大澤真幸さんとのマクタガートにつての対談が掲載されている『Thinking「O」』の「次号」であれば、もうすぐ(5月中には)出ると思われます。(これは意外とおすすめです。)https://twitter.com/miyataketetsuo/status/990440114823184384 …
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これは『今という驚きを考えたことがありますか』という題で6月1日に出るようです。最初に大澤氏が従来の(通常の)マクタガート解釈を解説していて、それとの違いを対談で話しているので、『時間の非実在性』をいきなり読むよりわかりやすい(私が従来とは異なる何を言っているのかが)と思います。
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いつの間にか発売日が6月7日に延びてしまったようですね。と言ったついでに言うと、今の存在が神の知の限界の問題と関連づけられています。全知であるがゆえに神には知りえないことがある。神も今一般は知りうるが唯一のこの今の存在は知りえない。もし知ったら神が錯覚に陥ったことになるので。
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左右社のサイトから http://sayusha.com/catalog/books だともう届いているそうです。
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本屋にはもう出ているそうです。〈私〉や〈今〉の存在は最も疑う余地のないものであるにもかかわらず、それらはじつは実在していない。このことは、全知の神は(全知であるがゆえに)それらの存在を決して知りえない、ということのうちに示されている、ということが話の出発点になっています。
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しかし、この話を言い出しているのは大澤氏のほうで、私はこれを「実存こそが本質である」者は神であるのか私であるのかの対立(すなわち「出エジプト記」対「省察」)に読み替えています。この二つの話題が重なるところで、私は「省察」と「時間の非実在性」を読んでいるので。
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61頁4行目で私はなぜか「備給源泉」という語を使っている。「備給」はもちろん精神分析用語なので、私が無意識的にこの語を使ったことについて、大澤氏とここで何か論じあった記憶がある。が、中身は思い出せない。なぜこの語を使ったのかも。最重要ともいえる箇所なのだが、語の選択が謎だ。
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これは隠喩だ。隠喩というものは本来無意識的に使われる。喩えられている当のものを発言者が知っているならそれを言えばすむのだから。文学者(とりわけ詩人)はこの無意識性それ自体を意識的に統御でき、そこに本質的な意味があるだろから、喩えられている当のものは結局探り出せない場合もあるだろう
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別のスレッドで「同一の記述が当てはまる異なる二種の事態が同時に起きているという最重要の論点が通じていない」と言ったが、どういうわけか大澤氏にはこの「最重要の論点」が通じている! 彼は重なって起きるこの二種の事態のうちの一方は神には知りえないという点をなぜか非常に鋭利に捉えている。
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『今という驚きを考えたことがありますか』の「特別付録」の「対談をより深く理解することば」には、大きく「永井均編」と書かれていますが、それは嘘で、守屋佳奈子さんという編集者の方が制作されたものです。私は出来たのを後から見て「いいですよ」と言っただけです。なかなかよく出来ています。
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間違えました! 大きく「永井均編」と書かれているのは事実ですが、これは「永井均が編んだ」という意味ではなく「永井均パート」という意味のようです。その後に「古典編」もあるので。どちらも関連書籍からの引用文から出来ています。他の号と違って引用文に典拠の頁も明記されています!
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