことには、今夜怖くて眠れない。
「では、私はこれで失礼しますわね」
とりあえず若葉ちゃんの前から逃げたい。逃げたところで私がいか焼きにかじりついていた姿が、若葉ちゃんの記憶から消えることはないのは、重々わかっているのだけれど。今は現実逃避したい。
私は愛想笑いをして食べかけのいか焼きを手に、若葉ちゃんの前から去ろうとした。
「待って、吉祥院さん。その恰好で帰るの?」
「えっ」
私は一刻も早くこの場を逃げ去りたいのに、若葉ちゃんに引き止められてしまった。その恰好?
「うわっ!」
なんと、私の着ていた白いワンピースの胸からおなかにかけて、いか焼きのたれがべったりと付いていた!ぎゃあっ!スカート部分にも点々としみが!
「やだ、なにこれ!あぁっ!どうしようっ!」
私は急いでバッグからハンカチを取り出したけれど、こんなんじゃ全然落ちない。水に濡らしてこようかな。それよりもどこかでシミ抜きを買うか…・やだっ、手にも付いてる!食べかけのいか焼きが邪魔。あぁ泣きそう…。
「…あの、吉祥院さん。よかったらうちに来て落とす?すぐに洗濯すれば落ちると思うんだけど…」
えっ!若葉ちゃんの家?!いや、でもそれはまずいでしょう。
「いえ、平気ですわ。タクシーを拾ってこのまま帰ります」
私は平静を装って、若葉ちゃんの申し出を辞退した。本当はこんないか焼きのたれを服に付けて帰ったら、お母様達に買い食いがバレて大ピンチなんだけど…。
「全然平気そうにはに見えないんだけど…。少しでも落としてから帰ったほうがいいよ。ね?」
「でも」
「すぐに洗えばきっと落ちますから。ね?」
そうして私は若葉ちゃんの強い勧めで、若葉ちゃんの家に行くことになってしまった。なんでこうなる…。でもいろいろありすぎて、もうなにも考えられない…。
若葉ちゃんはどこかからの帰りで、偶然あの場所を通ったのだそうだ。そして白いワンピースを着たいかにもお嬢様といった子が立っていたのでつい目がいったら、それが私だったと…。
「目立ってました…?」
「そうですね~」
なんてこった…。もしかしたら若葉ちゃん以外の通行人にも注目されていたのかもしれん。ワンピースだけどわりとカジュアルなタイプなんだけどなぁ。
若葉ちゃんは私の服のシミを隠すように、前を歩いてくれた。私は手に持ったままのいか焼きをどうするか、密かに悩んでいた。
しばらく歩くと、若葉ちゃんが「ここだよ~」と私を振り返った。
若葉ちゃんのおうちは、いわゆる町のケーキ屋さんだ。
瑞鸞の生徒が普段食べる、有名パティシエが作るジュエリーのようなケーキではなく、シンプルないちごのショートケーキやチョコレートケーキ、モンブランなどが売られていて、値段も200円から300円代が主で、シュークリームは150円という、まさに庶民のためのケーキ屋さん。
でも味はピカイチと評判なのだ。
私は前世で君ドルを読んでいた時、ずっと若葉ちゃんのおうちのケーキ屋さんのケーキが食べたいと思っていた。だって、とってもおいしそうに描かれていたんだもん。その夢のケーキ屋さんが目の前に!
「玄関は裏なんだ」
私は若葉ちゃんに促され、ケーキ屋さんの裏手に回った。若葉ちゃんが門を開け私を中に入れてくれた。そして若葉ちゃんが玄関の鍵を開けている間にふと横を見ると、玄関脇の奥に、前部分がぐんにゃり潰れた自転車が置いてあった。
あれ?これって確か若葉ちゃんが前に瑞鸞に乗ってきた自転車じゃない?え…、なんか凄いことになってるけど、どうしちゃったの?!
若葉ちゃんは私が見ている物に気づいて、「あぁそれ」と笑った。
「夏休みに鏑木様の車とぶつかって、壊れちゃったんですよね~」
「ええっ?!」
鏑木の車とぶつかった?!
「ぶつかったって…。それで大丈夫だったんですの?怪我は?!」
「平気~。カーブしようとしたら横から出てきた車にぶつかって、自転車ごと飛ばされちゃったんだけどね、咄嗟に私は自転車から飛び降りたから、打ち身と擦り傷くらいでたいしたことはなかったの」
「たいしたことなかったとは思えないけど」
この自転車の惨状を見る限り…。若葉ちゃんはあははと笑いながら「さぁどうぞ」と私を家に招き入れてくれた。
「お邪魔いたしますね…」
「はいはい、どうぞ~。それじゃあ先に服を着替えたほうがいいですね。今、持ってくるので脱衣所に行ってもらえますか?あ、それどうします?」
若葉ちゃんは私のいか焼きを指差した。どうしましょう?
「とりあえず一端預かりますね。手はこっちで洗ってもらって。えーっと、着替え着替えっと」
若葉ちゃんは私の食べかけのいか焼きを手にパタパタと家の奥に消え、すぐに着替えを持って戻ってきた。
「着替えたら声を掛けてください。そしたらそのお洋服を洗っちゃいましょ」
「ありがとう」
私は渡された着替えを手にぺこりとお辞儀をした。するとその瞬間、おなかがぐるっと鳴った!
