詳しい方が見れば眉をひそめる内容かと思われます。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
『平家物語』
■
「付き従え」
モモンガのコマンドで命令を受諾したセバスと戦闘メイドのプレアデス達は静かに頭を下げた。
NPC達を引き連れ、ギルド武器、スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを手にモモンガはレメゲトンを横切り玉座の間に向かう。
扉の右に女神。左に悪魔。玉座の間の入り口だ。
モモンガが触れると両開きの五メートル以上はある巨大な扉はゆっくりと開いていく。
「……!!」
壮観だった。神殿の如き静謐さと荘厳さを兼ね備えた玉座の間の豪華さに感動を忘れた事は一度もない。現実で富を持つ者がどれほど力を入れようとこの玉座の間の再現は不可能だと断言出来る。
しかしモモンガが言葉を失ったのは別の理由だ。数百人を余裕で収容出来る広大な玉座の間はNPC達で埋め尽くされていたからだ。
自動湧きのモンスターはいない。ここにいるのは全てギルドメンバーが作り上げたNPC達だ。レベルは1から100まで。メイド、執事、司書、料理人、拷問官、鍛冶師、階層守護者、領域守護者、守護者配下……
種族も多種多様だった。ナザリックは異形種の巣窟だ。アンデッド、悪魔、昆虫種、闇妖精、粘体種、魔獣、植物種、幻想種、ゴーレム……
モモンガは玉座の間の入り口でその光景に心を奪われた。何度見ても壮観だった。
NPC達が自ら集まるはずがない。ユグドラシルサービス終了のアナウンスを受けたモモンガが時間をかけ、NPC達を玉座の間に移動させ集めたのだ。ユグドラシルの最後をNPC達と共に玉座の間で。
移動出来ないNPC、もしくは移動に難のあるNPCは除外してはあるが。
モモンガは玉座の間に一歩踏み出した。瞬間、玉座の間にいるNPCが一斉に跪いた。ただのプログラムに沿った動きだ。NPCの表情は動かず誰一人として言葉を発しない。咳き一つない静かな動き。
微動だにしないNPC達。モモンガはその前をゆっくりと歩いていく。今日がユグドラシルの最後だと思いながら。
■
鈴木悟はユグドラシルサービス終了の知らせを知った時、言いようもない絶望を感じた。それはかつてのギルドメンバーと作り上げたギルド、アインズ・ウール・ゴウンの終焉を意味したからだ。
アインズ・ウール・ゴウンは鈴木悟の人生だと言っても良かった。家族も友人も恋人もいない現実。鈴木悟の現実は自宅と会社の往復だけで完結していた。
ユグドラシルに出会い、知り合いが増えギルドを結成。鉱山を占拠し、ボーナスをつぎ込み、一五〇〇人を迎え撃つギルド戦。仲間と共に未知の世界を冒険した。DQNギルドとして悪を標榜し、その実、仲間内では毎日馬鹿話に花を咲かせた。誰かが揉めては仲裁をし、クエストや素材のメンバー集めに配慮した。ログインすれば常に誰かがいて、待ってましたよと声をかけられ、なんの説明もされないままワールドエネミーに全員が瞬殺されたこともあった。
楽しかった。毎日が楽しかった。
だが幸せな時は永遠に続かない。時の流れは残酷だ。現実の壁がギルドメンバーを一人また一人と櫛の歯が欠ける様に奪い去っていった。モモンガは寂しさを隠し、応援の言葉と共に彼ら彼女達を見送った。
引退宣言をして消えた者、黙って消えていく者。アカウントを削除した者、残した者。
僅かに残った者のログインは段々と不定期になった。ログインしない期間が徐々に伸びていき、そして最後の一人がログインしなくなってから二年近く経過した。
いつか戻って来てくれる。帰って来た時ギルドが無くなっていては申し訳ない。だってここは僕たちの家なのだから。
ギルドを去った理由は様々だ。鈴木悟は彼らを恨んでいない。そんな時期はとっくに過ぎた。もし鈴木悟に家族や恋人、何者にも代えられない大事なものがあったなら、鈴木悟はギルドにたった一人残された者ではなく、残した者になっていたかもしれない。だが鈴木悟には家族もなく恋人もいない。仕事は生きていく為に惰性で続けているだけ。
鈴木悟にとって人生で大事なものはギルド、アインズ・ウール・ゴウンだった。ギルドメンバーとモモンガを分けた決定的でたった一つの理由。
