独壇場ケセランパサランレポート(1)
未分類『独断上ケセランパサランレポート』
ケセランパサランという奴は六月下旬、梅雨が明け、うだるような夏の到来とともに太陽の光の中現れぷらぷらと空を舞う。
息が詰まりそうな暑さのせいで目の錯覚かと思うのだが、よく見ればそれはしっかりと実在をもった妖怪。
想像するようなふわふわのもじゃもじゃのタンポポの綿毛のような容姿とは違い、実際には少々みすぼらしい毛の薄くなった老犬のしっぽのような容姿で、そのために人はゴミか綿埃が舞っているぐらいにしか認識しないのであるが、あれはれっきとした妖怪である。
実在があるのだから何か虫だのほ乳類だの分類されると読者諸賢は思われるかもしれないが、学者ですらその存在を生命体と認知することができず未だかつて学術会にその姿を現したことはないのだ。
もっとも妖怪が生命体であるとしての話であるが。
妖怪と言えば垢嘗めや小豆洗い、ブラウニーを想像される方もいると思うが、妖怪には二種類あり、第一種はそういった類の人間の想像からでたものであり、第二種がビッグフットを代表としケセランパサランを含む実体をもつ妖怪である。ところでケセランパサランを捕獲し誰にも言わずにタンスに確保し餌としておしろいを与えると幸福になるといった言い伝えがあるそうだが、あれはまったくの嘘である。
なぜならあれはケセランパサランが大量発生した折りに、その駆除対策としてケセランパサラン撃滅の会が考え出した戦略であり、妖怪と言えど生き物をタンスになどしまってしまえば考えるまでもなく生きていられる訳などなく、おまけに当時のおしろいには炭酸鉛の成分が含まれており、それは人間にとっても有害であるがケセランパサランにとってはなお毒物であり、そんなものを食わされれば彼らは数日のうちにいちころであるのだ。そしてケセランパサランは死滅すると急速に自己分解を始め数秒のうちに跡形もなく分子のレベルにまで分解されてしまう。
しかしその事実がまた「幸福を呼ぶ」という迷信を助長し、ケセランパサランが消えたことを人々は幸福が到来する前触れだと喜び一人小躍りするのである。特に一部では恋に効くと評判だそうだ。
しかしまったくもってケセランパサランにとっては至極迷惑な話であり、早急にその誤った認識を正していただきたく思う。
ここまでケセランパサランについての正確な情報を書き連ねてきたわけであるが、そろそろ某氏の実体験を綴った手記の一部を引用しておこう。
これを読むことがケセランパサランを理解するためには一番の近道であると思われる。
以下引用
あれは忘れもしない二千年、八月下旬のことである。世の中は二千年の到来に沸き立ち、進歩する科学文明に諸手をあげている一方で、私は文明に逆行するかのごとく妖怪研究に没頭し始めた。なぜ、情報学部でバリバリとシステムを勉強していた私がそんなことになってしまったのか。それはある衝撃的な出会いが発端である。いや、発端どころではなく、発端から結末まであの出会いこそがすべてである。いや、出会いがすべてなのではなく、出会った対象が私の興味の・・・。
とにかく、よくはれた八月下旬、私はぷらぷらと大学近辺の川沿いを、パソコンに疲れた神経をいやすために散歩していた。すると不意に視界の隅に白い残像が写り込み、ふいっと私の耳にそれは突っ込んだ。何かの虫であろうか。ミミズであろうと、ムカデであろうと、タランチュラであろうとわずかも動揺せぬ私であるが、虫ごときに鼻やら耳やら、自分の穴に入られるのは非常に不快である。
私は中に入った虫がさらに奥に入り込むことがないよう、プールの後の水抜きのように、ぽんぽんと片足でジャンプし、頭をとんとんとたたく。通りすがりの人間に不審な目を向けられようとかまわない。理由があってこうして、ぽんぽんはねているわけなのだから。
そして、ちょうど八回目にぽんと跳ねた時、みごとにぽんと耳から虫が飛びだして、私の右の手の上にぽさっとのっかった。無礼な虫である。その姿、とくと見てやろうと手を目の前に動かすと、風圧でそやつはふわりと中に浮いた。いや、飛んだのであろうか?不思議なことである。目の前のそれは私をあざ笑うかのごとく、ふわふわと右に左に、上に下に、自由自在に飛び回る。
白いマリモのような、いやそれよりかは少々みすぼらしい毛の生え方の。いったいこれは生き物であろうか。私はその真っ白しろ助をなんとか手の中に捕まえ、今度は逃げないように、両手で包み込む。
隙間からちょいとのぞいて見ると、そいつはもぞもぞ動き、何やら気味が悪い。風がないのに動いているということは生き物なのであろうが、白い毛の中心はぼんやりと形があるのかないのか。ようするに見た目は全く生き物ではない。しかし何か生きているような。
勉強熱心な私は即座に我がテリトリーに戻り、部屋の右、一番奥のパソコンでぱそぱそとそのものの正体を検索する。
「白い、マリモ、毛」入力。
出力一覧にはマリモ君という犬やら、緑のマリモやらいろいろ出てくる。その中で我が目を捉えたのは、妖怪の二文字。
『ケセランパサランの秘密 ケセランパサランは妖怪です。これを見つけたら絶対に誰にも言わないこと。そしてタンスの中にしまい、おしろいを与える。そうすれば幸せが・・・』
妖怪。
私は先ほど捕らえ、ちょうどポケットに入っていたコンビニの小さなビニール袋に空気と一緒に入れておいたそやつを確かめる。
確かに妖怪と言われれば妖怪のような気がする。しかしこんなしょぼくれた奴に自分の幸せを託していいものか。
数十分悩んだ後、私はすばやく決断した。
こうなったならばとことんこやつに付き合うしかあるまい。とことん調べることこそ学問の道。
そうして私は単位をぽろぽろ落としていた情報学部から一転、社会学部へと移ったのである。
引用終わり。
皆さんもおわかりのごとくケセランパサランは腐っても妖怪。いや、かわいくても妖怪。ん?怪しくも妖怪なのである。
妖怪にはそれぞれ能力がある。ビックフットはいささか残念なことにその能力は大きな足でいろんなものを踏みつぶせるという、葡萄酒づくりにもってこいの技しか持ち合わせていない訳だが、このケセランパサラン。なかなかのやり手で個体によりベクトルは異なるが、捕まえた人間の人生を変えてしまうという特殊能力をもっている。
そもそもふわふわぷわぷわと自由気ままに生きていた彼らを何の考えもなしに捕まえてしまうという人間が悪いのであるが、捕まえたくなる気持ち。十分に理解されてしかるべきものであろう。
