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せっかくもらった蛍だけど、1週間程度しか生きられない残りの人生ならぬ虫生を、虫籠の中で終わらせるのは忍びないので、瑞鸞の森に放してあげることにした。本当は麻央ちゃんにも光る蛍を見せてあげたいとちょっと思ったんだけどね。まぁそれはまた今度機会があればということで。
そうして私は夏休みの学院に登校した。瑞鸞の森で虫籠を開けると、飛んでいくかと思った蛍は意外にも近くの草にへばりついて動かなくなった。……もしかして今が臨終の瞬間?!落ちていた枝で蛍のとまっている草をツンツン突くと、蛍がふよふよと飛んで離れた葉っぱにまたとまった。どうやらいまわの際ではなく、ただの休憩時間だったらしい。蛍、大往生しろよ!
私は心の中で蛍を激励し、森を後にした。
やはり緑が多くある場所は多少涼しいようだ。森を出た途端、うだるような暑さが襲ってきた。日傘で直射日光を避けながら、小走りで校舎に向かう。こんな暑さの中でも練習をしている運動部って凄いなぁ。熱中症には気を付けてね。
校舎に入って廊下でしばし涼んでいると、委員長と岩室君が通りがかった。
「あれっ、吉祥院さん、今日はどうしたの?」
委員長が私に声を掛けた。
「ちょっと用がありましたのよ。おふたりは補習ですか?」
「うん」
夏休み中に学院では希望者に向けての補習授業がある。そして今回委員長達が受けているのは、私が中等科の時に受けた成績のあまりよろしくなかった生徒を対象にしたものではなく、やる気のある生徒達向けの特別授業だ。
「確か休み前に本田さんも受けると言っていませんでした?」
私がコソッと委員長に聞くと、委員長も辺りに人がいないのを確かめて「そうなんだ。クラス分けも一緒で」と嬉しそうに頷いた。
「岩室君も同じ補習クラスだから、僕と岩室君と本田さんと野々瀬さんの4人で近くの席に座って勉強してるんだよ」
「まぁっ」
美波留ちゃん目当てに補習に参加した甲斐があったな、委員長。この夏休みの間にずいぶんと進展しているようじゃないか。
「本田さんと野々瀬さんが僕と岩室君に、吉祥院さんと仲がいいねと話しかけてきてくれたのがきっかけなんだ。元々岩室君とも吉祥院さん繋がりで仲良くなったし、なんだか吉祥院さんのおかげかも」
ほー。私のおかげとな。実際はなにもしていませんが。
「私が少しでもお役に立てたのなら良かったですわ」
「いやぁ、さすが僕の恋愛の師匠だよね。それと岩室君にも話して協力してもらっているんだよ。岩室君とは妙に気が合うんだ。ね、岩室君」
「そうだな」
「そうでしたか。私もおふたりは気が合うのではないかと、前から思っていましたのよ」
ぱっと見、柔道部の岩室君と委員長では毛色が違うように見えるけど、中身は同じ乙女結社だもんな。
その時窓の外から、私の後頭部にバシッと何かがぶつけられた。
「痛っ!」
えっ、なに?!石でもぶつけられた?!でも頭に重みを感じるんだけど。
すると突然左横から、ジジジジーーーーッ!!!というけたたましいの目覚まし時計のような音が私を襲った。えっ?!この音ってまさか!
「吉祥院さん!頭に蝉がとまってる!」
「いやあっ!!」
やっぱり!
やだあっ!気持ち悪いっ!怖いっ!うるさいっ!
左斜め後ろでジージー大音量で鳴き続ける蝉をどうにかしたくても、大きさが大きさだけに手で触りたくないっ!トンボは触れても、蝉はムリ!
慌てて委員長が私の頭に手を伸ばそうとするけれど、高速で動く羽に威嚇されて躊躇した。私も必死で頭を横にブンブン振って落とそうとしたけれど蝉はびくともしない。頭を振ると蝉の本体が目の端に見えて全身に鳥肌が立った。気持ち悪いっ!怖いっ!うるさいっ!ぎゃーーーっ!
もう私はパニックでただひたすら蝉を落としたいと、連獅子のごとくグルングルンと頭を振り回した。離れてーーー!
「少し動かないで!」
背の高い岩室君が「痛かったらすいません」と言いながら私の背後に手を伸ばし、その手の甲でバシッと頭の蝉をはたき落してくれた!
