源流は茶菓子という説もあるが・・・
お好み焼きのルーツは、一説に「麩の焼き」だと言われている。
麩の焼きとは、茶道の茶菓子に用いられてきたもので、古くは千利休の伝書とされる茶の湯について書かれた『南方録』に登場する。しかし、同書には作り方など詳しいことは書かれておらず、千利休が実際にどのようなものを茶席で出していたかは分かっていない。
のちの江戸時代の文献によれば、麩の焼きとは、小麦を石臼で挽いて粗い粉状にしたものに水を加えて練り、それを濾して、焙烙(ほうろく)とよばれる土鍋で薄く伸ばして焼いたクレープのようなものだった。味噌やあんこを塗って巻くこともあり、これがのちに、「どら焼き」や「きんつば」になっていったとされる。
ただ、麩の焼きをお好み焼きの原型とする説には、疑問の声があがっている。どら焼きやきんつばなど、その後の発展から見ても、麩の焼きは菓子の一種である。それを、食事としてのお好み焼きにまで一気に結びつけるのは無理があるのではないか。そう主張する声があることも、ひと言付け加えておきたい。
麩の焼きより、お好み焼きのもっと直接的なルーツとされているのは、江戸時代の後期に登場した「文字焼き」である。
これは、屋台や駄菓子屋での店先で売られていた子ども向けのおやつである。水で溶いた小麦粉に砂糖を混ぜ、それを銅板や鉄板の上で文字や動物などいろんな形に描いて焼く。
1814(文化11)年に刊行された葛飾北斎の『北斎漫画』には、杓子で文字の形にタネを垂らしている文字焼き屋の姿が描かれている。また、明治初期に来日し、大森貝塚を発見したことで知られる動物学者エドワード・S・モースは、大森近くで文字焼き屋の屋台の様子をスケッチしている(『日本その日その日』科学知識普及会、1929年)。
その後、文字焼きは明治の半ばに「もんじゃ焼き」へと発展していく。一般にもんじゃ焼きの名は、「文字焼き」がなまったものだとされている。ちなみに当時のもんじゃ焼きは、桜エビや天かす、紅ショウガ、ネギなどを加え、醤油で味をつけたものだった。
こうして、これまで甘い味だった粉もののおやつが塩味へと変化し、お好み焼きへと一歩近づいたのだった。
関西風も広島風も含んでいた「どんどん焼き」
もんじゃ焼きが誕生したとなると、すぐにもお好み焼きが登場しそうなものだが、実際にはそれからしばらく時が流れている。
お好み焼きがこの世に現れるまでには、いくつかの段階を踏む必要があった。それは主に、材料と食べる場の変化であった。