そしてケセランパサランの能力により人生を一変させられた人間は数あまた。かの有名な竜馬もその一人だったとか違うとか。まぁ、ケセランパサランは自分の身を隠す能力にも優れており、実のところ人間の数よりも多いのではないかと、その道の人が考えているぐらいであるから、歴史上の人物がそのうちの一人だったとしても、なんら疑問はない。
そして引用した手記の彼はである。
彼はケセランパサランの能力により、その後、自身の人生を全てケセランパサラン研究についやすこととなるのだ。
それは実に苦しく、実にみのりのない研究生活であった。幸せが訪れるならば、一世一代のモテ期がくるのではと、淡い期待を頭の隅に隠し持っていたにも関わらず、彼のパートナーは常に耳の中に飛び込んできたケセランパサラン一匹であった。おそらく明治時代、ケセランパサラン撲滅をもくろんだ秘密結社はこの能力を知っていたものと見える。それゆえ良いケセでも悪いパサでも闇雲におしろい地獄で消してしまおうと考えたのであろう。
そうして大学を卒業し、某企業であくせくと営業周りに走る合間に、ケセランパサラン研究を続けた彼は今年で三十を迎えた。世に言うミソジである。まさか、自分にもミソジなんぞという味噌と痔をくっつけたようなものが来ようとは思ってもみなかった。彼は一人寂しくシルクのハンカチの上でふてくされたように転がっているケセランパサランを見ながら、コンビニケーキに突き刺したひょろ長いろうそくの火を消すのであった。
もうまどろっこしい話し方はよそう。
いくら言葉を重ねたところでこの眼前にある事実は変わらず、すてきな奥さんは妄想の中にしか存在しないのだ。ならば、現実を直視するべきであって、こんなふうに『彼は寂しく』などと自分をかばうべきではない。現実は目の前にある、この火の消えたみすぼらしいろうそくなのだ。
私は花の大学生時代にテクノロジーに敗北し、ケセランパサランと共にふわふわとミソジを迎えた。
悲しいかな、この我が家も独身寮というのは名ばかり、そろそろ出ていってくれと担当者に催促され、新天地を求めなければならない。一人で暮らす家を探すほど、悲しいことはあろうか。
とまぁ、私の住まいの話などはどうでもよく、最近この長年連れ添ってきたケセランパサランがどうも体調が悪いようなのだ。ケセランパサランの寿命がいかほどか、この十年の研究でも解明できずにおり、なぜならケセランパサランの先人の研究資料が彼らを撲滅することに終始しているからであって、しかし、生かすも殺すも、寿命というものは知っておいた方がいいと私は思うのではあるが、つまりが、私のケセランパサランは寿命で体調不良に落ちって入るのか、ただ何か不具合が生じているのかわからずに私は、ネット上のケセランパサラン愛好会のホームページに載っていた、嘘か本当かもわからないような適当な流言に流され、こうしてシルクの上で寝かしているのである。
こんなふわふわした妖怪であっても十年も連れ添えば愛着というものが沸き、高い金をはたいて効果があるのかないのかもわからないようなシルクのハンカチをわざわざ阪神百貨店にて購入してきたのだ。ありがたく思え、ケセランパサラン。
だが、シルクを購入してこうやって寝かせて五日。何の変化も見られず、それどころか日増しにその行動範囲は狭くなり、今日などは五センチ程、数回ぷわぷわ浮いていたぐらい。いつもは部屋中をびゅんびゅん飛び回り、よせというのに、その結果私の耳や鼻の穴に飛び込んでしまうのだ。
迷惑な話ではあるが、こう元気がないのも心配で困る。
私はろうそくをケーキから抜き、その埋まっていたさきっちょをケセランパサランに向ける。
「食うか?」
ケセランパサランはふるふると首を振り、さきっちょについた生クリームからよわよわしく遠ざかる。私は仕方なくケセパサの食べなかったさきっちょを嘗め、ケーキを食べる。コンビニケーキの生クリームはぱさぱさしていていけない。生クリームはもっとなめらかであるべきだ。
ところで昨日怪しげな手紙がポストに投函されていた。手紙なんぞ年賀状と年金のお知らせ、DM以外にはめったにお目にかかれず、その送り手の名前のないクリーム色をした封筒に一瞬華やかな妄想が頭から飛び散る。実はこれは密かに私に思いを寄せる、女子寮の某社員が何かのゆえあって告白することはできない。だがしかしこの思いだけは伝えておきたいと、密かにその心の内をつづり、我が住所へ、しずしず投函したのではあるまいかと。
しかしそんなことはただの妄想。重々承知。会社における女性社員との接触は朝のあいさつ以外になく、営業部は上司も部下も男の巣窟。時代遅れだと思うが、志願する人もいないのだから仕方がない。ましてや、社外での女性との接触といえば、二日前に、ぼけっと歩いていて女性にぶつかり、危うく転かしてしまうところだったというだけ。あれはほんとに申し訳なかったなぁ。大変急いでいるご様子だった。そして、怒るどころか、どことなく自分が悪いのだというように顔を伏せ、あやまってあたふたと逃げるように去っていったあの人はどことなく、初恋のあの人を彷彿させる。
まぁ、妄想はどうでもよろしく、現実的に考えてみれば怪しげな封筒。どこのおっちょこちょいが差出人の名前を書き忘れるだろうか。これが故意に書かれていないとすれば、一時期流行った不幸のメールというやつであろうか。それなら今時電子メールですればよいものを。わざわざ八十円を払ってまで人を不幸な気分にさせることもない。では、脅迫状的なものであろうか。
そんな詮索はともかく、目の前にある封筒をびりびりっと開封する。まさか、中にカミソリが入っているなどとは思わなかった。そして事実カミソリなどは入っていなかった。中には、薄い貧相な便せんが一枚ぺろり。開いて読めば、どこのどいつの血迷いごとか。
要約するのも面倒なので、以下に引用しておこう。
突然のお手紙失礼いたします。あなたもご存じではいらっしゃるかと思いますが、我々はケセランパサラン撲滅に日夜尽力しています、とある組織のものでございます。我々がこのようなお手紙を送りました理由はただ一つ。あなたももう察しがついていらっしゃるでしょが、われわれはあなたがケセランパサランを匿われていることを突き止めました。その上、ケセランパサランが良いものであると、ネット上で誤った情報を流布されている。このような社会を滅ぼすようなまねごとはやめていただきたい。あなたが軽い遊びでなさっているならば、一週間内にブログをやめ、ケセランパサランを抹殺すること。さもなくば、我々と徹底抗戦の意ありと見なし、あなたをケセランパサランと共に滅ぼすべき対象と捕らえますので、なにとぞご理解いただきますよう。また、不審な人物の接触には十分に気をつけられたし。
