拝啓、このクソッタレな世界へ   作:スイ

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ハリーの養育環境悪すぎない?あれでグレてないとかハリー天使じゃない?という話


序章という名の前置き
ではプリベット通り4番地を訪問すること


日本で児童虐待に関する社会的な関心が高まったのは1990年代のことであるが、イギリスではその約20年ほど前から児童虐待に関して政府を激しく追及する世論が起こった。

というのも、1970年代から1980年代にかけて児童保護機関が関与した子どもの死亡事件が相次いだためである。

これらの事件は市民の関心の高さを受けて検証のための公的な専門委員会が設置されるに至り、その勧告は政府の施策にも大きな影響を与えることになった。

 

そして1991年。政府により虐待対応のための指針や具体的な対応などを盛り込んだ『ワーキング・トゥギャザー』が刊行される。

ワーキング・トゥギャザーはその後多数の研究者も参加した大規模な実態調査に基づき、1999年に改訂。イギリスの児童虐待問題は徐々にポジティブな方向に向かっているかと思われたが、直後の2000年2月に鑑定医から「これまで私が見たうちでもっとも残酷な虐待である」と言わしめるほど悲惨な『ビクトリア・クリンビエ事件』が発生。イギリス社会に大きな衝撃をもたらした。

政府は貴族院議員のレーミング卿に本件の調査を依頼。結果的にその勧告は当時の政権が総合的な子育て支援及び家族支援を強める契機ともなり、政府は2003年に『すべての子どもに大事なこと』を発刊し、2004年には児童法の改訂を行った。

 

こうして新たな改革が模索されるなか、2007年8月には先のビクトリア・クリンビエ事件と同じ地区で生後17ヶ月の男の子が母親と同居の男性に虐待されて死亡する『ベービーP事件』が発生。繰り返される痛ましい悲劇に、世間ではこれまでの政策への批判や児童保護システムの欠陥を指摘する声が高まっている。

 

つまりは何が言いたいかと言うと、児童虐待問題は21世紀に入ってもなお多くの課題が山積している。そして、それが20世紀ともなれば──もはや、言うには及ばないであろう。

 

 

 

 

 

 

1991年7月。

1人の女性が毅然とした態度でプリベット通りを歩いていた。

女性はダークブロンドの髪とグレーの瞳で、すらりと背が高く、顔立ちはきりっとして賢そうな印象を与える。

女性は通りにお行儀よく並ぶ家々の中で、そのうちの一軒の前に立ち止まった。資料がぎっしり詰まった大きな革のバッグから1枚の紙を引っ張り出し、その家の玄関ドアに打ち付けられた真鍮製の4という数字と紙の文字を見比べてから、紙をまたバッグに仕舞った。

女性は腕を組み、まじまじとその家を観察する。植え込みは整えられ、車はピカピカに磨き上げられている。一見すると何も不自然なところはないが──強いて言えばあまりにも普通すぎて、何か普通でない事情があるからこそこうまでして「普通」を演出しているのではという印象を受ける。あくまでそれは彼女のソーシャルワーカーとしての直感であったが。

彼女はインターフォンを押し、チャイムを鳴らした。少しした後、やけに首の長いブロンドの女性が姿を見せた。「はい?」

 

「突然の訪問をお許しください。失礼ですが、バーノン・ダーズリー氏はご在宅で?」

「ええ、おりますが。失礼ですが、どちら様?」

「これは失敬、自己紹介がまだでした。わたくしは社会サービス局のアンジェラ・クイーンと申します。こちらで同居されているハリー・ポッター君について、少々お話がありまして」

 

件の少年の名前を出すと、ミセス・ダーズリーの顔はわかりやすいほど引きつった。対してアンジェラはそれまで貫いていたポーカーフェイスをにこやかな微笑みに変えた。「デリケートなお話ですので、詳しくは中でされるのがよろしいかと」暗にご近所に聞かれたくなければ中に入れろと脅しをかけているも当然だった。一般の人々──特にダーズリー夫妻のような人間にとって、体裁の二文字は魔法の言葉なのだ。

 

「…………どうぞ」

 

たっぷり数秒の間の後、ミセス・ダーズリーはこの突然現れた侵略者を渋々ながら自宅に招き入れた。彼女はこのことを夫に伝えにせかせかとした足取りでリビングへ向かったため、アンジェラは不自然にならない程度にゆっくりと歩きながらダーズリー家を観察した。

目視出来る範囲では至って普通の中流階級の自宅だ。だが、アンジェラの敏腕ソーシャルワーカーとしての直感が、彼女の視線を階段下の物置に向けた。アンジェラは小さな扉に近付き、丸いドアノブを捻って小さい隙間からそっと中を覗いた。

驚いたことに、中はただの物置ではなかった。洗車用のホースや芝刈り機の代わりに入っていたのは、子ども用のベッドで、ベッドの下には畳んだ洋服や靴下が押し込まれていた。アンジェラが天井や壁に張り付いている蜘蛛や中の埃をまじまじと観察していると、夫人が戻ってきてバタンと物置の戸を閉めた。顔には恐怖の表情が浮かんでいた。

 

「困りますわ。家の中を、勝手にじろじろ覗くなんて」

「失礼。ドアが少し開いていたもので」

 

平然とした顔で嘘をつき、アンジェラは夫人の強い視線に促されてリビングへ足を踏み入れた。玄関に入った時から聞こえていた数人の男の子の歓声が、より一層はっきりとアンジェラの耳に入った。

