この夜が明けるまであと百万の祈り

とあるマンガ好きの備忘録です。私が元気づけられた出来事や作品について少しでも共有できたら嬉しいです

【スポンサーリンク】

日本で使われている「愛国」という言葉は明治時代西洋から輸入されたpatoriotismが起源ぽい

「愛国」という言葉をどうしても使いたい人については、使うなとは絶対に言わない。私は他人を傷つける言葉でもないのにある言葉を禁止しようとするのは反対だ。ただ、「愛国」という言葉そのものはともかく、その言葉を使っている人の中には残念な人が多いというのも事実だと思う。

一度「愛国」という言葉についてちゃんと考えてみたほうがいい

無邪気に愛国を唱えるのは結構だが、その意味をちゃんと考えたことは有るのだろうか。
愛国という言葉はあまりにも曖昧としている。それなら個々人が自分の定義を持ってちゃんと意味のある言葉として使うべきなのだが、それすらせず、何も考えずにファッション感覚で使ってるように見える。RADなんちゃらの騒動もそういう軽薄さのあらわれだったのだろう。まぁ謝罪すべきだとはみじんも思わないけど、馬鹿にはされるよね。*1

これだけ曖昧としていると、意味を考えても仕方がなくて、考えるべきはきっちりと形として残っている<「愛国」というスローガンの名のもとに何がなされたか、何がなされようとしているか>だろうと思う。

それを理解した上で、本当に貴方の考えなのだろうか。誰かに誘導されたものではないのか。本当にあなたの感情を意味しているのか。あなたはこの言葉において何を表現したいのか。

そのあたりを一度考えてみてほしい。

自分が一生懸命使っている言葉について何も知らないまま唱えているだけってのはなんか虚しいだろう。これはお経の言葉ではないのだから、別にその言葉を呪文のように唱えてもご利益が有るわけではないはずだ。わざわざ愛国を連呼するのだったら、せっかくなのだから考えようよ。


「愛国」は本能という説明はあまりにもずさんだし反発を覚える

そもそも、本来大抵の人にとって、「国」という概念は高度に抽象的だ。ましてやそれを愛することは難しい。自治体レベルのことだって把握することは難しいはずだ。つまり、「①国という概念を理解して」「②それを愛する」というのは大変に高度なことである。大抵の人はそれができているわけではない。「国を愛するという意味の愛国」は誰にでもできるものではない。

そもそも「ネイション」(国民)と「ステイト」(政府)の区別すらできていない人が多いと感じる。
ナショナリズム - Wikipedia


「じゃあ愛国ってなんなんだ?自分は何をどのように愛してるんだ?」って考えない?普通に。私はそれがまず理解できないんだけど。


これに対して「愛国」を主張する人は、これは誰もがプレインストールされたものとして持っているものだと言う。子が親という概念を知らなくとも母や父を愛するようにとか親が、特に母親が子を自然に愛するように、人は自然と国を本能的に愛するのだと。これはナショナリズムに変わって「エトニ」という概念が提唱されていたりする。*2

私は全然そう思わないんだよね。母の愛とか、子の愛とかも、生物学的なものだとか絶対的なものだとは思ってないしその考えかたには反発を感じる。恋愛だってそうだったように、必要だからとか、社会的文脈から生まれてきたものだと思う。別に愛する人がいてもいいけど、それを当たり前って言われるとモヤっとするわけね。


なぜ「愛国」は「国」という単位なのか? なぜ隣人は愛せても隣国の人も含めて愛せないのか?

百歩譲って、自分を超えた広いものを愛するということは認めるとしよう。しかし「愛国」といっているひとは、なぜあえて「愛国」でなければならないのかに答えられないだろう。それは「郷土愛」や「周りの人間への愛情」とどう違うのかは答えられないはずだ。なぜ「人類愛」ではいけないのか。なぜ「国」という単位なのか。そして、なぜ「隣国」を警戒したり憎むという概念とセットになりがちなのか。


どう考えても、「自然」なものとは思えないのだよね。


そもそも、「人種」の違う国で、同じ国民であっても諍いが有るケースなど山ほどあるわけで、本能と結びつけるならまだ「日本人愛」のほうが納得できる。だけど、本能を根拠にする人はそう言うと都合が悪いんだよね? いろんなごまかしを感じる。

明治期まで愛国という言葉はなかった(西洋からpatriotismという言葉を輸入した作った)し、明治期に意味が変わっていった

あくまで体感だが、日本で「愛国」を口にする人たちはたいていがナショナリズムである。エスニック・ナショナリズムの意味でもなく「報国」「忠国」の意味である。というか、愛国を唱えている人たちは、「報国」「忠国」という言葉に置き換えた時にそれを受け入れられるかどうかも怪しい。

パトリオティズムの訳語の問題: 万年書生気分

「愛国」という言葉は、少なくとも「古訓」の中には見いだせない新しいものであったと、当時の代表的儒教主義知識人たる西村茂樹は認めていた

「愛国」が政府の文書の中で公的に使用されたのは、おそらく明治4年4月のいわゆる「三条教則」およびそれを敷衍した「十一兼題」が最初である。その時、「愛国」は「敬神」という国学的用語と結びつけられ「敬神愛国」という一対のスローガンとして登場した。しかし、この二つの言葉の結びつきの無理は、「三条教則」が急速に行き詰まったことに端的に現れていた。