ケセランパサランを撲滅せんとする輩がいることは知っていたが、それが組織立っていたなど、ご存じであるわけがない。こんなものはどうせいたずらであろうと、たかをくくってみたが、くくったたかはみごと数秒でほどけ、慎重な私はとりあえず今日の昼、ブログの方は未公開設定へときりかえておいた。しかしケセパサを抹殺とはいかん。そもそも生きているか、いないのかもわからないようなこんなふよふよしたやつをわざわざ殺すまでもあるまい。と思ってはみたが不安は募り、ついうっかりネットでケセパサ撲滅の一派なるものの情報を漁っていた。
3チャン。
ネット上の無法地帯、裏の裏サイト、暴言豪語の吹き溜まり。そこには撲滅の会により、不当にも一生の伴侶であるケセランパサランを殺されたというなんとも悲壮な文章がつづられていた。また撲滅の会とみられるものの発言には、『ケセランパサランは我ら人類の敵。人間の道をねじ曲げ、ケセランパサランを中心とする妖怪の世界をこの地上に作ろうと暗躍しているあやつらを、今こそ我らは勇気をしぼり戦わねばならぬ』と。そして細々とした情報を拾い読むうち、漠然とした彼らのイメージが浮かび上がってきた。要するに、最近増えつつあるケセランパサランと、そのケセパサにより人道を踏み外す人間の増加を危惧し、焦りを感じ、やっきになっているのだ。
それはまぁいいとしよう。しかし気になるのは手紙の「あなたをケセランパサランと共に滅ぼすべき対象と捉えます」だ。何か凶器じみたものを感じる。それはまるで大人が子供のおもちゃを血眼になって奪い取るような危うい精神。
私は目の前で弱っているケセランパサランを眺めた。そして心にふと甘い逃避思考がきらきらと輝く。ほっておいてもこれだけ弱っていれば、一週間以内には死んでしまうのではないだろうか。そうなれば私が手を下すこともなく、彼らに襲われることもない。しかしいかん、いかんと、暴走する思考を止め、私はケセパサを寝床の竹籠へと、そっとうつしてやった。ケセパサはふよふよと細い毛をふるわせ、どうやら眠っているようである。
こいつがいなくなったら私は一人で暮らさねばならない。どこぞの美人が共に暮らしてくれるという条件と引き替えならまだしも、こいつを手放したとて、私になんの益があろうか。屈っすべからず。
そうして私は昨日に引き続き不快な夢に汗を浮かべた。
ことが起こったのは次の日の夜である。いっこう体調の回復しないケセパサとケセパサを抹殺せよという手紙に不安を覚えつつも、行動を起こすことをきらい、そのまま夜を迎え冷たい布団に潜り込んだ。そうして、やっと覚醒からうつらうつら、意識が朦朧とし始めた時分、パンポンと間の抜けた玄関のベルが意識を再び現実の世界へと引き戻した。時計を見れば十一時二十分。泥棒がわざわざチャイムを鳴らすはずもなく、いくらセールスが迷惑であろうとこんな常識はずれな時間に訪れるわけもなく、まして夜に突然訪れるような知人がいるわけもない。ぼんやりとした意識で玄関へ向かう途中、フラッシュのように貫いた予感に空気が一気に冷えた。これはもしやすると、ずっと懸念していたケセランパサラン撲滅会の一派が脅しにあった期限もそこそこに、ケセパサと私を抹殺しにきたのではあるまいか。
いつもは人を信じることにかけてはぴかいちで、冗談も意地悪も全て真に受けた結果、いじめっ子にすら相手にされなかった程のピュアな心根の私も、さすがに油断しなかった。何しろ命に関わるのだ。そうたやすく人を信用していたのでは、命がひとつの私はいちころだ。
そうしてまずは静かに毛をふるわせて眠るケセパサを食器棚のマグカップの中にそっと隠し、インターホンのスイッチを押した。黒いモニターがパチリとついて、荒い画像に人が浮かび上がる。なぜだかひどく大きな茶色い皮鞄を肩に掛け、ダウンコートに黒いズボン。つば付きの帽子をかぶっているせいで判断はしずらいが、おそらく女性であろう。その人はじっと立ち、再びチャイムを鳴らそうと腕をのばす。いったい何者なのか。何が賢明な判断かはわからないが、私は通話ボタンを押した。
「どちらさまですか」
モニターの中、濃い緑の帽子のつばがぐいと近づき、インターホンを通した無機質なざらざらとした声が届く。
「わたくし、ケセランパサラン愛好会のもので三谷と申します。本日は夜遅くにご無礼かと思いましたが、なにぶん急用で、こちらの都合もあり、このような時間になってしまいました。けっして怪しいものではありませんし、あなたに危害を加えるつもりはありません。よろしければ中に入れていただけませんでしょうか」
女性はすいと姿勢を戻し、こちらの応答を待つ。
待たれても困る。よろしければ中に入れろと、よろしいわけがなかろう。こちらは整えていない髪の毛が悲しいぐらいぺったんこで、白黒のしましまパジャマで、部屋は性格上さほど散らかってはいないが、少々女性の目をはばかるものもある。いや、問題はそこではなく、こんな女性が怪しいものでないわけがない。ケセパサ愛好会と名乗ったがやはり、撲滅会が偽っているのかもしれない。モニターを見たとき女性だったため一瞬気がゆるみかけたが、あのダウンの下にものすごい筋肉が隠されているのかもしれないし、あのこれ見よがしのでかい鞄にはスタンガンとか手斧とか銃とかが入っているのかもしれない。とにかくだ。日頃営業で精神力と体力は身についてはいるが、それは戦闘用ではない。非戦闘用だ。ふと私は相手が暴力的手段に訴えてくる可能性に思い至り、いそいで何か武器をと、あたりをきょろきょろ見回し、近くにおいてあった掃除機をとりあえず手に持ってみた。しっくりくる。長さもある。コンセントを入れれば強力に吸い込むこともできる。しかし、これで何から何を守れるというのか。モニターの女性がゆらりと揺れた。私は慌てて台所へ包丁を取りに行こうと足を踏み出す。そして、踏み出した足の小指が見事、机の足に当たる。
インターフォンから声がした。ひやりとする。
「中に入れてくれる気はないのですね。ならば仕方ありません」
最終手段にでるまでです。と彼女は続けるのかと思ったが、はぁ、と妙に艶っぽいため息が聞こえて、あの大きな鞄をごそごそと探る。
「ほんとうに急用なのですが、あなたが信用してくださらないのであればもともこもありませんので」
なんだか、自分がだだっこのように扱われている気がする。理不尽だ。インターフォンに向かってそう叫びたかったが、私は深夜のこと。静かに心の内だけでつぶやく。
女性は鞄からB五程の紙を出し、丁寧に四つに折り畳んだ。
「明日、この紙に書いてある時間と場所でお待ちしております。来るも来ないもあなた一人の問題です。あなたが来なかったところで私は問題ありませんが、おそらくあなたが後悔することになるでしょう」
