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歴史を忘れ去り、言葉を「凶器」として使う時代をどう生きるか

うつを体験した元・歴史学者の「遺言」

2011年の著書『中国化する日本』で注目を浴び、「気鋭の若手論客」として論壇に迎えられた與那覇潤氏。しかし氏は2014年から激しいうつ状態を経験し、2017年には大学の教職を辞した。

今回、沈黙を破って著書を刊行した與那覇氏の、ロングインタビューが実現。緩やかに壊死してゆく日本の「歴史」と「知性」を、いまどう見ているのか――。

(聞き手/現代ビジネス編集部、写真/岡田康且)

歴史が消えて「いま」だけになる

――與那覇さんは2015年の春からご病気(双極性障害にともなううつ状態)の治療に専念され、約3年間の療養を経て、今年4月に新著『知性は死なない 平成の鬱をこえて』を出版。また5月には、2013年の著作である『日本人はなぜ存在するか』を文庫化され、新たな増補あとがきをよせています。

しかし大学のお仕事に復帰されるのかと思いきや、「学者廃業」を宣言されたので、とても驚きました。先日ウェブで公開されて話題になった「歴史学者廃業記」では、歴史学者・與那覇潤の「最後の言葉」として、歴史を「喪失」してゆく日本の現状を憂えていましたね。

與那覇:なんだかものすごい炎上になったようで、こちらも驚きました(笑)。Twitterのトレンドに入るなんて、研究者時代にもなかったことでしたから。当時、直接・間接にお世話になった学者の方々が、コメントする形で広めてくださったのも嬉しかったですね。

平成という時代はご存じのとおり、教科書問題・従軍慰安婦問題などが大きな話題となり、「お前らの歴史認識はなっていない!」と発言する「怒れる歴史学者」が増えた時代でもありました。私なども、研究者だった頃は挑発的な文章を書いてきたから、人によってはその一人に数えられるのかもしれません。

ただ、学者としての著述活動をしているときからずっと、「怒るところを、みんな間違えてるんじゃないか?」という気持ちがあったんです。

たとえば目下の森友学園の騒動で、財務省が関係資料を改ざん・廃棄していたことが批判されますね。「だから、もっとしっかりした公文書管理行政の確立を!」と唱える有識者は、歴史学者もふくめて多い。そういう人たちはもちろん、誠実だと思いますよ。ただ、彼らは問題を取り違えている。

どうして、エリートと呼ばれてきたはずの官僚たちが、「いま都合が悪いから」という理由だけで、公的な文書を捨てるところまで行けてしまうのか。それは、そもそも歴史という意識がないから――「いま、どう評価されるかではなく、後の時代からふり返ったときに、立派な存在として歴史の中に位置づけられたい」という欲求がないからでしょう。

官僚だけでなく、政治家や有権者も含めて、みんなが「いま」この一瞬を乗り切ることしか意識せず、そういった「いま」の連なりがやがて、物語を作っていくという感覚を失っている。つまり、そうした歴史意識の欠如が「原因」であり、ずさんな公文書管理はその「結果」です。

「近代に歴史意識の高まりを背景にして、公文書館が整備された」欧米の事例から、因果関係を逆にして「アーカイブズを充実させれば、歴史に対する意識が高まる」かのような主張を導く人たちは、歴史学以前に論理学をわかっていない。原因のほうを放置して、結果だけをいじっても、問題が解決することはありません。

歴史学者をやめる最後に、そういう問題提起をするのも意味があるだろうと。ほんとうは、現役の学者さんが提言していただけたら嬉しいのですが、残念ながらいまの大学がそうした知的環境を奪われていることは、『知性は死なない』で書いた通りですので…

 

――「なぜ、後世からふり返ったときの視点を意識できないのか」という問題について、與那覇さんが先のエッセイで表明した「危機感」にヒントがあるように思います。なぜいまの時代、歴史は「ストーリー」としてよりも「キャラクター」として消費されるのか。それで本当に大丈夫なのか、という懸念を表明されていましたよね。

たとえばかつて、アマチュアの歴史好きの多くは司馬遼太郎の作品を読み、その歴史観は「司馬史観」と呼ばれるほどポピュラーでした。司馬史観はかなりエンタメ的ですから、歴史学者の非難の的にもされていた。しかし與那覇さんは、そうした批判さえも今は無意味なものになっている、と。

與那覇:大学で7年ほど教鞭をとったものとして、体験的に歴史学者の世代区分をすると、授業の際に「誰を仮想敵にして」歴史の話をするか、で分けられると思うんです。

一番のお年寄りが、「司馬さんは偉大な小説家だけど、あれは本当の歴史じゃないからね」というアンチ司馬世代。続くのが、「世間ではゴーマニズムとか称して、危険な右翼史観が出回っているが、あんなものを認めてはならない!」というアンチ小林よしのり世代。

私自身はこの第二世代に属するのですが、教えていくうちに段々、「もう、そんなことを言っている場合ではないのじゃないか」という気持ちになってきた。司馬史観にせよゴー宣にせよ、現在とつながる時間の幅を持った「物語」として歴史を享受している時点で、十分ありがたいんじゃないのかと。

たとえば自分が教壇に立っていた2010年代の前半には、大学でも「歴女」という言い方を耳にすることが増えました。面白いのは、司馬史観とは言っても「歴女史観」とは言わないでしょう? 「この武将はイケメンだったに違いない」という感じで、特定のキャラクターを自分好みに美化していくタイプの歴史の受容法だから、まさしく純粋にキャラクターだけを楽しんでいて、そこに現在につながるストーリーとしての歴史はない。

「ストーリーからキャラへ」というのは、もともと東浩紀さんが、ガンダムシリーズで描かれる宇宙戦記のような、オタク・カルチャーにおける「架空歴史」の扱われ方の変容を指して用いた言い方ですが、それがいつの間にか「リアル歴史」にも滲み出していた。そのことに気づいたとき、「司馬遼太郎を読んで、歴史を知った気になる学生には困る」などとぼやく高齢世代の歴史学者って、なんて贅沢な存在なんだろうと思えてしまって。

これからは第三世代として、司馬さんであれ小林さんであれ「なんらかの意味での『歴史観』=ストーリーとしての歴史を意識しているだけで、いまどき貴重な存在だ」という感性の学者さんが育つのではと思います。逆にいうと育たなければ、「キャラ萌え」の邪魔になる社会的な無用物として、単に歴史学のポストが大学から消えてゆくのでしょうが。

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