145
鏑木は今まで、優理絵様以外の女の子にはほとんど関心がなかった。ゆえに何か用事でもない限り、自分から女子に話しかけることもほとんどなかった。なのに。
「よぉ、高道」
「あ、こんにちは」
鏑木は廊下で若葉ちゃんとすれ違ったりするたびに声を掛ける。まるで親しい友達のように。
そして若葉ちゃんは円城と同じクラスなので、聞くところによると休み時間に円城に会いに来た鏑木が若葉ちゃんに話しかけることもしばしばあるとか。
これはもう、始業式の朝のように「偶然会ったから」なんて言葉ではごまかしきれない。偶然会ったって話しかけるような鏑木ではないのだから。
しかもその繋がりで、最近では円城とも親しげに話すようになったとか。おかげで同じクラスの蔓花グループNO2達の若葉ちゃんへの嫌がらせが激しくなっているらしい。
私の周りの友達もみんな、鏑木と若葉ちゃんの噂ばかりしている。特に芹香ちゃんと菊乃ちゃんは「麗華様、サロンで鏑木様に聞いてきてくださいな」とけしかけてくる。え~っ。
でもほんと、若葉ちゃん、いったい夏休みの間になにがあったんだよ…。
不穏な気配漂う高等科から逃避した私の憩いの場は、手芸部と初等科のプティ。今日は麻央ちゃんに会いに放課後プティに顔を出す約束をしていた。
天気予報で台風が近づいてきていると言っていた通り、空が薄曇りになってきているなぁ…。廊下の窓から外を見ながらプティへと歩いていると、その先に小さく蹲る人影を見つけた。
「え、雪野君?!」
よく見れば雪野君が苦しげに胸を押さえて、廊下にしゃがみこんでいた。私は慌てて雪野君に駆け寄った。
「どうしたの、雪野君!」
雪野君は返事をするのも苦しいのか、いつもより青ざめた顔をしながら浅く呼吸を繰り返していた。その喉からはヒューヒューという音がもれていた。
「もしかして、喘息の発作?!」
雪野君は私の言葉に頷いた。大変だ!
雪野君は苦しそうに呼吸をしながら、自分のカバンからなにかを探している。なに?なにを探しているの?
出てきたのは喘息用の吸入器だった。震える手でそれを振ろうとしているので、私が代わりによく振って手渡した。これで治るの?プシュッと薬を吸い込んだ雪野君だけど、即効性はないのか、ヒューヒューといった苦しげな呼吸は治らない。
「ねぇ雪野君、とりあえず保健室に行きましょう。ね?」
雪野君は「はい…」と小さく返事をした。私も付き添って行こうと雪野君に手を貸し立ち上がらせたけれど、酸欠になっているのか雪野君はふらっとその場に倒れそうになった。
「雪野君!」
慌てて支えたけれどこれじゃ保健室まで歩かせるのはきついかもしれない。どうしよう。私は必死で頭を巡らせて考えた。そうだ!
「雪野君!私の背中に乗って!」
「…え…」
私はしゃがみこんで雪野君に背中を見せた。こうなったら私が雪野君をおぶっていくしかない!
「でも…」
雪野君は遠慮しているけれど、そんなこと言ってる場合じゃない。相変わらず顔色が真っ白じゃないか。吸入器を使ったおかげか、さっきよりは楽になったのかもしれないけど、治ったようには全く見えないよ!
「いいから、早く!」
私が急かすと、雪野君はおずおずと私の背中におぶさってきた。途端にずしっの圧し掛かる重み。雪野君は痩せているといっても小学1年生だ。やはり重い。この体勢から立ち上がれるか、私?!
でも私の耳元では雪野君の相変わらず苦しそうな呼吸音。私の肩に置かれた手も冷たい。
よーーしっ!女は根性っ!目覚めよ!この夏休みにジョギングで鍛えられた私の足の筋肉!
ぬおおおおおおおっっっ!!
私は雪野君を背負ってガンッガンッと立ち上がった。よしっ、行ける!
「雪野君、しっかりつかまっててね!」
ちょうどそこに運良くプティの子が通りがかったので、私と雪野君のカバンを麻央ちゃんに渡すようにお願いし、私は一路保健室を目指した。
いっけーーーっ!根性見せろ!目指せホノルルーーーーッ!!うおおおおおおっっっ!!