詳細がわからないことが一番の脅しであり、不安要素であると、モニターの人間を睨みながら考えた。だからこそこの不安に屈してはならない。
女性は折った紙をカタンとポストに落とし込むと、何の迷いもなくさっさとモニターの中から消えてしまった。廊下をあるくカツカツという足音が遠ざかっていく。
気づけば背中がうっすら濡れて冷たい。なんだかここ数日心臓に悪いことばかり起こるなぁと、床に転がった掃除機を元の場所に戻し、ふと思いついて、掃除機の筒の部分から本体と先端の吸い込み口を外し、筒だけになった、そのちょうどいい長さのパイプを抱えたまま、布団の中に潜り込んだ。
のどもと過ぎれば熱さ忘れるとまでは言えないものの、布団の中は心地よく、もう、なるようになれという大きな心持ちになる。この抱えているパイプが鉄パイプだったらもう少し武器として役立ちそうなものだが、冬場に抱いて寝るにはプラスチックパイプの方が冷たくなくてよい。なんぞ考えているといつの間にやら寝てしまった。私もずいぶん神経が太くなったものである。小学校の頃はちょっと不幸の手紙が、文具箱の中に入れられていたぐらいで夜も眠れなかったというに。そういえば文具箱の中にはずっと渡そうとラブレターを入れていたが、いったいあれは誰に渡そうと思っていたのだろう。そしてあれはどこにいったのだろう。
朝、万年開けっ放しのカーテンから差し込んでくる霞んだ冬の光に目が覚めると、目の前に灰色の掃除機のパイプがあってやや驚いた。しかも少し生ゴミ臭い。なんだか昨日の出来事が全て夢だったようにも思うが、もし夢なら掃除機パイプを抱えて寝ている自分は夢遊病者ということになってしまうから、きっと真実なんだろうと、パイプを部屋の隅に転がして、少し早い目覚めにのんびり伸びをした。
窓の外に張り巡らされた無数の配線を見ていると、もう何もかもどうでもいい気がしてきた。撲滅会からの手紙だって、なんだか子供じみた脅しのようだし、昨日の訪問者だって結局すんなり帰っていった。ケセパサの元気のなさは気になるけれど、妖怪がそんなに貧弱なものとも思えない。会社で営業成績が悪いのだって、まぁ、いろいろ要因はあるけれど、どこ吹く風でいいじゃないかと思うと、数年ぶりに晴れやかな気持ちになった。引用に引用を重ねた卒業論文を提出し終わった後のような。ねちっこい言葉でいつも部下をなじっていた、あの亀おやじが会社を定年退職した時のような。母親から電話で、もうあなたには結婚の当てはないのね、とあきらめられた時のような。そんな晴れやかな気持ちが。あぁ。
そんな気分も数秒。
ぼうっとしていればすぐ時間が過ぎて、会社に遅れてしまうことになる。私は重くなった腰を上げ、台所に向かった。台所はいつもとまったく変わりなく、自分以外の人間がこの空間に入っていないことは明白。私は食器棚を開け、マグカップを出し、昨日匿っておいたケセパサを確認する。一瞬、もしかしたらマグカップの中、ケセパサは死んでしまったのではないだろうかという恐怖に襲われたが、なんのことはない。マグカップの中にはふよふよした白い毛玉が毛を波打たせていた。とても元気そうだ。そして、とても、大き過ぎはしないか?
マグカップの中に詰まったケセパサは急に洗濯機みたいに、勢い良く回転し始め、その勢いのまま、ぽこーんとカップから飛び出した。
ぽこーんと飛び出したのを目で追って唖然とする。
飛び出したそれは二つに分かれ、部屋の中を縦横無尽に飛び交い始めた。白い毛玉が激しく飛びまわる。なんだか身の危険を感じ、私は両耳を塞いだ。両方に入ってしまったら、どうすればいいんだ。左足でとんとんと跳ねれば、右耳がさらに詰まってしまうではないか。今日帰りに耳栓を買ってこよう。そう決めて、とりあえずのところ部屋を飛び交うケセパサは無視して、ニット帽を耳までかぶり、食パンをトースターに放り込んで、目玉焼きを焼き、食事の準備をした。
白濁する手前、ちょうど良い頃合いの目玉焼きを皿にあげ、こんがり焼けたトーストと一緒に机に並べると、さっきまで飛びまわっていたケセパサが元気だった頃のように、すっと食事に舞い降りてくる。なんだか大きな雪の固まりが降ってくるようで、このケセパサの動きが好きだったが、妙な気分だ。左右からふよふよと降りてきて、皿の上にのっかればまるで雪だるま。目玉焼きの上で二匹が、青虫が葉っぱを食べるときのようにもぞもぞと動き回り、たまにふと止まってこちらの様子を見、また食べ続ける。その間、私はカリカリと食パンをほおばり、特製のミルクティーを飲みながら二匹に増えたケセランパサランの様子を観察する。
ケセパサの食事は仏壇のお供えもののようだ。
きっと彼らは目に見えない何かを食べているのだろうが、目玉焼きの形は一向、損なわれない。丸くて黄色くてきれいなまま。ただ、ケセパサが這いずり回っているうちに、せっかくの目玉焼きが冷めてしまうのは残念だが、何も消費することのない彼らの食費を考えるならば、安いもの。
しかしそれにしてもケセパサが二匹というのはいかがなものか。別に今言ったように食費もかからなければ、こんな小さなものが一つ増えたからといって居住スペースが小さくなるわけでもない。しかし、いささか二匹いると、区別をしなくてはいけないように思う。区別したからといって便利になるわけではないが、分かれた以上、同一のものとして見なすことはできない。
私は水性の害が無さそうなペンを持ってきて、未だわさわさと食べ続ける二匹にペン先を近づける。そこらに転がっていたペンのため、色は仕方がないだろう。
真っ白な毛のほんの一部に少しだけ、ペンで着色する。一方は紫。一方は黒。名前はこのまま紫と黒でかまわないだろう。一瞬、ケセとパサにしようかと思ったが、万が一、また分裂されたりしたら、ケとセとパとサにしなければならない。至極面倒。
ケセパサはナニカを食べ尽くしたのか、満足したのか、ふわふわと目玉焼きから離れ、棚の上の、私が着ようと思って置いておいた毛糸のベストの上に二匹仲良く着地した。気に入ったのかそのまま動かず、彼らの残した目玉焼きを食べる私をじっと見ている。これでは今日は別のベストを着るしかなかろう。
ところでケセランパサランの語源をご存じであろうか。諸説あるらしいが一番有力なものが『何がなんだかさっぱりわからん』という意味の方言らしいのだ。ほんとうに、どうして二匹になったのか。二匹になったということは撲滅会からの敵意も二倍になるということか。と一瞬忘れていたはずのことを思いだし、ケセパサが元気になったことへの安堵感も一転。ブルーになる。しかし一方でケセランパサランの語源は、スペイン語の『ケセラセラ』だという説もあるのだ。『ケセラセラ』、なるようになれである。いや。なるようになるさ!
