2015年12月、ある映画をめぐってアメリカの二人のアーティストが論争を繰り広げた。『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)や『マルコムX』(1992)の監督として知られるスパイク・リーの作品でシカゴを舞台にした『シャイラク』が公開された際、同市出身のヒップホップミュージシャン、チャンス・ザ・ラッパーがSNS上で噛みついたのだ。
CHI-RAQ Official Trailer (2015)
「シカゴ出身のひとりとして個人的に言わせてもらえれば、僕たちは地元でこの映画を支持していない」「あんなものはここではまったく愛されていない。滑稽な作品だし、あれをサポートしようと言っているのは地元の人ではない」「あの作品を作った連中は “命を救う”ためにそうしたわけじゃない。搾取しているし、問題のある作品だ」「しかも、女性たちがセックスをしないで殺人を止めるというアイディアは不愉快だし、この街で子供を亡くした母親に対する明らかな侮辱である」(1)。
一連のツイートの中でも特に後半の投稿については解説が必要だろう。そもそも『シャイラク』というタイトルは、2009年にシカゴ出身のラッパー、キング・ルイが自分の出身地を「シャイラク、ドゥリリノイ(Chiraq, Drillinois)」と名付けたことに由来する。「シカゴ(Chicago)」が日常的に銃による暴力に溢れ、まさに「イラク(Iraq)」のような「戦場」と化していることを表し、同市で誕生したヒップホップのサブジャンル、ドリル(Drill)を州名のイリノイ(Illinois)にもかけた造語である。キング・ルイは同名のミックステープも2011年にリリースしている(2)。
リーの作品は、ギャング間の抗争が絶えないシカゴのサウスサイドを舞台に女性たちが結束して男性たちの争いを止めるというものだが、実はこの物語は古代ギリシャ喜劇、アリストパネスの『女の平和』を下敷きにしている。紀元前411年に初めて上演された『女の平和』はアテネとスパルタが覇権をかけて争ったペロポネソス戦争の最中に書かれたが、後世にまで語り継がれるのはその奇抜なプロットである。男たちのだらしなさに絶望した主人公リューシストラテーは、女性たちの力で平和を実現しようと「全ギリシアの女たちを糾合し、男性を近づけず、性的ボイコットで以って、男たちを降参させ、和睦させよう」としたのである(3) 。このセックスボイコット、ないしはセックスストライキというアイディアは、2011年にノーベル賞を受賞したリベリアの女性運動家レイマ・ボウィによって採用され、2014年の東京都知事選挙で一部の女性が「舛添に投票する男とセックスしない女達の会」を結成するなど、その後も数千年にわたって受け継がれることとなる。
先に述べたように、スパイク・リーの『シャイラク』は基本的なプロットを『女の平和』に負っている。劇中で抗争を繰り広げるギャング団をそれぞれスパルタとトロイアと名付け、アリストパネスの作品と同じ名の主人公がセックスボイコットを訴えるというストーリーは、『シャイラク』がシカゴのサウスサイドを古代ギリシャ喜劇に擬えた「風刺劇」であることを雄弁に物語る。
チャンス・ザ・ラッパーがこうした形式をどこまで認識していたかは定かではないが、少なくとも彼はリーの解釈行為そのものに苛立っているようにみえる。『シャイラク』が『女の平和』をもとにサンプリングしたセックスストライキというプロットに対して、「この街で子供を亡くした母親たちに対する侮辱である」と批判しているのは、チャンスが作品の比喩的、寓意的なメッセージを字義通りに受け取った証左だといえるだろう。
それに対するスパイク・リーの反論は、自らの作品の擁護というよりは、批判者としてのチャンスの資格を問うものだった。数日後に公開されたMSNBCのインタビューでリーはチャンスの父親に言及し、暴力に溢れるシカゴの状況を放置した市長をチャンスが批判しないのは、彼の父ケン・ベネットがその側近であるからだと主張した(4)。
Spike Lee On 'Chi-raq' And Mayor Emanuel
論争は翌年まで持ち越され、三月にシカゴ北部のノースウェスタン大学で上映イベントが開催された際、質疑応答でリーがチャンスのことを「ホンモノの偽善者」と蒸し返すと、チャンスもふたたびツイッターに連投し、リーを「老いぼれの嘘つき」と断じたのだ(5)。
たしかにチャンス・ザ・ラッパーに限らず、『シャイラク』には多くの人が不満を表明していたし、シカゴ市長が事前にタイトルを変更するよう監督に直接依頼していたこともリー自身が認めている。自他共に認めるニューヨーカーのリーが、シカゴのネガティヴな状況をどこまで代理/表象できるのかという問題は、最近日本でも磯部涼『ルポ川崎』(サイゾー)刊行をきっかけに議論されたスラム・ツーリズムの問題でもある(6)。
リーの名誉のために大急ぎで付け加えれば、『シャイラク』はさまざまな批判にさらされたものの、映画としての評価は決して低くはない。「ここ数年におけるリーの最良の作品」と激賞するニューヨーク・タイムズ紙のマノーラ・ダージスを始め、ある批評サイトによれば映画評論家の80%以上がこの作品を支持している(7)。 ちなみに、同サイトで一般の観客の評価は50%台に留まっており、シカゴのサウスサイドの凄惨な状況を伝える手段として風刺(satire)というジャンル――しかも、古代ギリシャの〈喜劇〉である――がどこまで有効であるかという点で、批評家と観客の評価が分かれているようにみえる。
(1) Daniel Kreps, “Chance the Rapper Slams ‘Goofy,’ ‘Exploitive’ ‘Chi-Raq’,” Rolling Stone, Dec 5, 2015, https://www.rollingstone.com/music/news/chance-the-rapper-slams-goofy-exploitive-chi-raq-20151205.
(2) Collin Robinson, “Can You Say Chi City? Chance The Rapper & Family Turning Chi-Raq Back Into Chicago,” Stereogum, July 25, 2016, https://www.stereogum.com/1887380/can-you-say-chi-city-chance-the-rapper-family-turning-chi-raq-back-into-chicago/franchises/sounding-board/
(3) 高津春繁「解説」アリストパネース『女の平和』岩波文庫、1951年、140-141.
(4) “Spike Lee On ‘Chi-raq’ And Mayor Emanuel,” MSNBC, Dec 9, 2015, https://www.youtube.com/watch?v=u55k91w_ueg
(5) Christian Holub, “Chance the Rapper slams Spike Lee over ‘Chi-raq’,” Entertainment Weekly, March 9, 2016, http://ew.com/article/2016/03/09/chance-rapper-spike-lee/
(6) 「東浩紀×磯部涼――貧困地域を観光するのはタブーか?“スラム・ツーリズム”の本質と功罪」サイゾーpremium, 2018年3月18日、http://www.premiumcyzo.com/modules/member/2018/03/post_8275/。
(7) Chi-raq (2015), RottenTomatoes, https://www.rottentomatoes.com/m/chi_raq/