鈴木悟はかつてのギルドメンバーに可能な限り連絡を取った。せめて最後に一度だけでも会いたかったからだ。ドキドキ、そわそわしながらの数日。しかし誰からも返事はなかった。
ユグドラシル終了で絶望を感じた鈴木悟はこの時、感じた思いは寂寥と哀惜だ。言いようのない寂しさと悲しみ。これまで、彼らが帰ってくる場所を残さなきゃと感情に蓋をしながらギルドを維持し続けてきた。いつか誰かが戻って来てくれるのではないかと。
既読機能付きのメッセージが意味する所を鈴木悟は理解した。彼らにとってアインズ・ウール・ゴウンはとっくに過去となっていたのだと。振り返って懐かしむ場所ですらなかったのだと。モモンガは残されただけではなく既に見捨てられていたのだと。
現実でもゲームでも孤独。『いつか』はもう二度と来ないのだと。
鈴木悟は泣かなかった。代わりに心が少しだけ壊れた。結果、現実と電脳世界の境界があやふやになった。
ユグドラシルという世界。本当は実在するのではないのか。モモンガというアバターは鈴木悟の本来の姿ではないのか。現実が電脳世界でリアルはユグドラシルではないのか。
事ある毎に否定するが、一度芽生えた疑念は止まらない。
モモンガは断固拒否した。
NPCの中にはモモンガが製作したパンドラズ・アクターもいる。黒歴史と言えど心血を注いだNPCだ。消滅など許さない。
妄想は加速する。
ユグドラシルは消滅する。これは防げない。ならどうすればいい。そうだ。異世界に転移させればいい。モモンガに出来るのか? 出来るに決まっている。
転送のタイミングはユグドラシル崩壊の瞬間だ。しかしモモンガは転送で全ての力を使い果たしてしまうだろう。力を回復するのは一〇年か二〇年か一〇〇年か。力を回復するまでNPC達には会えない。なんとかして運営にデータクリスタルを譲って貰えるよう交渉して……運営ってなんだっけ。
NPCごとナザリック地下大墳墓を異世界に転移させる。転移された世界でNPC達は永遠に生き続ける。それこそアインズ・ウール・ゴウン不滅の証明だ。
崩壊するユグドラシルには二度と戻れない。モモンガも力を取り戻すまではNPC達に会えない。だがきっといつか必ず。
鈴木悟は設定という妄想の翼を広げて現実逃避し、ユグドラシルサービス終了から目を逸し続けた。そうする事で壊れかけた心の正気をギリギリで保っていた。二度とログイン出来ない理由を設定という妄想で補完しながら。
モモンガは一体、また一体とNPC達を玉座の間に集めた。集めながら一体一体に妄想を語り続けた。
ユグドドラシルの崩壊を防げないこと。崩壊の瞬間に異世界に転移させること。モモンガは力を使い果たして一緒にはいけないこと。力を取り戻しいつか必ず会いに行くこと。
NPCのフレーバーテキストも読み込んだ。読み込めば読み込むほどNPCへの愛着は深まった。テキストに合わせて転移後の
一体。また一体。玉座の間に移動可能なNPCが集結する。全て集め終わったのはユグドラシル崩壊の二日前だった。
■
モモンガは整然と
モモンガは玉座に座りコマンドを発する。
「頭を上げよ」
頭を垂れていたNPCが顔を見せた。
最前列に階層守護者。
二列目に領域守護者。
三列目には守護者の下僕達。
更にその後ろに様々な姿形を持った異形種が並んでいた。レベルの低いNPCと下僕達だ。
玉座の脇には守護者統括のアルベド。反対側にセバスとプレアデス。
彼らはこれから異世界に旅立つ。モモンガは共に行けない。全ての力を振り絞っても存在が大きすぎるモモンガを転移させるエネルギーが足りないからだ。
彼らを見るのは今日が最後だ。モモンガは目に焼き付ける為、言葉を発する事なく静かにNPCを眺め続けた。
ピピピとタイマーが鳴った。ユグドラシル崩壊まで残り僅かだ。
「聞け。既に知らせた事だがユグドラシルは今日で崩壊する。我が力が及ばず崩壊を防ぐ事は不可能だ」
世界の終焉を語られてもNPCに動揺一つない。モモンガを信頼仕切っているからだ。
「だが案ずるな。我が秘奥中の秘儀を使い新たな魔法を作り出した。お前たちを新たな世界に転移させる魔法だ」
NPCは新天地でもモモンガに仕える事を楽しみしている。ユグドラシルの崩壊は嬉しいことではない。しかしモモンガがいる場所が自分たちのいる場所だ。