そう言い聞かせ、気合いを入れて食事をすませて、しましまパジャマからカッターシャツに着替えた。ベストがケセパサに奪われてしまったため、カッターシャツだけでもお気に入りのものにする。一昨年の冬、少し奮発して買った青と白の縦しましま、やや硬めの生地。某コンビニの制服、あるいは某宅配便の制服と同じだと姉には指摘されたが、良いものは誰もが取り入れたがるというものだ。
ケセパサは二人仲良くふよふよと寝入ってしまったようで、一応、撲滅会対策として二人の上にハンカチを被せておいてやる。しかし準備万端整った後、再び見れば紫が体半分はみ出していた。黒の隣に戻しハンカチを掛けなおしてやるが大丈夫であろうか。まぁ、危機感を感じたなら元気になったことだし、自分でなんとか隠れるだろうと思い切り、私は家を出た。
そのまま会社に向かうつもりであったが、つい日頃の癖でポストの中に手が伸びていた。そしてガサリとした手応えを感じ、安売りのチラシかと思えば昨日の出来事。すっかり忘れていたが、深夜の女性はすんなり帰る前にメモを残し、私にどこかへ来るようにと命じていた。げっそりである。
メモには女性らしい端正な文字が黒インクで書き付けられていた。
『突然の訪問、失礼いたしました。昼一時、カフェ・サンライズでお待ちしております』
アパートの外階段を下り、会社へと歩き始めるが足が重い。彼女はいったい私のことをどこまで調査済みなのか。
昼一時と言えば、ちょうど仕事の昼休憩であるし、カフェ・サンライズと言えば看板の文字が酷く薄れ、読解困難となっている、地域密着型の喫茶店であり、会社から近くいつも程良く空いているため、私がよく昼ご飯に利用するお店。
彼女ももしかしたらあそこの常連で私の顔を見知っていたのかもしれない。などと、気休めを考え、それにしたって名前を覚えられるほどの由縁はなかったろうと怪しむ。メモ用紙は捨てるに捨てられず、どこからか見張られているのではと思うと、体がかちこちしてしまう。今更になって家に残してきたケセランパサランたちが気になる。
そんな不安を抱えたままで、仕事はどうもはかどらなかった。営業に行った先では資料の一つをうっかり忘れてきてしまい、幸いお客さんが気のいい奥さんだったからまだよかったものの、上司には怒られるを通り越して呆れられた。
いいさ、いいさ。ケアレスミスは今に始まったことじゃない。中学生の頃から、うっかり、でどれだけ損をしてきたか。と思ってみるがそれにしても今日は酷すぎる。十一時を回った時点ですでに三度もやらかしていた。
これはもう昨日の女性が呪いをかけたに違いないのだ。意気消沈、お茶でも飲んで気分転換しようと給湯室に行くと先客がいた。事務の戸崎さんである。
彼女は私より二年あとで入ってきた後輩であるが、私は彼女に頭が上がらない。なぜなら私が事務書類でミスをするたび、笑顔ひとつくずさずに上司にフォローを入れてくれるからだ。太っているという訳ではないが、ぽってりと丸い体型はつい頼りたくなってしまう。しかし、いつも疑ってしまうのだ。あの笑顔の裏、心の中で私は大層けなされているのではないかと。
そんな彼女が私を見て、ぽってりと微笑み「おつかれさまです」と言う。その後くすっと笑う。イヤな笑いではないが、なぜ笑われたのかわからない。
「木津さん、コーヒー飲まれます?」
彼女は濃い紫のスカートをひろひろさせて食器だなに近づき、私専用、ヒヨコの絵柄のマイマグカップに手を伸ばす。
「いや、わるいよ。自分でいれるから気にしないで」
「ついでなんで。いやでなければ入れさせてください」
私は「でわ」と頭を下げ、彼女が二人分のコーヒーを用意する様子を手持ちぶさたに眺めてみるが、頭の中では独り言がとまらない。
本来ならば私が彼女の分のコーヒーも入れるぐらいして当たり前なのだ。いつも迷惑ばかりかけ、その上バレンタインには義理でチョコまでくれる。なのにお返しはいつもクッキーだとかケーキだとか。ちょっとは気の利いたものを送りたいが、あまり大層なものを贈っても返って引かれそうな気がしてしまうし、自分のセンスに自信はない。もっと仕事のできるかっこいいところを見せられたなら、彼女ともっと堂々と話すこともできるのにと、それではまるで自分が彼女のことを好いているようではないかと思い至り、慌てて思考を中断する。
彼女のことを好きになる謂われはないし、好きになったとて迷惑なだけであろうと、ぐだぐだ考えていると、仕事の速い彼女はすでに二人分のコーヒーを入れ終わり「どうぞ」とマイマグカップを私の前に差し出していた。
ありがとうと言って、成り行き上、仕方ないから彼女と二人給湯室のベンチに腰掛ける。コーヒーをふぅふぅと冷ますとメガネが曇って仕方ない。なんだかそれが恥ずかしくて私はなるべくメガネが曇らないよう、カップから顔を離して息を吹きかける。そんな私に彼女が急に「また何かあったんですか?」と話しかけてきた。
不適な笑みを浮かべる彼女に「なぜ」と問えば、先程ブルーな顔でため息をついていたからと。『また』とは失礼だと思うが事実だから否めない。
しかしさっき思考をくゆらせ、ため息をついていたのは当の彼女のこと。さすがにそれは言えなくて、私は本来悩んでいるはずのことを軽く彼女に話した。
「いや、少し気がかりなことがあって、午前中から失敗ばかりしてしまって。ほんとに。でもそろそろ決断しなくちゃいけないんだ。でも信じてよいものかわからないくて。というかそもそも自分がいったい何に巻き込まれているのかも、どうしてこんなことになったのかもよくわからない。もういっそのこと全部投げ出してもかまわないんだが、気になってミスばかりしてしまう。それじゃ困るし、どうすればいいのかと」
彼女はコーヒーの熱を確かめるように、何度もカップを持ち直しながら静かに私の言葉に耳を傾けていた。そして、困ったように、しかし笑う。