明治における「愛国」シンボルの流布は、むしろそれと対立する側においてはじめて成立した。

中江兆民が考え出した「自治」を通して自覚的につくられる共同体への献身を意味する「愛国心パトリオティズム)」が、所与の実体としてある国家への献身へと明治期を通して変化していった

「敬神愛国」は失敗したが、「忠君愛国」は戦争を通して成立したのである。

まず、今ネットの人たちが口にしているのは間違いなく後者であろう。 愛国はいけないんですか?と言ってる人は、今度から「忠君愛国」はいけないんですか?「忠政府愛国はおかしいですか?」と言い換えてほしい。


ちなみに、言葉の成り立ちを考えると「ナショナリズム」はダメだけど「パトリオティズムだったら良い」という考え方は妥当ではないと思われる。
ナショナリズム・パトリオティズムという「言葉遊び」 - 恥ずかしい歴史教科書を作らせない会

「愛国」は、日本古来の伝統などではなく、植民地政策に血道をあげていた当時の西洋諸国からの「輸入品」あるいは「借り物」でしかなかった、ということです。しかも、これが草莽の思想家ではなく、西村茂樹氏のような「御用」「保守系」の人物が、日本の古典を引っくり返した上で出した得た結論であるということは特筆に値すると思います。

この時代の「軍国主義」「国家主義」は、戦後「ナショナリズム」と呼ばれてきましたが、前述の西村茂樹氏によれば、それは「パトリオチズムを訳したるもの」であり、日本では「ナショナリズム」は同じものだということです。 冒頭にご紹介した、「ナショナリズムは×、パトリオティズムは○」などという議論など、下らない「言葉遊び」に過ぎません。

みんな勝手に「愛国」の意味を上書きしていくので、愛国って言葉は常にふわふわしていて正体がない幽霊のようなものに過ぎない。

ちなみにこのあたりこのあたりを区別しているようです。
「ナショナリズム」と「愛国心」の違いを教えてください。回答お願... - Yahoo!知恵袋
ナショナリズム(国家主義)とパトリオティズム(愛国心) の違い | mixiユーザー(id:33562061)の日記
このあたりについて、せめて自分なりの定義を語れる人はまだいいでしょう。ただ、意味も考えずにスローガンとして使っている人が開き直っているのは見苦しい。

冒頭で述べたように私がいいたいのは「愛国がダメ」ってことでは決して無い。愛国というのなら、自分なりにその定義を持って他人に説明できるようになりなさいよってことです。みんなふわっとしすぎてて気持ち悪いよ。私幽霊苦手なの。

具体的に考えられるのは今まで「愛国」の名のもとに何がなされてきたかしかない。その答えは「国の権限強化」ではないですか?

外国人「ナショナリズムとパトリオティズムの違いとは何だろうか?」
ちなみに、アメリカにおいて、PATRIOT法というのがあるが、このこの法律の条文には特にpatriotという言葉は使われていない。
またアメリカにおける「愛国」は、その名のもとに国の警察権限を強化し、国の権力行使を規制緩和するために使われたことも注目に値する。

愛国者法は、テロリストによる2001年9月11日の攻撃に対応するため、特に法執行機関のアメリカ国内における情報の収集に関する規制を緩和し、財務長官が持っている資産の移動、特に外国の個人または存在が関与している場合、に対する規制の権限を強化し、法執行機関と移民を管理する当局がテロ行為に関係があると疑われる人物の拘留または移民を国外に追放するための規制を緩和するものである。愛国者法はまた、国内におけるテロ行為を含めるようテロリズムの定義を拡大し、こうして愛国者法は法執行機関の権限が適用される行為の範囲を大幅に拡大した。

私は目に見えないものや、ふわふわしすぎたものはよくわからない。だけど、具体的な事例ははっきり形を取って見える。

愛国を唱えている人はこういう過去の事例をちゃんと見ていますか?
現在の日本において、「愛国」という言葉がどのような場面で強調され、どのような目的で使われているか見えていますか?そのあたりがさっぱりわからない。なんも考えてないんじゃないかと思う。

「国を愛するのは悪いことですか?」とかそんな自分の内面の是非だけに閉じた話は自分の中で結論出してください。それは宗教の分野です。こちらは「愛国」という言葉がどのように使われているか、を議論してるんです。それすら理解できてない人が多い気がする

何よりもリアリズムが求められる政治において「叙情的な」「美しい言葉」を多用することはそれ自体が警戒の対象だと思う

愛国という言葉それ自体は、美しい響きを持っているかもしれません。その響きだけで肯定している人もいるように感じます。しかし、実体こそが大事な法律審議で「美しい響きの言葉を使ってゴリ押ししようとする」系のものには少しくらい警戒を持ってもよいのではないでしょうか?

*1:最近、ただの馬鹿がやらかしちゃったことに対して厳しく取り締まろうという動きが多すぎてなんかすごく気持ち悪い。

*2:少し話は逸れるがそういえば、愛国の人たちは、親学も大好きという印象がある。どうもこの手の人の思考では「人は自然に◯◯するものだ」といういろんなものが決まっているのではないかと思う。その「理想」という「型」にどうやって人間をはめ込むかが彼らにとっての重要事項なのではないか。