殆どのNPCは新天地にモモンガがいない事を知らない。モモンガは真実を三人のNPCにのみ語った。
アルベド、デミウルゴス、パンドラズ・アクターの智を代表する三人のみだ。三人には新天地でNPCを率いて貰う必要があった。混乱を防ぐ為でもあった。事前に知らせれば転移を拒否するかもしれないからだ。
真実を語った時、アルベドは泣き崩れ、デミウルゴスは男泣きし、パンドラズ・アクターは震えながら無言で敬礼をした。
「先程案ずるなと言ったが新天地は未知の世界だ。決して油断をするな。思いもよらない強者がいるかもしれない。自然の猛威にさらされるかも知れない」
モモンガは仲間と共にユグドラシルで未知の世界を切り開いた。試行錯誤を何度も繰り返した日々は辛いものではなく、楽しみに満ちていた。
「未知を恐れるな! お前たちは栄えあるアインズ・ウール・ゴウンの一員だ! どんな苦難もお前たちなら乗り越えられると信じている!」
スタッフ・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを床に打ち付けた時、モモンガはNPCの熱を感じた。静かに動かないNPCの。
時間は本当に残り僅かだ。語るべきことは語った。後は静かにその時を待つだけだ。
現実世界で鈴木悟は瞳を閉じてその時を待った。崩壊と同時にモモンガは世界と切り離され、NPCは転移する。
ピッ……
二度目のタイマー音。
ユグドラシルが崩壊した瞬間だ。泣くのだろうと思っていた。しかし不思議に心は凪ぎ、涙の一つもこぼれ落ちてこない。
仕事は四時起きだが、生きる為、ユグドラシルの為に働いていたのだ。仕事への気力は沸いてこなかった。
明日から何をするのか。決まっている。NPCを取り戻す為にどこかの何かと交渉してデータクリスタルだけでも貰い受けるのだ。方法はまだ考えていない。だが金は必要になるだろう。
仕事の気力を僅かに取り戻し瞳を開いた。
■
「ナザリック……地下大墳墓……」
豪華絢爛な玉座の間。
モモンガの眼の前に壮麗できらびやかな空間が広がっていた。見間違えるはずはない。何より先程までここにいたのだから。
「崩壊していないのか?」
何度も確認した。崩壊の日時に間違いがあるはずがない。
「デマだったの……か? ……うわっ! なんだコレ!?」
自らの体にペタペタと触り、かつてあり得なかった感覚を覚えた。触覚だ。
「……それに匂いも……」
これまでのユグドラシルでは触覚は曖昧になり嗅覚は完全に意味の無いものだった。それがどうだ。現実世界より鋭敏になった感覚となり僅かな凹凸、僅かな香りすら知覚出来た。
それは現実世界と何ら変わりない、いや圧倒的に上回る現実感として感じられた。
「……コンソールが出ない……
曖昧になっていた現実と電脳世界の境目。未練のない世界と思い入れのある世界。状況を受け入れる素地は出来ていた。モモンガはいとも簡単に現状を受け入れた。
「はは……素晴らしい……素晴らしいぞ! あははは……あれ?」
感情が昂ぶりモモンガは声を出して笑いだした。するとどうだろう、極限まで高まりつつあった歓喜の感情はあっさりと打ち消されてしまった。
「なんだこれ? 種族特性か?」
楽しい感情があっという間に凪いでしまった。残ったのは平常心だ。
「こういうのもあるのか……」
釈然としないものの、生きる世界が変わった事を考える度に嬉しさは、じわりじわりとこみ上げてくる。やがて一定の閾値を超えると感情は沈静化される。
モモンガはコツを覚えると、感情を爆発させない様注意し、心の奥で小さく灯され続ける幸せを噛み締めた。
「ふふふ……」
心に余裕が出来たモモンガは周囲を見渡した。
「あれ?」
ナザリックの荘厳と絢爛を兼ね備えた空間は健在だ。各所で細部に渡り妥協を許さない意匠が施され、どんな高い教養と見識を持った者でも、素晴らしさを言葉で言い表す事が出来ないだろう。
見上げる程に高い天井にはシャンデリアが規則正しい配置で吊り下げられ、大理石の如く磨かれた床が天井の光を反射し輝いていた。
そう輝いていたのだ。
「NPCが……誰もいない……」
モモンガが一体一体集め、玉座の間に並べていたNPCが消えていた。
「アルベド!」
玉座の脇。表情を変えることなく静かに微笑んでいたアルベドが消えていた。
「セバス!」