「気になるなら、行動するしかないんじゃないですか?優先すべきはなんですか?大切にしたいものは?」
彼女の目はこちらに向いていないのに、意志だけがまっすぐ突き刺さってくる。
君、そんな簡単に言わないでくれ。もしかしたら危険なことに巻き込まれるのかもしれないし、ほんとにくだらないことかもしれない。
しかし、大切にしたいものはと問われれば、十年来ずっとともに過ごしてきたケセランパサラン。可能性ばかり考えても現実は一向わからない。くだらないことであればそれでかまわないし、危険なことなら、なるようになれだ。
「そうだね。ありがとう。行動してみようかな」
と、彼女に言ってはみたものの、生まれてこのかたの優柔不断な性格が他人の言葉一つで変わるわけはなく、彼女と別れた瞬間、不思議なもので、やはり昨夜の女性に会うことはやめておいた方がよいのではと思えてきた。
結局昼休みに入るぎりぎりまで、ふぃふてぃーふぃふてぃーで気持ちは揺れていが十二時五十九分。進まぬ仕事に見切りを付け、強力磁石を引きはがすように、腰をイスから引きはがした。そして近くのコンビニで昼ご飯を適当に見繕うか、サンライズで昼食をとるか。と頭の中で何度もぐるぐる回しながら会社を出る。自分でもわかっているが、考えているようで全く思考は止まったまま。そしてなんとなく、この前ラジオCMでやっていたドラマコラボ企画のハンバーグ弁当が無性に食べたくなってくる。コンビニに行くか、サンライズに行くかという選択は途中から、ドラマコラボかドラマのような非日常かという選択に変わってくる。
気づけばすでにコンビニとサンライズへの分かれ道。信号のある十字路に来ていた。サンライズへ続く歩行者信号の緑ランプがちかちかと点滅している。あともう二、三回ちかちかすれば赤色に変わってしまう。
最近老化が始まったのか考えることが至極おっくうになっていて、そのためだろう。体は思考の鈍さにしびれを切らし、すでに小走りに横断歩道を渡っていた。目の前にはサンライズへの道だけが続く。
やはり信号がもう一度変わるのを待って、コンビニに行くべきだろうかと私は歩きながら考える。歩きながら考えるものだから、当然一歩一歩サンライズへと近づき、やはり戻るべきだろうか、があきらめに変わっていく。こんなことばかりしているから決断力がないと言われるのだが、決断をしようがしまいが現実はもうすでに選択を終えている。
「いらっしゃいませ〜」
カランコロンと軽やかなベルの音を鳴らし、ひどい仏頂面であろう私がカフェ・サンライズの扉を開けていた。いつも通りばっちりパーマのおばちゃんが、顔見知りの人間に向ける親しみある笑顔を向けてくる。これから敵かもしれない人間に会うのだから、そんな気分ではないのだが、つい条件反射的ににこりと笑ってしまう。
入って正面、葡萄の彫りが入った古風なフレームの時計は一時五分を指していた。もうあの女性は来ているのだろうか。呼び出した側なのだから遅れるわけがないだろうと辺りを見回すが、それらしき人物は五つあるテーブルのうち、いづれにも見あたらない。そもそもインターフォンのブレた映像越しで、しかも帽子をかぶった状態だったため、彼女を判別することができるかもわからなかったが、店にいるのはおばちゃんと、男性のみ。おそらく彼女はこの場にいない。
なんだ、なんなんだ。あれは単なる手間のかかったイタズラだったのか。そんなものに私は杞憂していたのか。と怒りがゆっくりこみ上げてきたところに、いつもの従業員の女性が机の間を縫うようにすいすいとこちらへ近づいてきた。
怒りはいったん保留にして、とりあえずは腹を満たすこととしよう。
「オムライス一つ」
「木津さんですね」
声が重なったことに驚き、口を閉ざせば、目の前の紺色エプロンをつけた従業員は赤い唇をきりりと結ぶ。
「お待ちしておりました。改めまして、わたくし三谷と申します」
なぜ待たれていたのか、なぜ従業員に名乗られねばならぬのか、困惑しながらも、下げられた頭につい応じてしまう。しかし何かがひっかかり、彼女の次の言葉で合点がいった。
「昨夜は急に訪ねてしまい失礼いたしました」
確かにモニターに映っていた女性も彼女同様、真っ黒な髪を一つに束ね、三谷と名乗っていたような気がする。自称三谷は「あっ、オムライスですよね。こちらに座って少々お待ちください」と、店員としての顔に戻り、店の奥に入っていってしまった。
腹が減っているせいか、もうどうにも考えることが面倒で私は言われるままイスに座って、礼儀正しい客として、オムライスがやってくるのを待つ。
さっきの娘はまだ二十代だろうか。若くてそこそこの美人であった。あんな娘が昨日の晩に私の家を訪ねて来たのかと思い返すと、どうにも解せない。あれはただの変人なのか、あるいは映画なんかでヒーロー役をつとめるヒロインのようにすごい人なのか。いずれにしてもオムライスを食べないことには何も始まらないだろうと、やはり静かに、思考をストップして待つことにした。
運ばれてきたオムライスは彼女が運んできたからといって、いつもと一向変わることはなく、ぷりぷりとした分厚い卵に真っ赤なケチャップが美しくかかっている。目の前のオムライスから漂う匂いに、気持ちがとろりとほぐれ、もう今なら何でも受け入れられそうな、どんな現実でも笑顔のままやり過ごせそうな気がした。彼女が私と同じく、オムライスを目の前にして向かいに座っていることも、今のこの状況の中においてはどうでもよいこと。
彼女は水やスプーンのセッティングをすませると、カウンターの奥に向かって「奥さん。休憩入ります」と誰はばかることなく、大きな声で叫ぶ。おばちゃんもおばちゃんで、「はいよ」と大きな声で応じる。
「では」
私か彼女か。どちらがそう言ったのかわからないが、知らない相手を目の前に、もくもくとオムライスをスプーンでほうばった。
しばし沈黙。
