「関西風」のルーツは東京だった!
花柳界と切り離せないお好み焼きの黎明期

2013.08.16(Fri) 澁川 祐子
筆者プロフィール&コラム概要

客が自分で作る・・・ならば混ぜ焼きで

 どんどん焼きがお好み焼きになるには、次なる材料の変化と食べる場の変化が必要だった。

 池波正太郎や池田弥三郎によるどんどん焼きの記述には、お好み焼きに欠かせない何かが足りないことに気づいただろうか。それは、キャベツである。

 キャベツが日本に伝わったのは、江戸時代のこと。オランダ人が長崎に持ち込んだのが最初とされるが、これは葉キャベツでもっぱら観賞用であった。野菜としてキャベツが登場するのは、明治になってからである。食用のキャベツが北海道で栽培されるようになり、明治40年頃にキャベツの名で定着する。

 とんかつの回で1899(明治32)年頃に、煉瓦亭でカツレツの付け合わせにキャベツの千切りが使われるようになったと述べたが、それまでキャベツの認知度は決して高くなかった。カツレツが洋食の花形としてもてはやされるに伴って、キャベツの存在も知られ、大正期を通じて普及していったのである。

 そこでソースを使ったどんどん焼きに、キャベツを入れようと考えついたのも当然の成り行きだっただろう。なぜならソースとキャベツは、共にとんかつのお供として必須の組み合わせだったからだ。

 こうしてどんどん焼きにキャベツが入ることで嵩が増し、子ども向けのおやつから、一品の食事へと変化していった。それと同時に、食べる場所が屋台から店の中へと移っていく。

 「お好み焼き」という名称は、1931(昭和6)年に刊行された柳田国男の『明治大正史・世相篇』の中ですでに登場している。それには、<子供相手の擔(にな)い商いの方でも飴や新粉の細工物は通りこして、御好み焼などという一品料理の真似事が、現に東京だけでも数十人の専門家を生活させて居る。>とある。これはどんどん焼きのことを指しており、それがそのまま受け継がれていったことが分かる。

 食文化史研究家の岡田哲は、『コムギ粉の食文化史』(朝倉書店、1993年)の中でお好み焼きの起源についてこう書いている。

 <お好み焼きの事始めは明らかではないが、昭和6~7年頃に、どんどん焼きの調理形態から東京の花柳界で創始されたという説がある。平焼きは、子供から大人へ、屋台からお座敷へと変わり、大人達が楽しむ風流遊戯料理になる。そして、客が作って楽しむ、お座敷お好み焼きができる。>

 花柳界とは、芸者や遊女が集まる花街のことである。旦那と芸者が頬を寄せ合いながら、鉄板に好きな具を落として焼いて食べる。子どものおやつだったものが、いつのまにか座敷へと場所を移すことによって色っぽい遊びの要素を加えた食べものへと変化したというのだ。

 花柳界とお好み焼きの結びつきは、東京でも大阪でも見られた。

この連載記事のバックナンバー
トップページへ戻る

1974年、神奈川県生まれ。東京都立大学人文学部を卒業後、フリーのライターとして食や工芸・デザインを中心に、読むこと、食べること、暮らすことをテーマとしたインタビューやルポ、書評を執筆。『森正洋の言葉。デザインの言葉。』(ナガオカケンメイ監修、美術出版社)、『最高に美しいうつわ』(SML監修、エクスナレッジ)の取材構成ほか、近著に当連載をまとめた『ニッポン定番メニュー事始め』(彩流社)がある。


食の源流探訪

日本人が日常茶飯としている定番食。あまたある食べものの中で、
なぜそれが定番になり得たのか。どのように日本化されていったのか。
「新・日本食」の源流からの流れを、歴史をひもときながら考察する。