新幹線の通り魔が読まなかった本
新幹線殺傷事件の加害者が読んでいた本という名目で平積みされた背表紙が公開されている。ドストとか塩野があるが、私は疑う。それは、本棚に入っていた本を一定の判断のもとに抜き取り、撮影のために平積みしたのではないかと。すなわち、本棚そのものには公開に適していない本が並んでいるのではないかと。
なぜなら、ドストや塩野を読む人ならば、それ以外も読んでいるだろうから。他のエッセイや小説、コミックなどである。そして、それらは本棚に入っているはずだ。しかし、本棚を舐めるような映像は(私は)見出せなかった。「本棚を全て見せない」という方針の元で抽出→公開されていたと考える。
仮に、本棚に大量にマンガが並んでいたのであれば、マスコミは嬉々として舐めるように撮影→公開していただろう。暴力や情欲を描いたマンガであれば、なおさらそれをクローズ・アップしていただろう。しかし、そうしたマンガを公開しなかったということは、「無かった」と判断してよいと考える。
次に、「ある本」が大量に並んでいたのであれば、マスコミはそれを公開することは問題である、と考えただろう。それはどのような本か? 「本棚を全て見せない」「マンガではない」「ドストや塩野のような無難なものではない」がヒントになる。
いま、「無難な」という言葉を、当たり障りの少なそうなという意味で使った。これは、岩波やベストセラーといった、読書する人だったら持っていそう......と、視聴者の想像がつきそうな、という意味である。
さて、「ある本」とは何か? 本棚の大部分を占めるように大量に出ているシリーズもので、なおかつ、公開すると大いに「難あり」として扱われ、マンガではない。わたしは、一つ、思い当たるものがある。
おそらく、「ある本」がずらっと並んでいる中に、挟まれるようにして「ドストとか塩野とか」が入っていたのではないか、と考える。「ドストとか塩野とか」を撮ろうとしても、どうしても左右の「ある本」のシリーズが目立ち、カメラに入ってしまうから。それぐらい背表紙が目立つ、大きな本なのである。
その、「ある本」は、通常の書店にはあまり置いていない(と思う)。不心得者がブックオフに売ったものを見たことがあるが、確かに目立つぐらい存在感を放っている(要するに背表紙の文字がデカい)。
撮影はしたかもしれないが、公開していない限り、「読んでなかった」ことになる。世間は「読んでいた本」についてあれこれ語っているが、わたしはむしろ、「読んでなかった本」について憶測を逞しくしよう。わたしの場合、「ある本」は未読なので、「読んでなかった」ことにされている他の本について3冊挙げてみよう。
まず、シオラン『生誕の災厄』を。この世の中、どっちを向いてもクソだらけ。希望ゼロ、期待は裏切られ、努力は何も結びつかず、けして何物にもなれない。いっそ生まれてこないほうが良かったのだ。生まれてくることこそ厄災であり、死なない理由はいつでも死ねるからという気分になれる。
これだけ絶望が蔓延っているにもかかわらず、上辺か本心か分からないが、やたらポジティブな脳ミソお花畑な連中がうざい。少しでも考えるアタマがあり、ちょっとでもまともに生きようとするならば、この世界は絶望しかないのに...…見えてないの? 呪詛のアフォリズムを浴びているうち、「自殺する」と考えることこそ自己憐憫な気にさせるほど、絶望に絶望の重ね掛けをしてくる。
しかも、このシオラン爺、長生きしても「生きれば生きるほど無意味だった」ことを身をもって証(あかし)てくれる。厭世主義といえばニーチェとか太宰とかベタすぎる。自殺や発狂というよりも、きちんと生きて、やっぱりこの世はクソだらけ、と言い切ってくれるからこそ、呪詛の真実味が増してくる。「一冊の本は、延期された自殺だ」というなら、『生誕の厄災』こそが、その一冊である。命は無価値であるからこそ、読んでから死ね。
お次は、新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』を。これほどの加速度と熱量を持ったマンガを知らない。史上最悪の凶悪犯「トシ・モン」が、行く先々で破壊と殺戮を繰り返すいっぽう、突如現れた全長10メートルの熊のような正体不明の怪物「ヒグマドン」が暴れまわる。
過激すぎる性描写や暴力が、読み手を試すかのように連続し、気分が悪くなったり、琴線を捩じ切るようなアンチ道徳に読むのをあきらめたくなるかも。「読まなかったこと」にして見当はずれの批判をする人がいるが、これ読むの辛かったんだろうなと不憫に思う。
「生と死」「暴力と秩序」といった二元論や「なぜ人を殺してはいけないのか?」といった問いが幼稚に見えるほど簡単に踏みにじり、ねじ伏せる。TPOを歪ませる詭弁「それサバンナでも同じこと言えるの?」をしゃべる奴自身をサバンナに放り込む。そこでは「命は平等に無価値である」宣言と、「命は時価であり、それに値をつけるのが社会である」猶予つき「常識」がぶつかりあう。
最後は、みんな大好きジャック・ケッチャム。『隣の家の少女』『オフシーズン』といった有名どころよりも、ここは『老人と犬』を掲げたい。愛犬の頭をショットガンで吹き飛ばした少年に復讐する老人の話である。
重要なのはこの老人、無力で独りぼっちという点である。妻とも亡き別れ、たった一人で暮らしている老人にとって、犬は家族同様だった。その家族が、理不尽極まりないやり方で殺され、なおかつ、その罪を正当に問われないのであれば、正義はどこにあるのか。
暴力にすぐ暴力で返すのではなく、まず手続きに則った「常識的」なやり方で正義を求めるのが良い。それでも正義が尽くされないとき、「然るべき裁き」を求めて老人は準備を始める―――怒りを発作に終わらせず、「怒り尽くす」ためには準備が必要なのだ。これほど冷静な狂気は見習うべきやね。
さて、シオラン、新井、ケッチャムと3つ挙げてみた。この3作は、彼の本棚にはないだろう。それこそニーチェや太宰があったらなら、マスコミは嬉々として舐めるように撮る一方、シオランやケッチャムなんて、知りもしないだろう。『ザ・ワールド・イズ・マイン』を見つけたら、残虐な犯行はこのマンガのせいとヤリ玉にあげるだろう。
だが、その本棚にはなかった。仮にあったとしたら、彼の行動は違っていたかもしれない。毒気を抜かれて行動を取りやめていたかもしれないし、反対に薪がくべられて、さらに入念に準備が進められていたかもしれぬ。
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