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著書「美しい国へ」から安倍晋三語録

第三章 ナショナリズムとはなにか

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移民チームでW杯に優勝したフランス

スポーツに託して、自らの帰属する国家やアイデンティティを確認する――ナショナリズムがストレートにあらわれる典型がサッカーのW杯だ。それほどのサッカーファンでもないわたしも含め、W杯になると多くのにわかファンを誕生させるのは、この大会のもつ特別な魅力のなせるわざだろう。トヨタカップのようなクラブチーム同士の戦いとは違って、各チームは、その国の代表として出場しているからだ。さらに、国を代表するチームであっても、彼らはひとつの民族、同じ人種というわけではない。

わたしは、親善試合を見に行ったとき、会場の盛り上がりに感化されてサッカーの面白さを知った。日本がW杯本戦の出場を逃した93年の“ドーハの悲劇”のときは、ブラジル出身のラモスが、日本人といっしょに涙を流して悔しがった。いまも三都主の活躍にみんなが心から拍手をおくる。日の丸の旗のもとに戦った者は、出身国がどこであろうと仲間であるという意識、それは共同体にたいする帰属意識、というよりほかにいいようがない。

フランスは、第二次世界大戦のあと、労働力が不足して大量の移民を受け入れた。だがその後ナショナリズムの高まりとともに、移民排斥の嵐が吹き荒れた。98年、強豪フランスは、開催国としてW杯に出場するが、このときメンバーの多くが、アルジェリア系のジダンをはじめとする移民と移民二世の選手たちで占められたため、「レインボー(いろいろな人種からなる)チーム」と呼ばれた。しかし、そのチームが優勝を勝ち取ったとき、かれらはもはや移民ではなく、フランス国家の英雄であった。

優勝の夜、人びとは国家「ラ・マルセイエーズ」を歌って熱狂し、百万人以上がつどった凱旋門には「メルシー・レ・ブリュ」(「ブリュ」はフランスチームのシンボルカラーの青)の電光文字が浮かび上がった。サッカーのもたらしたナショナリズムが、移民にたいする反感を乗り越えた瞬間であった。

「君が代」は世界でも珍しい非戦闘的な国家

覚えている人もいるだろうが、2004年のアテネオリンピックで、水泳の800メートル自由形で優勝した柴田亜衣選手は、笑顔で表彰台にのぼったのに、降りるときには大粒の涙を落としていた。

「金メダルを首にかけて、日の丸があがって、『君が代』が流れたら、もうダメでした」

日本人として、健闘を称えられたことが素直にうれしかったのだ。2005年7月にモントリオールで行われた世界選手権では、同じ種目で残念ながら三位に終わってしまったが、「日の丸をいちばん高いところに掲げて、『君が代』を歌いたかった」と悔しがっていた。

世界中のどこの国の観客もそうだが、自国の選手が表彰台に上がり、国旗が掲揚され、国歌が流れると、ごく自然に荘重な気持ちになるものだ。ところがそうした素直な反応を、若者が示すと、特別な目で見る人たちがいる。ナショナリズムというと、すぐ反応する人たちだ。ようするに「日の丸」「君が代」に、よい思いをもっていないのだ。

かれらにとっては、W杯の日本のサポーターの応援ぶりも、きっと不愉快なことなのにちがいない。ただ、その不愉快さには、まったく根拠がないから、かれらの議論にはなんの説得力もない。そのことはかれらもわかっているから、「プチ・ナショナリズム」などという言葉をつかって、ことさらおとしめるのである。

また、「日の丸」は、かつての軍国主義の象徴であり、「君が代」は、御世を指すといって、拒否する人たちもまだ教育現場にはいる。これには反論する気にもならないが、かれらは、スポーツの表彰をどんな気持ちでながめているだろうか。

若者たちはよくいうが、「君が代」は、たしかにほかの国の国歌にくらべて、リズムといいテンポといい、戦いのまえにふさわしい歌ではない。しかし日本の選手が活躍したあとに、あの荘重なメロディを聞くと、ある種の力強さを感ずるのは、わたしだけではないはずだ。

歌詞は、ずいぶん格調が高い。「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」という箇所は、自然の悠久の時間と国の悠久の歴史がうまくシンボライズされていて、いかにも日本的で、わたしは好きだ。そこには、自然と調和し、共生することの重要性と、歴史の連続性が凝縮されている。

「君が代」が天皇制を連想させるという人がいるが、この「君」は、日本国の象徴としての天皇である。日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ。ほんの一時期を言挙げして、どんな意味があるのか。素直に読んで、この歌詞のどこに軍国主義の思想が感じられるのか。