「……」
もういっそ溶けて消えてしまいたい。
「今は3時だけど、もしかしてお昼まだ食べてない?焼きそばくらいなら作れますけど」
「いえ、これ以上はお気遣いなく!」
「私もお昼まだだから、よかったら服が渇くまでの間に食べませんか?あ、焼きそばなんて食べないか…」
「そんなことありませんわ!」
むしろ大好物です。本当はさっきいか焼きのあとに食べる予定でした。
「じゃあ用意するね!あのいか焼きはどうします?刻んで焼きそばに入れましょうか?」
「よろしくお願いします…」
「は~い」
若葉ちゃんは明るく笑って脱衣所のドアを閉めた。
私は渡されたTシャツとウエストがゴムの膝丈のパンツに着替えながら、不思議な気持ちになった。
あの君ドルの主人公の若葉ちゃんの家に、今私がいる。なんだか現実味が湧かないなぁ。だって昨日までは私が一方的に若葉ちゃんを知っているだけで、ほとんどしゃべったこともなかったんだもん。
「似合わない…」
鏡に映る、縦ロールにTシャツ短パン姿の自分にがっくりしつつも、私が脱衣所から顔を出して遠慮がちに声を掛けると、すぐに若葉ちゃんが来てくれた。
「ではシミ抜き付けて洗濯しちゃいましょうか」
「えっ、この服1枚だけで洗濯しちゃうの?!電気代と水道代が!」
もったいない!そして申し訳ない!適当に手洗いでいいのに!
「電気代?ええっと、結構派手に汚れちゃったから、丸洗いしたほうがいいと思うんだけど、ワンピースが傷んじゃうかな」
「傷みとかは全然いいのですけど…」
「なら、ちゃっちゃと洗っちゃいましょう!大丈夫!ドライ仕上げでやりますからね!」
若葉ちゃんは手際良く洗剤をシミの箇所に付け服をネットに入れると、洗濯機のスタートボタンを押した。
「あとは洗い終わるまで、ごはん食べて待ってましょ」
「ええ。本当に迷惑かけてごめんなさい…」
「あはは、全然大丈夫ですよ~」
私はダイニングに案内され、若葉ちゃんお手製の焼きそばを振る舞われた。
「こんなものしかなくてごめんね。吉祥院さんみたいなお嬢様には口に合わないかもしれないけど」
「いいえ、とんでもない!いただきますわね」
「召し上がれ」
焼きそばには私のいかも刻んでしっかり入っていた。ありがとう、若葉ちゃん。その焼きそばを一口食べる。あっ、この味は!
「大丈夫?食べられそう…?」
「とてもおいしいですわ」
もぐもぐと咀嚼して私は返事をした。この焼きそばは、前世でよく食べた3個パックのチープな焼きそばの味だ。懐かしいっ。
焼きそばって吉祥院家じゃ絶対に出てこないもんなぁ。仮に食べるとしても高級中華料理店のお上品な焼きそばだし。このソース味の焼きそばがたまりませんよ!
私はあっという間に完食をした。はー、ごちそうさま。私は最後に若葉ちゃんから出された麦茶をごくごく飲んだ。懐かしい、麦茶…。
「なんだか、何から何までお世話になっちゃって…」
「気にしないでください」
若葉ちゃんものほほんと麦茶を飲んだ。
私達の間にしばらく沈黙が流れた。
「あのね、高道さん…」
「はい?」
私はずっと気になっていたことを思い切って聞くことにした。
「あの、学校、どうですか?」
どうですかっておかしいかな。でもいじめつらくない?とは聞けないし。
「どうって、なにがですか?」
案の定、聞き返された。
「えっと…、ですから瑞鸞での生活をどう思っていらっしゃるのかな~って」
「それなりに充実していると思いますよ?」
「えっ、そうなんですか?!」
だって毎日陰口叩かれて、足引っ掛けられそうになったり水かけられたりしてるのに?!
もしかして気を使っているのかな。強がりなのかな。
「はい。瑞鸞に入学出来てラッキーでした」
「ラッキー…」
遠回しな私への嫌味かとも思ったけれど、若葉ちゃんはなんの含みもなさそうな笑顔でニコニコしている。
「だってあれだけの設備と高レベルの授業を只で受けさせてもらえるんですよ?しかもいい成績をとれば奨学金ももらえるなんて…うくっ」
若葉ちゃんの口元がニヤニヤした。
「実はここだけの話、この前の模試の結果が今までで一番いい成績を取りましてね。その臨時奨学金の金額が…」
若葉ちゃんは笑いを堪えるために手で口元をおさえた。…どうやらかなりいい金額だったようだ。
「勉強を頑張るだけでお金がもらえるって、最高の学校ですよねー」
成績をお金で買う、最低の学校だと思いますけど。
「さすがに卒業までに大台は絶対にムリだけど、その半分くらいは頑張れば…」
若葉ちゃんは嬉しさを堪えきれないように、うくくくくと笑った。
大台?!大台って、瑞鸞の奨学金とはいったいいくらなんだ。
「でも、その、いろいろされているでしょう…?その、悪口とか…」
気まずい気持ちで私が言うと、若葉ちゃんはけろりと「あまり気にしていません」と答えた。
「えっ、気にしていないんですか?」
「はい。特に実害ないですしね」
え、実害ありまくりでしょう。水かけられたり、ボールぶつけられたり。
「でも傷つきますよね?あんなことされたら…」
「う~ん…」
若葉ちゃんは本気で悩んだ。
若葉ちゃんは私の想像をはるかに超えた、とんでもなく図太い精神の持ち主だった──。
「では、あのもうひとつ。鏑木様に撥ねられた件ですが…」
私はさっきからずっと気になっていたことを聞いた。