ドイツに住んで、もう5年。とはいっても、見た目は生まれたときから変らずザ・アジア人。日本人のなかでも「ハーフ顔」「エキゾチック」と言われる顔つきの人はいますが、わたしはそんな言葉とは無縁の、ふつうのジャパニーズ顔です。
だからドイツで道を聞かれると「なんでわたしに聞くの?」なんて思うわけですが、それはよく考えたら差別的思考なのかもしれません。
アジア人なのにドイツで道を聞かれる「ふしぎ」
とある駅で電車を待っているときのこと。
「Fährt diese Bahn nach Frankfurt?」と聞かれました。「この電車はフランクフルトへ行く?」という意味です。
そのときはふつうに「Ja(はい)」と答えたのですが、そのあとふと、「なんでわたしに聞いたんだろう?」と思いました。
道を聞かれたり、時間を聞かれたり、ドイツではいろんな人に気軽に声をかけられます。
でも、ちょっと考えてみてください。
あなたは日本で、欧米人やラテン系の人、中央アジア系の人に、日本語でなにかをたずねたことはありますか?
たぶん、ほとんどの人がないと思います。なにか聞くのであれば、見た目が日本人の人を選びますよね。
あえて金髪で鼻が高い白人に「この電車は東京駅に行きますか?」なんて聞きます?
だからわたしも、「ザ・アジア人のわたしになんでわざわざ聞くんだろう......」と内心首をかしげました。まわりには、ドイツ語を話している白人がたくさんいますから。
でも考えてみれば、これは差別的な思考なのかもしれません。
差別はよくないこと。でもわたしは「アジア人」
「差別」という言葉は、悪いイメージを伴って使われます。差別的な発言、差別的な思想。そういうものは多くの国で「悪」とされています。
そして多くの良心的な人は、「自分は差別主義者ではない」と思っているでしょう。「人種や国籍だけで人を判断するのはよくないことであり、自分はそんな人間ではない」と。
わたしだって同じです。こっちの肌の色のほうが偉いとか、この国出身の人は見下していいとか、そんなことを考えたことはありません。
でも、「アジア人であるわたしになぜ道を聞くの?」という疑問は、ある意味差別的なんじゃないか?と気づきました。
というのも、それは「アジア人の見た目をしている人間はドイツにおいて外国人である」と決めつけているからです。
ドイツで道を聞かれると「なぜ明らかにアジア人のわたしに道を聞くの?」って思ってたけど、これもある意味差別的思考なのかもしれない。アジア系でもドイツで育った人もいるし、白人だからドイツ人ってわけでもない。差別されるのは嫌なのに、「わたしアジア人ですけど?」って思った自分もたいがいだ
— 雨宮@フリーライター