こんな状況でうれしくもない話だが、他人とご飯を食べたのは何ヶ月ぶりだろう。朝、晩は妖怪ならいるものの、いわんや一人。昼はいつもサンライズかコンビニでちょちょいとすませてしまう。酷いときなんか、営業の出先にて公園のベンチで、パンを口に押し込んだりする毎日。
食べながらたまに視界に入ってくる彼女は、従業員用のエプロンを身につけたままで、つやつやとした化粧っけの無いほっぺたは、飲み込むより先に新しい一口を投入するせいで、やけにぷっくりと膨らんでゲッシモクのようにも見える。
他人と食事をすると急に仲良くなってしまうというのは本当なのだろうか。最後の一口をきれいに食べ終わる頃には、なんだか警戒心がさっぱりなくなっていた。欲求が満たされた腹はまるまると心地が良い。
「ごちそうさまです」
少し遅れて完食した彼女が丁寧に両手のひらを合わせた。
「さてそれでは、おなかもいっぱいになりましたところで、昨晩お伺いした事由を簡潔に述べましょう。あなたが匿っていらっしゃるケセランパサランを渡してほしいのです」
前言撤回。
やはり食事をして仲が良くなるというのは錯覚であり、彼女がどういう立場にあるのかはわからないが、今発せられた一言で彼女は私の敵であると確定した。
簡潔すぎる。そして不愛想すぎる。
「あなたは愛好会なのでしょう?なぜ私からケセランパサランを奪う。奪ってどうしようという。そもそも撲滅会だとか、愛好会だとか、いったいなんだっていうんです。愛好会であるなら、ケセランパサランを愛好している私をほっておいてはくれませんか」
私はここ数日の原因不明のいらいらをまとめて彼女にぶつけていた。しかし、彼女は黒く整った眉をぴくりと動かすだけで、もしや私をバカにしているのか。もっと非難してやろうと思ったが、やはり早急に怒りをぶつけてしまった私が間違っていたのではと、怒りのしゃぼんはぱちんと弾ける。
下手にでるべし。
「ともかく、もう少し詳しく説明していただけませんか。まったく何が何やらさっぱりなのです。二時までは大丈夫ですし、そちらがよろしければ、七時からでも、明日の昼でも出向きますので」
目の前の女性は表情一つ崩さず、私を評価するようにじっと見つめ、一つ頷く。
「そうですね。あなたは何もわかっていらっしゃらないごようす。まずは根本的な部分から説明せねばなりません」
そうだ。そのとおりだよ君。という心の声に反して、私の頭部は、「すみません。お願いします」とへこへこ動く。
「まず、あなたが先程お聞きになった、撲滅会、愛好会についてですが。いずれもくだらないものです」
彼女はその一言で私の今までの不安をばっさり切り捨てた。その上「撲滅会なんてのはどこかの誰かのただの道楽です」と宣う。
それでは心底振り回されてきた私は何だというのだ。そのまま聞き流すことができず「しかし撲滅会からケセランパサランを始末しろ。さもなくば敵と見なすと脅迫状が来たのですよ」と早口に申し立てると、彼女はぴくりと眉をひそめる。ようやっと私の身を哀れんでくるたのかと思いきや。
「そんな紙切れ一枚で、信じたんですか?」
と私をバカにしているもよう。バカはバカなりに苦しんでいるのだから、そんなあからさまに見下さないでほしいと思う。小さなホコリが、「まさか。少し気になっただけですよ」と口を開けさせるが、そこから発せられる言葉はひたすら肯定。もう三十路の男が言っちゃなんだが、不安を打ち負かすものは確かな現実だけだ。
「おかわいそうに」
何に対する哀れみなのだ。
彼女は店のロゴの入った紙布巾を一枚手に取り、破いたり折ったりしながら、めんどくさそうに早口で説明する。
「撲滅会ですが、ほんとにあれはたいしたことはありません。うわさによると、どこかの大学の教授がケセランパサランに恨みを持っていて、撲滅せよ、と使える手ゴマを動かしているにすぎないそうです。ただそのやり方が少し手荒で、世間知らずな学生に不法侵入をさせているとかそのぐらいです。あなたの身が危険になることはないでしょう」
しかし、それではケセランパサランが危険にさらされることは有りうるのではないか。というか不法侵入は十分、危険だろう。
「そして、愛好会ですが。愛好会には溺愛派と共存派と二つありまして。あぁ、溺愛派ってのは共存派がつけたネーミングなんですけど。名前の通り彼らはただ溺愛してるだけなんです。好きだ好きだと言って何にも考えていない。だから有る意味こっちの方が危険ですよ。そして私が所属している愛好会共存派ですが、名前の通り共存することが目的です。すべてはバランスが大切なんです。ケセランパサランが減少した場合、どうなるかわかりませんし、逆も同じです。わからない以上リスクは避けるべきです。私たちのポリシーは触らぬ神に祟りなし。妖怪なんぞ見るだけにしておけばよいのです。妖怪によっては見るだけでも祟りが有る場合もあるかもしれませんが、ケセランパサランにいたってはない。あいつらはかわいいものです」
長々としゃべったが結局のところ彼女も愛好会なようで、『かわいいものです』と言った時、顔からケセランパサランへの思いがにわかに滲みだしていた。客観的に見ると少し気持ち悪いが、その気持ちはよくわかる。
彼女の手元にはさっきまで平らな紙布巾だったものが立体的な丸い固まりに変わっていた。ただ丸めたというのではなく、なんだかとげとげと緻密に折り込まれており、彼女の指の器用さが伺える。おそらくケセランパサランを作ったつもりなのだろう。彼女はきれいに丸く切った爪先っちょでつんつんとそれを転がした。
こうやって遊んでいる仕草だけならかわいいものを。
ふと腕時計に目をやると、針は二時三分を示していた。おっといけない。早く仕事場に戻らねば、小熊課長に怒られてしまう。
「そこでなぜ愛好会の私がなぜあなたに接触しなければならなかったか・・・」
彼女は少し演説がかった口調で重要らしいことを言おうとし始めたが、形の無い不安より、目の前の不安。