丸々と太った母親譲りのブロンドの髪の少年が、テレビの前に陣取ってゲームをしていた。だいぶ白熱しているようで、ゲームをしている少年も、その周りに群がってやんややんやと叫んだりしているその他の少年も、アンジェラの存在には気付かなかった。

バーノン・ダーズリー氏は息子そっくりの体型で、首が見えない代わりに巨大な口ひげが顔の3分の1を占めていた。彼は赤らんだ顔で立ち上がり、わざとらしく咳払いをして息子たちの関心を自分に向けようとした。が、それは上手く行かず、ダーズリー氏の顔がもっと赤くなっただけだった。アンジェラは「どうぞ、お気遣いなく。わたくしはこのままでも構いませんから」と言ったが、ダーズリー氏はソーシャルワーカーなんて存在が自分の家を訪ねて来たことが、子どもを通じて他の親に知られたらと考えるだけでブルッと背筋を震わせ、子どもたちのゲーム熱が落ち着いたところで「ダドリー!」と声を轟かせた。

 

「何、パパ?」

「ダドリーや。パパはこれから、こちらの──あー、お客様の相手をしなくちゃならん。2階へ行くか、外で遊んでおいで」

「いやだよ。いまいいとこなんだ」

「ダドリー、しかし──」

「やだって言ったらやだよ!」

 

ダドリー少年はたちまち癇癪を起こし、テレビゲームの箱を壁に向かって投げつけた。アンジェラがすっと目を眇めたのに気付いたのか、ダーズリー氏は「問答無用だ!」と言ってダドリーの首根っこを掴み、廊下に放り出した。後からダドリーの取り巻きもわらわらとついて行って、リビングは静かになった。ダドリー少年は廊下のドアの向こうで何やら喚いていたが、それも無駄だと分かると取り巻きと一緒にドタドタと階段を上がって行った。

ダーズリー氏はくるりとこちらに振り向いたところで、アンジェラがソーシャルワーカーだということを思い出したのか、突然にこにこと愛想良く来客用のソファを勧めた。暖炉の上で一家の家族写真──映っているのはダーズリー氏、夫人、ダドリーの3人だけで、1枚も「もう1人」が写っている写真はない──を眺めていたアンジェラは、促されるままにソファに腰掛けた。夫人が慎重すぎるほど慎重な手つきで紅茶とクッキーを運んできた後で、夫と並んで向かい側のソファに腰掛ける。

アンジェラは儀礼的に紅茶を一口音を立てずにすすった後「さて」とバッグに手を伸ばした。夫妻はまるで拳銃でも出てくると思っているかのようにびくっとし、アンジェラが取り出したのがただの名刺入れだと分かるとわかりやすく安堵した。

 

「改めて自己紹介を。わたくしはリトル・ウィンジング地区社会サービス局のソーシャルワーカー、アンジェラ・クイーンと申します」

 

ローテーブルから滑らされてきた名刺を手に取り、ダーズリー氏は印刷された「児童福祉担当」の文字を読み取ると、大きな赤ら顔をたちまち真っ青にして妻と顔を見合わせた。

 

「早速ですが、ミスター・ダーズリー。そしてミセス・ダーズリー──本日、連絡もなしにこうして参りましたのは、既にお察しのこととは思いますが、御二方夫妻が里親としてこちらで養育されておられるハリー・ポッター少年についてです。と言いますのも、実は先月、当局の方にポッター君が何かしらの虐待を受けているのではないか──少なくとも、一般的な同い歳の少年と比べて適切な養育・扱いを受けていないのではないかとの匿名の通報がありました」

 

まだ話の途中にも関わらず、ダーズリー氏の体は憤りから風船のように膨らみ、口ひげの下からは抗議の言葉が飛び出した。

 

「それは、ミス・クイーン、全くもって不当な疑いです。我々はあの子を──ハリーを引き取ってから、至極『まとも』に育ててきたつもりであります。それに、我々はただの一度として、あの子に理不尽な暴力を振るったりしていませんぞ」

「ミスター・ダーズリー、よく勘違いをしている方がおられますが、虐待はなにも暴行だけに限ったことではありません。児童虐待には主に4つの種類があります。身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、そしてネグレクトです。匿名の通報者からの情報をもとにすると、ポッター君は主に心理的虐待と軽度のネグレクトを受けている可能性が高いと我々は考えました。更に付け加えるならば、ご子息からポッター君への暴力を制止しない、すなわち間接的な身体的虐待の可能性も否めないという指摘も出ています」

 

またしてもダーズリー氏が噴火しそうになっているのをみて、アンジェラはすっと片手を上げた。「どうぞ、わたくしの話を最後までお聞きください。質問や夫妻のご意見は後ほどまとめて」

 

「さて、そこで我々は今年政府から刊行されました『ワーキング・トゥギャザー』の対応手順に則り、1週間に渡って初期アセスメントを行いました。その後の事前協議の結果、我々は児童法第47条に基づいた調査のため、事前通告なしにダーズリー氏及びポッター君への面接を行うのが望ましいという結論を出しました──ポッター君は、通りの向こうにある公園にいるのでしょうね?」

「え──あ、ええ、その、1人の時はプリベット通りを出るなと言いつけてありますので……」

「結構。さて、それでは申し上げた通り、児童法第47条に基づき、ミスター・バーノン・ダーズリー及びミセス・ペチュニア・ダーズリーへの面接を開始致します。面接はわたくしアンジェラ・クイーンが担当します」

 

アンジェラはようやく一息ついて、ソファへ深く腰掛けた。

 

 







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