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広島vs.大阪!? お好み焼きのルーツ【後】

2015年10月08日 公開

歴史街道編集部

前編では、広島と大阪のお好み焼きのそもそもの違い、そしてその違いが生まれることとなった広島独特の事情について探っていきました。

が。
つまるところ、どちらのほうが歴史が古いのでしょうか。

 

【広島風vs.大阪風】結局、どっちが元祖なの?

正直なところ、広島風も大阪風も、昭和初期に子どもたちの間で流行した「一銭洋食」が発展したものです。
もちろん、原爆投下で文字通り壊滅した広島において、「小麦粉の使用量を減らしながらもお腹がいっぱいになる」今の広島風お好み焼きのスタイルが定着したわけですが、ルーツは大阪風と同じ。

では、その「一銭洋食」発祥の地はどこなのでしょうか?
それを探るためには、一銭洋食が流行するさらに前の時代に遡る必要があります。

 

ルーツのルーツのルーツは……

そもそも小麦自体は、日本では弥生時代から食されていた伝統的な食材でした。ただ、この頃は小麦を重湯のようにして食べていたのみで、これを粉にするという発想はまだなかったようです。

しかし奈良時代には、留学生・吉備真備が、唐で学んだ料理を日本に持ち帰ります。彼は小麦を粉にして水で溶き、薄く伸ばして焼く、「煎餅(せんびん)」を作りました。
ただ、それが国内に受け入れられるには、もっと時間が必要でした。

そして時は安土桃山。
豊臣秀吉に仕えた茶人・千利休がお茶菓子として、「麩焼き」という和菓子を作らせます。これは、小麦粉を水で溶いて薄く焼き、味噌や砂糖を塗ってからくるくる巻いたもの。
吉備真備の煎餅の発展形でしょうか。利休の茶会の記録をまとめた『利休百会記』にもしばしば登場し、定番のお菓子だったようです。

これが江戸以降も受け継がれ、明治には新たな展開を見せます。

西洋文化の流入激しい東京、下町の駄菓子屋で人気を博した――そう、もんじゃ焼きです。
路地裏のお店で、家には無いような大きな鉄板を使って友達と一緒に焼くというスタイルが、子どもたちに受けました。

もんじゃ

名前の由来は、子どもがその鉄板に生地で文字を書いて遊びながら食べていたこと。もじ→もんじ→もんじゃ、と変化したのです。

ただ、とろとろのもんじゃ焼きはお店で鉄板に向かわなければ食べられません。
同じ小麦粉料理で、テイクアウトや移動販売ができないか?
そこで、もっと水分を少なくし、生地を固くした「どんどん焼き」が考案されます。

どんどん焼きは人口の密集した東京ではあまり広まりませんでしたが、むしろ地方に伝播し、大いに受け入れられました。

そしてこれが、関西で「一銭洋食」と呼ばれ親しまれたのです。
しかも、その流行の中心地は、意外にも京都でした。ただ、次第に大阪、広島でも流行を見せ、太平洋戦争を経て今に至るのです。

***

煎餅、麩焼き、もんじゃ焼き、どんどん焼き、一銭洋食、そしてお好み焼きへ。身近な大衆食にも、意外と長い歴史が隠れています。

ただ、広島vs.大阪、お好み焼きルーツ戦争、東京に勝利を奪われるのは、地方出身者にはちょっと悔しいかもしれませんね。

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