“流し”と聞いてピンとくる方はいるだろうか。私には、スーツに身を包んだ演歌歌手然とした男性がギターを抱えて飲み屋街を練り歩く、といったイメージが思い起こされる言葉である。もしかしたら“流し”という言葉自体聞いたことがないという方もいるかもしれない。
“流し”で辞書を引くと、「街頭や酒場などを流して歩く芸およびその芸人」とある。ギターなどの楽器を持って居酒屋さんをめぐり、時にお客さんのリクエストに応じて歌を歌ってチップをもらう行為、という感じだろうか。
さて、その“流し”だが、自分の中ではなんとなく昭和のせいぜい中頃までのもので、今はもうほとんどなくなってしまった文化だと思っていた。しかし、それは間違いだった。この2018年にも“流し”として活動している人がいて、しかもそれが東京・恵比寿の繁華街をはじめとした都内のさまざまなエリアで夜を彩っているというのである。
今回、現役の“流し”として活動するシンガーであるパリなかやまさんに、その活動の実態や、お酒と音楽がどのように共存しているのか、たっぷりお話をうかがうことができた。果たして、今どきの酒場ではどんな曲が歌われ、好まれる秘密はどこにあるのだろうか。
主な活動場所は「恵比寿横丁」
まずは、今回お話を聞いたパリなかやまさんの経歴を簡単に紹介したい。
パリなかやまさんは1976年の東京に生まれた。2004年にバンド「コーヒーカラー」のメンバーとして日本クラウンからメジャーデビュー。デビューシングルの『人生に乾杯を!』はサラリーマンの哀切を歌った曲として大きな支持を得た。
その後、2008年になって音楽関係の知り合いから声をかけられたところから、パリなかやまさんの“流し”としてのキャリアが始まることになる。
── パリなかやまさんが“流し”を始めたのはどういういきさつがあってのことなのでしょうか?
たまたまなんですよ。先輩のミュージシャンで作曲家の小林治郎さんという方がいるんですけど、その方が東京・亀戸にある「亀戸横丁」から依頼を受けたそうなんです。横丁に“流し”を復活させたいんだけど、誰かできる人はいないかという。小林さんはシンガーではないので、自分が伴奏をするとして歌を歌える人がいないかと考えて、僕と一緒ならできるなというので声をかけてくれまして。それで、日当も出るというので、じゃあやってみましょうかということで。
── それが2008年のことだったんですね。
はい。今年で“流し”を始めて10周年なんです。
── それまではバンド活動をされていたわけで、まさかご自分が“流し”になるとは思っていなかったと。
そうですね(笑)。でも、最初は小林さんの伴奏で歌う形でということだったので、それならできそうだなと思ったんです。当初の契約の期間が1カ月ぐらいだったんですね。まずひと月やってみて、すごく楽しいし勉強にもなるしということで、その後も続けようということになりました。
── でも、それまでのバンド活動とは勝手が違うわけですよね? すぐに“流し”の世界になじめたんですか?
バンドではオリジナル曲を演奏していましたけど、自分の作ってる音楽だけが好きなわけじゃないんです。そもそもいろんな音楽が好きで、そこからオリジナル曲が生まれてるっていうのがあるので。特に自分は幅広くいろいろなジャンルとかアーティストの歌を聴いている方だったので、そういうものを歌って喜んでいただけるというのは楽しい作業でした。
── そうやって最初は亀戸横丁を専門に“流し”をされていて、その後、都内・恵比寿にある「恵比寿横丁」に拠点を移されたそうですね。
“流し”を始めてから楽しいなと思ってずっと続けていて、だんだんと余裕も出てきたんですが、一年ほどした頃、亀戸横丁のなじみのお店が立て続けにクローズしてしまって。このままやっていくなら次の場所を探さないとダメだというので見つけたのが「恵比寿横丁」だったんですよね。
▲東京の「恵比寿横丁」は、山下ショッピングセンターというかつての商店街の跡地にできた飲食店街。コンパクトなスペースに3~5坪の小さな飲食店がひしめくエリアである。入口にはドアがなく、オープンエアになっているお店がほとんどなので、横丁全体が一つの巨大な居酒屋さんであるかのよう。取材時は平日のまだ早い時間だったのだが、すでに多くのお店が満席状態で熱気にあふれていた
“流し”は天然漁と養殖業に分かれる
── 「恵比寿横丁」を選んだ理由というのは?
