「写真家がなぜ政治に発言?」という問いと、「右でも左でもない」という言葉
今、報道番組などに携わらせてもらっていると、「写真家がなぜ政治に発言するの?」と聞かれることがある。見回せば似たような言葉が溢れているように思う。「ミュージシャンがなぜ?」「映画監督がなぜ?」と。
逆に表現者がもっと、活発に発信してもよいのでは、と思うことがある。振り返れば少なからず芸術が戦争や弾圧を助長してきた歴史があるからだ。時には積極的に”プロパガンダ”を流布して、そしてときには関与しない、という黙認で。沈黙をする、ということ自体も政治的な一つのスタンスだとすれば、どんな行動や営みも政治とは切り離せないということなのだと思う。
だからこそ「右でも左でもない」「思想がない」という言葉に違和感を持ってしまうのかもしれない。人が何かを表現する限り、そこには必ず「視点」が存在し、それ自体に思想がにじむ。こうして自分が思想や政治から切り離された存在かのように振る舞うことが、逆に声の大きなイデオロギーの渦に無自覚に吸収されてしまうこともあるかもしれない。
これは決して個人の表現の問題には矮小化できないはずだ。「政治的」であることを極端にタブー視する空気感があるからこそ、それが感じられる歌や発言が突出して目立ってしまうともいえるのではないだろうか。
もう一つ、ここで政治的なことをストレートに皆が表現するべき、と言いたいのではない。すべてのことは政治につながる、という自覚を持ったうえで、それがどう表出してくるのかは表現者次第のはずだ。直球の言葉や写真もあれば、じんわりと自然とにじむような歌や映像があるかもしれない。結局は「タブー視」や「無自覚」を超えた多様性、というところに行きつくのではないだろうか。
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