「地球市民」は信用できるか

国家、すなわちネーションとは、ラテン語の「ナツィオ」が語源だ。中世のヨーロッパでは、あちこちからイタリアのボローニャにある大学に学生が集まってきた。大学の共通語はラテン語だが、同郷の仲間とつどうときは、自分たちの国の言葉で話した。そして酒を酌み交わしたり、歌を歌ったりしながら、故郷をなつかしんだ。どこで生まれ、どこで育ったのか、同じ民族でその出自を確認しあうのだ。その会合を「ナツィオ」とよんだのである。

では、自分たちが生まれ育った郷土にたいするそうした素朴な愛着は、どこから生まれるのだろうか。すこし考えると、そうした感情とは、郷土が帰属している国の歴史や伝統、そして文化に接触しながらはぐくまれてきたことがわかる。

とすれば、自分の帰属する場所とは、自らの国をおいてほかにはない。自らが帰属する国が紡いできた歴史や伝統、また文化に誇りをもちたいと思うのは、だれがなんといおうと、本来、ごく自然の感情なのである。

前章でわたしは、パスポートの例をあげて、《わたしたちは、国家を離れて無国籍には存在できないと述べた。しかしそれは、旅行の便宜上のことばかりではない。そこに横たわっている本質的なテーマとは、自分たちはいったい何者なのか、というアイデンティティの確認にほかならない。

外国にすんでいたり、少し長く旅行したことのある人ならわかるだろうが、ただ外国語がうまいというだけでは、外国人は、深く打ち解けたり、心を開いてくれることはしないものだ。伝統のある国ならなおさらである。

心の底から、かれらとコミュニケーションをとろうと思ったら、自分のアイデンティティをまず確認しておかなければならない。なぜなら、かれらは《あなたの大切にしている文化とはなにか》《あなたが誇りに思うことは何か》《あなたは何に帰属していて、何者なのか》――そうした問いをつぎつぎに投げかけてくるはずだからだ。かれらは、わたしたちを日本人、つまり国家に帰属している個人であることを前提としてむき合っているのである。

はじめて出会う外国人に、「あなたはどちらから来ましたか」と聞かれて、「わたしは地球市民です」と答えて信用されるだろうか。「自由人です」と答えて、会話がはずむだろうか。

かれらは、その人間の正体、つまり帰属する国を聞いているのであり、もっといえば、その人間の背負っている歴史と伝統と文化について尋ねているのである。

曾我ひとみさんが教えてくれたわが故郷

ここでいう国とは統治機構としてのそれではない。悠久の歴史をもった日本という土地柄である。そこにはわたしたちの慣れ親しんだ自然があり、祖先があり、家族がいて、地域のコミュニティがある。その国を守るということは、自分の存在の基盤である家族を守ること、自分の存在の記録である地域の歴史を守ることにつながるのである。

北朝鮮に帰属の権利を奪われた拉致被害者のひとり、曾我ひとみさんが、2002年秋、24年ぶりに故郷の佐渡の土を踏んだとき、記者会見の席で読んだ自作の詩があった。

みなさんは記憶しているだろうか。自らの国を失うとはどういうことか、国とはわたしたちにとって、どういう存在なのか、率直に、そして力強く語りかけてくれたのを。

《みなさん、こんにちは。24年ぶりにふるさとに帰ってきました。とってもうれしいです。心配をたくさんかけて本当にすみませんでした。今、私は夢をみているようです。人々の心、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます。空も土地も木も私にささやく。
「おかえりなさい、がんばってきたね」。だから私もうれしそうに、「帰ってきました。ありがとう」と元気に話します。みなさん、本当にどうもありがとうございました――》

「偏狭なナショナリズム」という批判

進歩主義の立場からナショナリズムを批判する人たちは、よく「偏狭なナショナリズム」といういい方をする。ナショナリズムを健全なナショナリズムと偏狭なそれに分けようというのだ。

たとえば、拉致された日本人を取り戻すために、わたしたちが北朝鮮にたいして強い態度に出ると、「それは偏狭なナショナリズムだ」とかれらは批判する。アジア全体の平和を優先するなら、北朝鮮にたいしても融和的に対応すべきだ、という主張である。

かれらのいう「偏狭」とは「排他的」という意味らしいが、そもそもかれらは、ナショナリズムそのものを否定してきたのではなかったのか。というより、かれらがナショナリズムを「偏狭な」と形容するのは、拉致事件をきっかけに日本人が覚醒してしまい、日本のナショナリズムを攻撃してきた旧来の論理が、支持を得られなくなってしまったからではないか。

日本人が日本の国旗、日の丸を掲げるのは、けっして偏狭なナショナリズムなどではない。偏狭な、あるいは排他的なナショナリズムという言葉は、他国の国旗を焼くような行為にこそあてはまるのではないだろうか。

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