まず、自宅から毎日通うということを考えると一番楽だったという(笑)。それと、今でこそ恵比寿もだいぶ人が増えてにぎやかですけど、7年前に“流し”を始めたころは割とローカル色が強かったんですよ。雰囲気がよくて結構すぐになじむことができました。
── それでも最初にそこに入っていく時は大変だったのではとお察ししますが。
もちろん事前に下見はしていて、ここならいけそうだとは思っていました。その頃の恵比寿はマスコミ関係の仕事をしている方やベンチャー企業をやっている個人事業主とか、あと関西圏の人も多かったんですね。新幹線が止まる品川駅からアクセスしやすいのもあってだと思います。そんな人たちが多くて、みなさんノリがよくて最初から盛り上がったんですよ。
── 自著『流しの仕事術』の中で、“流し”には毎度別の場所に飛び込んで営業する“天然漁スタイル”と特定の場所に拠点を定めて活動する“養殖業スタイル”があると書かれていますが、それでいうとパリなかやまさんは“養殖業スタイル”なんですね。
▲2014年に出版された自著『流しの仕事術』(代官山ブックス)
その方が雰囲気がある程度分かるので場所にあったスタイルを作りやすいというのが利点です。たまに気分を変えるためにふらっと別の街で“流し”たりもしますけどね。
── ちなみに、パリなかやまさんが“流し”を続けるにあたって、手本になる師匠のような人はいなかったんですか?
いないんです。その頃は他に同じようなことをしている若い人もいませんでしたし。だから、頼りになるのはなんとなくのイメージだけですよね。でもお客さんが言ってくれるんですよ。「もっとこうした方がいいよ!」とか。特に飲み屋さんが集まった亀戸の街だと、ちょっと前まで実際に“流し”をしている人がいたんですよ。昭和の“流し”を良く知ってる人がたくさんいたので、振る舞い方を知っていて貴重な意見をくれるんです。そういう意味では亀戸横丁ではすごく勉強させてもらいました。
一番人気は中島みゆきの超名曲
ここで本題である「酒場と歌」についてじっくり聞いてみることに。昔からアルコールと音楽という組み合わせは相性がいいが、現状はどうなっているんだろうか。
場末のスナックで歌われる演歌ならまだしも、そろそろ平成も終わろうかという日本において「オシャレな都会の街・恵比寿の飲み屋さんで求められる曲」というのがどうにも想像ができないのだ。
── 昭和の“流し”というと、なんとなくド演歌というイメージがありますが、やはり演歌のリクエストは多いのでしょうか?
もちろんありました。そこはバランス良くやる必要がありましたね。でも、自分がどれだけちゃんと演歌を歌えているかはわからないですよ。ただ、コードを見れば弾けるし、歌詞を見れば歌えるわけです。だからそこはもうやってみるしかない。やってみると、この歌手の歌は難しいなとか、これは評判がいいなとか、だんだん分かってくるわけです。
── パリなかやまさんの持ち曲というか、レパートリーはどれぐらいあるんですか?
今は2000曲ぐらいですね。最初は30曲ぐらいからスタートしたんじゃないかな。イルカの『なごり雪』やサザンオールスターズ『いとしのエリー』、井上陽水『少年時代』とか、のあたりの定番曲や、スピッツやミスチルとか、みんなが知っているようなアーティストのヒット曲をそろえて始めました。
▲ギターを抱え、エビヨコ(恵比寿横丁)の喧騒(けんそう)の中に悠然と突き進んでいくパリなかやまさん。お店の方はもちろん、常連さんの中にもパリなかやまさんとなじみの方が多いようで、歩き出すとあちこちから声がかかる
── “流し”をやってきて今まで一番たくさん歌ってきた曲はなんですか?
中島みゆきの『糸』でしょうか。あの曲はずっと人気がありますね。男女問わず好まれる感じで、みんなで一緒に歌うこともできますし。
── おー! 割としっとりした曲ですね。ちなみに2位と3位も聞いていいでしょうか?
2位はサザンオールスターズの『真夏の果実』かなぁ。3位はどうだろう、BEGINの『島人ぬ宝』とか。
── 意外とアッパーな曲というよりはバラード曲が好まれるんですね。
もちろんアッパーでにぎやかな曲もリクエストされるんですけど、そういうものだと、その時にヒットしている曲がリクエストされるんですよね。ちょっと前であれば斉藤和義『ずっと好きだった』とか、去年だと星野源の『恋』ですね。AKB48の『恋するフォーチュンクッキー』とかも一時期よくリクエストされました。
▲よく見ると横丁内にはパリなかやまさんの提灯も
永ちゃんナンバーはむしろ「歌ってもらう」
── お客さんはパリなかやまさんの歌をうっとり聴いている感じなんでしょうか? 場合によってはお客さん自身も一緒に歌っちゃうこともあるんですよね?