アルベドの反対側で跪いていたセバスはプレアデスごと消えていた。
「デミウルゴス! コキュートス! アウラ! マーレ! シャルティア! ヴィクティム!」
名を呼んだ所でNPCが返事をするはずがない。現実と電脳、妄想が入り混じり境界の狭間を無くしたモモンガにとってNPCが話す事は当たり前の事だ。事実、玉座の間にNPCを集めていた時、モモンガの語りかける言葉にNPCは反応していたではないか。笑い、泣き、驚き、時には言葉を返してきたではないか。
モモンガの叫びに応えを返す者は誰一人としていなかった。
リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを起動しモモンガは移動した。使い方に悩む必要すらなかった。
「恐怖公!」
第二階層
「ガルガンチュア!」
第四階層地底湖の底にいるはずのガルガンチュアの巨体を探した。
「ニグレド!」
第五階層氷結牢獄の館で腐肉赤子を手に叫んだ。
「紅蓮!」「グラント!」「ルベド!」「ニューロリスト!」「
指輪で転移しては名を叫び、転移しては探す。一階層から九階層を転移し、走り、叫ぶ。帰ってくるのはモモンガの声の反響音のみ。誰一人として姿は見えず、気配すら感じられない。
モモンガは一〇階層の宝物殿に飛んだ。
「パンドラズ・アクター……お前もか」
宝物殿第二の部屋。モモンガはかつてここにパンドラズ・アクターを閉じ込めていた。
玉座の間に移動させた順番は最後だった。自ら創造したNPCであること。例え相手がNPCだとしても黒歴史として恥ずかしいと思った事が理由だ。
玉座の間に集まったNPCを前にモモンガはパンドラズ・アクターを紹介した。自ら創造したNPCであると。転移後の事を考えた末の事だった。
モモンガは力なく床に両膝をついた。
「……
ナザリック地下大墳墓にNPCはただ一人として存在していなかった。
■
玉座に腰を下ろした一体の骸骨。
モモンガが玉座に座って一週間が経つ。NPCに捨てられたと思い込んだモモンガは絶望した。ユグドラシル崩壊を知った時より深く、深く。
最期は一人静かに朽ち果てよう。
今のナザリックの防衛は
侵入者に殺されるのが先か、朽ち果てるのが先か。
選んだのは玉座だった。
誤算があった。
深い絶望で精神の沈静化が働く。しかし深く傷ついたモモンガの精神は何度も何度も精神の沈静化を働かせた。それこそ三日三晩だ。
アンデッドは疲労とは無縁。空腹を知らない。睡眠を必要としない。これがモモンガにとって悪い方に働いた。
肉体は疲れずとも精神は疲弊する。絶え間なく繰り返される鬱と精神安定。肉体の傷とは違い心の傷を癒やすのは難しい。モモンガの精神は疲れ果ててしまった。
苦しい。悲しい。誰か。誰もいない。俺は死ぬまで一人だ。
モモンガは苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いた先で、悟りにも似た心境の中、思い出したことがあった。
NPCは異世界に転移したのではなかったか。
そうだ。モモンガが力を振り絞り転移させたのだ。その証拠に今モモンガは疲れ切っている。それこそ体を動かすことすら億劫だ。転移に全ての力を使ってしまったからだ。
モモンガはNPCに見捨てられたのではない。モモンガが送り出し異世界で新たな未知を冒険しているのだ。
鈴木悟からモモンガとなってしまった現実と、妄想の境界がまたもや混じり始めてしまった。だが結果的に精神抑制は働かなくなりモモンガは安寧を得ることが出来た。
今は力を溜めなければならない。力を溜めればNPCに会える。一〇年か二〇年か、一〇〇年かもしれない。大丈夫だ。アンデッドは死なない。死なない限りいつかまた会える。
NPCは新天地で戦っている。順風満帆かもしれない。喧嘩をするかもしれない。強大な敵に出会うかもしれない。
NPCは問題を全て乗り越えるだろう。彼らはアインズ・ウール・ゴウンの誇るべきNPCなのだから。
アンデッドは夢を見ない。モモンガは夢を見る代わりにNPCの活躍を想像し続ける。アンデッドの特性を利用した特殊な瞑想。
玉座に座った死の超越者はピクリとも動かない。次に動くのは玉座の間の扉が開いた時だ。現れるのは侵入者かNPCか。
モモンガはその時まで一人想像の翼を広げ続ける。