私は初等科の廊下にダンッダンッダンッと力強い足音を響かせながら、雪野君を背負って保健室にひた走った。
保健室に着くと、雪野君はすぐに養護教諭によってベッドに寝かせられた。
「大丈夫?雪野君。先生が雪野君のお兄様とお家に連絡を取ってくださったから、すぐにお迎えがきますからね?」
「はい…、ありがとうございます…麗華お姉さん…」
横になると苦しいそうなので、今雪野君は上半身だけ起こしてある状態だ。
「よくあるの?こういった発作…」
「今日は、もうすぐ台風が来るから…」
どうやら台風が近づくと喘息の発作が出やすいらしい。なんてことだ!台風なんて毎年何回も来るじゃないか!そのたびに雪野君はこんな苦しい思いをしているのか?!
雪野君は温かい紅茶をちびちび飲みながら「平気…」と力なく笑った。平気じゃないよ。平気じゃないよ、雪野君!
そこへ連絡をもらった円城が、保健室に入ってきた。
「雪野!」
円城はまっすぐに雪野君のベッドに来て、弟の様子を窺った。
「吸入はした?」
「うん…」
「今、車を呼んだからこのまま病院に行くよ。病院にも連絡入れておいたから」
「うん…」
雪野君は円城に支えられてベッドを降りた。
「自分で歩けるか?」
「うん…」
私が通りすがりのプティの子に託したカバンが、麻央ちゃんと悠理君によって届けられたので、私達はそれを持って駐車場まで円城兄弟を見送った。
「吉祥院さん、弟のことを助けてくれてありがとう。このお礼は必ずするから」
「私にとっても雪野君は可愛い大事な後輩ですから、お礼には及びません。それより早く病院へ。明日容体を教えてくださいね」
「ごめん、ありがとう」
私達は遠ざかる円城家の車に手を振った。
「雪野君、苦しそうでしたね…」
「ええ」
どうか雪野君の具合が良くなりますように…。
次の日の朝、私は円城に廊下に呼ばれた。
「円城様、雪野君の具合は?!」
私は朝の挨拶もそこそこに、昨日の雪野君のことを聞いた。
「一応大事をとって入院させたんだ。でも今回はわりと軽いから明日か明後日あたりには退院すると思うよ」
「そうですか…」
雪野君、また入院か。可哀想に…。
「吉祥院さん、雪野をおんぶして保健室まで運んでくれたんだって?どうもありがとう。重かったでしょう?その話を雪野から聞いて驚いちゃったよ」
「いえ、それほどでも」
三原さんの鬼指導にめげずに頑張って毎日走ったかいがあった。私の軟弱な筋肉は確実に成長していた。鍛えていなかった腕は、今朝から筋肉痛でぶるぶるズキズキしているけどね!
「女の子におんぶされたって、雪野は少し落ち込んでいたけどね」
「まぁ!」
雪野君の男の子のプライドを傷つけちゃったかしら。そういえばサマーパーティーでも背が低いことを気にしていたな。
「では雪野君に謝っておいてくださいな」
「そんな必要ないでしょ。雪野のためにそこまでしてくれて、本当に感謝してる。ありがとう」
円城が私に頭を下げた。廊下を歩く周囲の注目を感じて、私は慌てて円城をとめた。勘弁してくれ。
ふと廊下の向こうから鏑木と若葉ちゃんが歩いてくるのが見えた。またあのふたり一緒に登校したのか。
なんで突然あんなに仲良くなったのかなー。気になる、気になる、気になる……。
「あのふたりが気になる?」
「ぅえっ!」
円城に私の心を読まれた!
「教えてあげようか?どうして雅哉が急に高道さんと親しくなったのか…」
「え…」
円城の目が面白そうに光った、気がした。
「いえ!結構ですわ!」
君子危うきに近寄らず!
危ない、危ない。私は円城に「それでは私はこれで!」と言って、自分の教室に足早に戻った。
さぁさぁ今日は運動会の出場決めをしないとね!他人の恋路に関わっている暇はなくってよ!
昨日の雪野君おんぶで自信がついたから、今年はリレーにでも出てみようかしら?
「麗華様、今年も仮装リレーに出場されるのですか?」
うん、そっちのリレーじゃない。