両方ありますね。8割以上は聴きたいっていう方ですが、何曲か続けて演奏しているうちにお客さんがノッてきて気づいたら合唱しているというのは結構多いですね。例えば40代の方なんかですと最後は尾崎豊で大合唱というパターンが結構あります。
── やはり世代によって好まれる曲があるんですね。そこら辺は意識して選曲されるんですか?
大抵はレパートリー曲をまとめたリストの中からお客さんに選んでいただくことが多いんですが、「なんでもいいからなんかやってよ」って言われるような時は世代を意識して何曲かやってみますね。
▲若いお客さんの「徳永やってー!」という声に反応し、即座に『レイニーブルー』の一節を歌ったかと思うともう一人のお客さんから「小田和正!」という声がかかり、そのままの流れで『ラブストーリーは突然に』を歌う。さらにまた別のお客さんから「Superfly!」という声が聞こえるとその次の瞬間、『愛を込めて花束を』を歌い出す。まるで反射神経のテストを見ているような鮮やかな流れだった
── 例えば、50代のお客さんだったらどんな感じでしょうか。
CHAGE and ASKAや安全地帯の往年のヒット曲を軸にして、ちょっとずらして大沢誉志幸『そして僕は途方に暮れる』をやってみたりとか。
── わっ! それはもう間違いない。
やっぱりお客さんは大抵一人で来てるわけじゃないから、その場にいるみんなが知っていて一緒に盛り上がれる曲が好まれるんですよね。最大公約数的な曲というか。ただ、たまに明らかに特定のアーティストのライブとかコンサート帰りのお客さんで、そればっかり歌ってよっていうケースもありますけどね。もう見るからに矢沢永吉ファンのグループとか(笑)。
── なんと! そういう時はどうするんですか?
そりゃあもう、永ちゃんの曲をやりまくりますよ(笑)! ただ矢沢永吉ファンの方はみなさん濃いですからね。熱量がすごい。僕が歌ってもそんなに永ちゃんっぽくはならないので「いやー、先輩方にはかないませんよ!」って言ってお客さんに歌ってもらうとか、そんなテクニックを駆使して(笑)。
アニソン、ラップ、洋楽まで
── お客さんからのリクエストで、意外にこれが多いよという曲はあったりします?
『残酷な天使のテーゼ』とか、人気がありますよ。
── えー! 私が想像していた“流し”のイメージとは全然違います。
『今夜はブギー・バック』なんかもそう。ラップの部分をお客さんがやり出すことも多いですし。今はフリースタイルがブームなので、途中からフリースタイルが始まってお客さんが一緒に飲んでる仲間のことをラップし始めたりして延々終わらない(笑)。
── これは歌いにくいなーっていう曲は?
やっぱりアニソンですかね。歌いにくいというか……正直疲れますね(笑)。ギター一本でやるしかないですからね。なんとか空気を出してやるわけなんですけど。あとはそれがお客さんの脳内でフルオケで再現されていればいいなと。
▲歌い出したらとまらない。その後も、年配男性グループの心をちあきなおみ『黄昏のビギン』で一気につかみ、「へー! こんな曲も知ってるんだねー!」と喜ばれていたかと思えば、最終的には同じグループがチェッカーズ『星屑のステージ』をみんなで熱唱していたりした
── 先ほど、レパートリーのリストがあるとおっしゃっていましたが、よかったら見せていただけませんか?
どうぞどうぞ。こっちがレパートリーの中から厳選した鉄板の120曲です。
▲初めての客はこのリストを見て選ぶ。ちなみにほぼ真ん中に見える『人生に乾杯を!』は、なかやまさんのヒット曲
── これは貴重なリストですね。演歌はあまりなくて、ユニコーンの曲があったり。私の世代的にぴたりとハマる曲がたくさんあります。
ニーズがあるものを集めるとこうなるんです。こっちはミドルエイジ向けに曲目を増やしたバージョンです。
▲曲名だけで歌詞やメロディーが浮かんでくるヒットナンバーばかり
── 洋楽リストも結構な充実度!
「恵比寿横丁」は最近、特に海外のお客さんが多いですからね。
── このリストはその時々で更新されていくんですか?
うーん、でも最近は、誰でも知ってるヒット曲があまりないんですよね。そういうものがあれば足していくんですが。例えば「NHK紅白歌合戦」に出た歌手の曲は追加したりしますね。
── パリなかやまさん自身がこの曲を歌いたい! っていうことはあるんですか?
一晩に何回も同じ曲を歌うと飽きてくるんですよ(笑)。僕はスティービー・ワンダーが好きなので、リクエストが来るとうれしいんです。でもたいてい僕の好きな昔の曲はリクエストされないんですよ(笑)。『I Just Called To Say I Love You』(邦題:『心の愛』)とか、どうしても最近の有名曲がリクエストされるので。
── 逆にマニアックなリクエスト過ぎて困るということはありますか?
