「いのち」を耕すコトバを見つけに

読書系ブログです。「いのち」を耕し、豊かにしてくれるコトバを見つけに、本の森へと分け入っていきたいと思っています。

人間の権力に対する闘いは、忘却に対する記憶の闘いだ(M・クンデラ)

こんにちは。

今回はずっと私が心に留めている言葉を2つご紹介いたします。ともに又聞きだったり孫引きだったりで、原典に当たっているものではないことをお許しいただいた上で、先に進めていきたいと思います。

 

われわれはあとずさりしながら未来に入っていく

ポール・ヴァレリー(私が友人から教わった言葉)

 

ドラえもん』に出てくるのび太の担任が、「目は何で前についていると思う? それは前に進むためだ!」というのとは正反対の言葉ですが、どういうことか少し考えてみたいと思います。

未来に向かって、わたしたちは前進しているのでしょうか? 否。未来のことはわからないし、目にも見えていない。かといって、目をつぶって未来へと向かっているわけではない。わたしたちは、後ろを向いて未来へと入っていく。それはつまり、目に入ってくるのは「過去」であり「歴史」という風景である。その風景が変わることで、自らが入っていこうとしている「未来」がどういうもの~危険なものかもしれない~であるかを察知することは、しようと思えばできる。そんなことをこの言葉から読み取ることができるかと思います。

ここで思い出すのは、井上ひさしさんの『吉里吉里人』に出てくるゴンタザエモン沼袋という老賢人です。彼は大学者なのですが、「わたしは列の一番後ろについて、落ち穂拾いをしているようなものだ(趣意)」と言っています。

学者のなせることとは、人々が為したことを、後からついていって時に警鐘を鳴らすことがせいぜいであって、先導して方向を示すものではないという意味あいではなかったかと記憶しています。

 

人間の権力に対する闘いは、忘却に対する記憶の闘いだ

ミラン・クンデラ大江健三郎『新しい文学のために』から) 

 

新しい文学のために (岩波新書)

新しい文学のために (岩波新書)

 

 

ここで言う「権力」とは、一人「政治権力」だけではなく、大災害などといった、あらゆる「暴力的なもの」のことも含めてのことかもしれません。しかし第一義的には、人が人に対してふるう暴力、つまり政治権力であると考えた方がよいだろうと思われます。

権力の本質とは、人間をして「人間的」であることを認めず、許さないような、非人間的で暴力的である点だろうと考えます。

その「非」人間的な暴力に対して、暴力で抗するべきなのか否か。そうした問いをも、このクンデラの(言ったとされる。大江さん、すまん)言葉は含意しているのだと思います。

では、権力に対する「人間的な」抵抗とはどういったことか。それは、「記憶」を保持し、忘却によって風化させないという点にあるのではないのか。そんなことを考えさせられます。

「権力」は自らが為したことを、都合よく改ざんして「歴史」を糊塗してしまう。それを許さないというのが「記憶の闘い」ということなのだと思います。

このヴァレリークンデラが言ったとされる2つの言葉の共通点とは何か。それを敢えて取り出そうとすれば、「歴史」に対して謙虚であれということになるのではないかと思います。歴史を無視するようになった時、人間はその歴史から復讐され、断罪されるのではなかろうかと思っています。

 

==========

 

今回は以上です。大して考えを深めることもせずに書いてしまいました。お許しください。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

茶箪笥