「やった!岩室君!吉祥院さん、取れたよ!」
「ぅえ…?!」
頭を振りすぎて目眩がする視界の端で、あおむけになった蝉が床に落ちているのが見えた。
蝉ははたき落されたショックで気絶でもしていたのか、少しの間そのままの状態だったが、すぐに復活してブーンッと窓から飛んで行った。
「大丈夫だった?吉祥院さん」
「具合悪そうですね。保健室に行きますか?」
「ありがとう、おふたりとも。驚いて取り乱してしまいましたわ、ごめんなさい…」
大きな虫がとまった恐怖とあの喧しい鳴き声に、思わず我を忘れてしまった。あの騒音に風情を感じる芭蕉先生の境地には私は至れないな…。あー、びっくりした。
「あっ、吉祥院さん、髪に折れた蝉の足が…」
ぎゃあああああああっっっ!
あの悪夢の蝉事件のあと、私は速攻ヘアサロンにシャンプーの予約を入れて直行した。理由は言わず、とにかく念入りに洗ってもらった。
蝉の足は委員長達が取ってくれて、ほかに頭に異常な物体が付いていないか、ふたりでチェックしてくれた。ふたりにはどうかこの出来事は内密にしておいてくれと頼んだ。ふたりは誰にも言わないと約束してくれ、「南仏では蝉は幸運の象徴だから、これからきっといいことがあるよ!」と慰めてくれた。本当?
そして委員長は私の髪をチェックしながら、岩室君に「逆巻きの一房を見つけると幸運が訪れるよ」とも言っていた。それを聞いた岩室君は熱心に探し始めた。そして見つけたらしい。良かったね…。
そんなこともあった数日後、私は久しぶりに桜ちゃんの家に遊びに行った。夏なので手土産は世界的に有名なチョコレート店のアイスクリームにした。ストロベリー味、濃厚でおいしーい!アイスの中に入ったチョコチップもこれまたおいしい!
私達は桜ちゃんの部屋でのんびりアイスクリームを食べながら、近況を話し合った。
「今日は秋澤君はいないの?あ、部活かな」
「そう。合宿だ練習試合だのって忙しそうよ。それ以外に塾の夏期講習もあるし、せっかくの夏休みなのに、あまり一緒にいられないのよ」
「そっかぁ」
「陸上部といえば!ねぇ、陸上部に1年のマネージャーが入ったんだけど知ってる?」
「え、知らない。そもそも瑞鸞の陸上部にマネージャーなんていたんだ」
「いたのよ。マネージャー、要注意だわ。あの子達は下心満載よ」
「わ、決めつけ」
「だって女子校である百合宮の運動部にはマネージャーなんていないもの。瑞鸞の陸上部のマネージャーは男子部女子部の合同らしいけど、たいていの男子運動部のマネージャーをやる子で、純粋にそのスポーツが好きだからってだけの目的の子なんていないわよ。今度牽制するために大会に応援に行かなくちゃ。学園祭まで待ってられないわ」
「頑張れ~」
相変わらず桜ちゃんの秋澤君への守備は鉄壁だなぁ。
「心がこもってないわねぇ。まぁいいわ。それより麗華はどうなの?最近」
「う~ん、特にはなにも。あ、舞浜さんと何回かぶつかった」
「舞浜?なにかされたの?」
「たいしたことはないわ。ケンカを売られたり嫌味を言われたりしたくらい。瑞鸞の皇帝がらみでなぜか私に敵対心を持っているのよねぇ」
「そういえば前に舞浜が、瑞鸞で皇帝の周りをうろつく目障りな子がいるって言っていたのを小耳にはさんだけれど、もしかして麗華のこと?」
「え、私、皇帝の周りをうろついた覚えはないけど…」
でもたぶん私のことだろうなぁ。あの憎々しげな睨み方をみると。
「舞浜さんって百合宮の女王なの?」
「気取り。そんな器じゃないわ」
「そうなんだー」
「ちょっと大丈夫?もし舞浜についてあまりに我慢できなかったら、私も力になるわよ」
「ありがとう桜ちゃん。でも全然平気。申し訳ないけど舞浜さんを怖いと思ったことないし。面倒だなぁとは思っているけど」
「それならいいけど」
舞浜さんかー。鏑木はまるで相手にしていないみたいだけど、優理絵様がらみで強く拒否出来ないのかな。
あれ以来優理絵様とどうなったのか、私には情報が入ってこないし、この間の蛍狩りでも優理絵様の姿はなかったし、結局ふたりはどうなったんだろう。鏑木は吹っ切ることができたのかな。
今の時点で鏑木は若葉ちゃんとも進展が全くないし、優理絵様ともう一度ってことはないのかな。でも優理絵様は大学を卒業したらアメリカに行っちゃうかもしれないんだもんね。う~ん。
まぁ、他人の恋路より自分をどうにかしないとな…。明日も図書館に行かなくちゃ。たまに隣に座って脳内で学生カップルの妄想をしたりしてるんだ。
この夏、気が付けば私は、立派なストーカー予備軍になっていた。