だいたいはコードと歌詞がわかるのであればやってみますけど、たまにありますね。昨日もグレイトフル・デッドの曲をやってくれと言われて、それは無理だと(笑)。
『酒と泪と男と女』は最強の酔いどれソング
── ところで今さらなのですが、例えばパリなかやまさんに一曲やって欲しい! という時、チップってどうしたらいいんでしょうか。
とくに金額は決めていないんです。メニュー表の案内にも書いているとおり「チップは貴方の御満足次第」でいただいてます。逆に、事前に××円で○○曲やって! と交渉で受けることもあります ね。どうしても先に値段を確認したい心配性な方には「じゃあこれでどうですか?」とこちらから提案することもありますし、そのあたりはあくまでお客さんが納得するように務めています。
── そこは気軽におたずねしていいものなんですね。でも“流し”だと、商売相手であるお客さんが酔っている場合が多いじゃないですか? そういう部分でトラブルなんかはないですか?
酔ったお客さんに別のお店に連れて行かれちゃうっていうことはたまにありますけどね。それでついて行った先がまたロクでもないお店だったり(笑)。あと、さんざん歌った後にお金を払ってくれないっていうこともあります。それは経験を積んで相手を見極められるようになりました。酔ってるから気が変わっちゃうんでしょうね。でも、他にはそんなにトラブルっていうのはないかな。結局は人と人なので、相手がこうして欲しいと思っていることが自分の条件に見合わなければ断ればいいし。
▲酔客たちの気ままなリクエストを上手にあしらいながら横丁を歩いていくパリなかやまさんの背中には、なんだかしびれるカッコよさがある
── 「おい! 飲め飲め!」ってお酒を強引にごちそうしてくる人とか、いたりしませんか?
僕はお酒をまったく飲まないんです。そこはお店の人も分かってくれているんで大丈夫ですね。
── なんというか、酔っ払いが嫌いになったりしませんか(笑)? 私はお酒が好きでよく飲む方なのですが。
いえいえ、お店も横丁全体もお酒が好きな人のおかげで成り立っているわけですからね。それに“流し”自体がお酒の場とともにあるものですし。そういう意味では河島英五の『酒と泪と男と女』は象徴的な曲ではないでしょうか。お酒を飲んでる人を肯定する歌ですよね。「人生そういうもんだよ!」っていう。若者もみんな歌えるし、数ある酔いどれソングの中でもあれはテッパン曲ですね。
“流し”のスタイルに正解はない
── パリなかやまさん以外にも、都内には“流し”っているんでしょうか。
います、います。むしろ増えていますよ。横丁で実際に“流し”を見てこの道に入ったという人もいるみたいです。僕は「平成流し組合」という、“流し”をやっている人が集まる団体を運営していまして、現在18人のメンバーが在籍しています。
── そ、そんなにいるんですね!
20代から50代まで年齢もさまざまで、上野、新橋、有楽町、日比谷、溝の口、恵比寿、吉祥寺とエリアを分けて、どのエリアにも必ず誰かが毎日いるようにしています。
── 「恵比寿横丁」以外にもそんなにたくさんのエリアで活動されているんですね。
どこも、スタートする時にはまず自分が行くんですね。責任者の方に挨拶して、その場所に自分が入って様子をみて、その状況をメンバーに知らせます。こういうふうにすると良いよってアドバイスしたり。その後も僕が様子を見に行くことがあります。
── メンバーはみなさんそれぞれ独自のスタイルでやっているんですか?
それこそまずは先ほどの厳選した曲目リストを渡して。そういうスタンダード曲はある程度できないと仕事にならないので、そこはみんな覚えてますよね。でもそこさえ押さえればあとは自己流でいい。それぞれが一つのお店をやっているようなものなので「うちはハンバーグしか売らない! それ以外のものを食べたい人には出せません」っていうのも当人のスタイルなので。もちろん、これだけやっておけば売り上げが上がると思うよとか、アドバイスはしますけど、正解はないんです。
インタビュー終了後、いつものように「恵比寿横丁」で“流し”をするというパリなかやまさんに同行し、お仕事の邪魔にならないよう配慮しつつその模様を見せてもらった。
お客さんのノリにあわせて柔軟に曲を変えながら気持ちいいツボを次々に押していく妙技に、気づけば口を開けて見ほれてしまっている私であった。
パリなかやまさんの伴奏で楽しそうに歌っているお客さんたちを見ていると、カラオケともスナックとも違う、もっと開かれた音楽とお酒のあり方の一つが“流し”なんだなということがわかってきた。
そんなパリなかやまさんのギターの音色と歌声が、今夜もきっとどこかの街を彩っているはずだ。
取材協力:パリなかやま 平成流し組合