小熊課長は怒ると机を拳でどんどんと叩き続けながら、お経のように抑揚のない説教をする。遅刻すれば我に非有り。言い逃れはできまい。
「すみませんが、続きはまた後でお願いします。もう会社に戻らなければいけませんので」
イスから立つと思いのほか、ガタタと大きな音が出てしまい、挙動不審になる私に、目の前に座る女性は正露丸を口に含んだ時みたいに顔を歪めこちらを見る。
私みたいなむさ苦しい男に何度も会わねばならないのが苦痛なのはわかるが、今は会社に戻る時。そしてケセランパサランのことももう少し聞かねばならないのも事実。
慌ててお勘定を払いに行く私に、これ見よがしに大きなため息がふりかかり、さっきの表情はどこへやら感情の無い声が背中を追う。
「では、七時にもう一度この店に来てください」
返って怖い。
オムライスの勘定をしながらおばちゃんは何をどう勘違いしたのか「やっぱり、だめだった?あの子気むづかしいでしょ」とまるで、私が彼女を好いているかのような言いぐさ。どう間違ってもあのような女性に惚れるようなマゾな私ではない。惚れるならば事務の戸崎さんのような人のほうがまだいい。などと言ったら失礼だろうか。と、思考を別のところにずらし、後ろから突き刺してくる視線を確かめることはせず、急いで店を出た。
会社に戻るとぎりぎり間に合ったようで小熊課長は何も言わず、いつも通りイスの上で足を組んで座っていた。その姿を見る度、骨盤が曲がって腰痛がひどくなると思うのだが、本人に言った試しはない。
あのカフェの女性に、撲滅会なんぞ歯牙にもかけることはないと言われ、くやしいがどこかで安心していたのだろう。午後の仕事はなかなか普通にはかどり、不意に鼻歌を歌っている自分に気づき、柄にもないと苦笑した。彼女がなぜケセランパサランをよこせと言ってきたのかは不明だが、大したことない撲滅会と愛好会の話だ。大した理由でもなかろうと私は仕事のチェック表にひょひょいとチェックを入れ、今日一日の仕事を終わらせた。
我にしてはよく働いたと、ぐぐっと延びをして息を吐く。事務の戸崎さんが律儀にも営業の部屋に顔をひょいとのぞかせて、「おつかれさまです。お先に失礼します」と声をかけていく。上司や部下が「はいよ」とそれに返し、なんだかここも悪くはないのかな?なんて思ってしまったりした。
それにしても。唐突に考える訳だが。人間とはその一時一時で別の人格を持っているのかもしれない。ただ一続きの記憶でアイデンティティが保持されているだけで、考え方というものは常に変わる。その記憶にしたって曖昧なもので、もう昨日の晩ご飯に何を作ったかも思い出せないのだ。そう思えば今のこの心境もさしたる不思議はなかろう。
あの愛好会の女性との約束をすっぽかして、家に帰って寝てしまおうというこの気持ちも。
仕事で疲れた。この上、何を疲れる必要があるというのだろうか。明日も仕事。明後日も仕事。ずっと仕事。ライフステージのメインイベントは大概こなしてきたし、このあとのメインイベントは予定がない。ならば人生の終わりをつつがなく待つばかり。
だから帰ってしまおう。現実は小説より奇なりと言うが、私の現実は一つしかない。そしてでき得る限り奇は望まない。
ということで私は自分に素直になって帰宅することにした。
外はすでにとっぷりと日が暮れて、飲み屋の電気がちかちかとまぶしい。そんな金のかかる場所は横目に、家に帰ってゆっくりワインでもって晩酌でもしようかと思う。
もうよいのだ。女性を一人カフェで待ちぼうけにさせてしまうことは、ほんとうに申し訳ないと思うが、知ったことか。この際アルコールでも体内に投入して何もかも忘れてしまうのが得策というもの。そういえば、うちのケセランパサランも久しく飲んではいなかったが、赤ワインが大層好きだ。やつらは飲まないくせに、蒸発するアルコールだけで酔えるのだ。今日は久々に彼らと共に飲もうと決め、玄関のドアを開けた。
と、中は空き巣が進入した後のようにすさまじく荒らされ、その真ん中で昼間、喫茶店で会ったばかりの三谷さんが、口にだけ笑う形を作り「約束、お忘れでした?」と言って私を出迎える。
などということはなく、いつもと変わらず雑然とした貰いものばかりで構成された統一感の欠片もない部屋の中、黒と紫の目印がついたケセパサが二匹仲良く私を出迎えた。
人間にすり寄ってくる野良猫のように、食事を欲しているだけだとはわかっていながらも、うっかり、ほっこりと胸に暖かいものを感じてしまい「すぐご飯にするから」と家に上がる。この出迎えも彼らがいてこそ。この平穏な日々を奪うことなかれ。
そうだ。彼らは自分が守らなければいけないのだと、ヒーローアニメに憧れる子供のような思考回路を働かせながら、週末に作り置きしている冷凍ホワイトソースと茹で野菜ミックス、肉を鍋に放り込んでシチューを作る。鍋からはやわらかな匂いが立ち上り、緊張と心配で押さえ込まれていた空腹が一気に欲望に変わり、煮込みもそこそこ、皿に出来立てのシチューを盛った。
テーブルにはシチューとレンジでチンした熱々のお米と深い赤をしたワイン。楽しげに飛び回るケセランパサラン。
小さい頃から現状維持が何よりもの望みであったけれど、自分も環境もこくこくと変わり、祖父母は亡くなり、社会人になり、一人暮らしを始め、現在。これも悪くないのかもしれないと、早々に酔い始め回転の鈍くなった頭に紫のケセパサをのっける。すると、もう一匹も何を思ったか頭の上にわさわさとやってくる。
そうして夜は穏やかにふけていく。
時計の目覚ましがなり、ぬくぬくとした布団の中、目を覚ますと、当たり前ではあるが、準備をして家を出て会社に出かけなければ行けない朝。昨日いつもより少し飲み過ぎたせいか、まだ体が重たくて、いつも以上に布団から脱出することが困難に思える。
しかし行かぬ訳には行くまい。仕事が私を待っている。社会が私を求めている。と大それた台詞を口の中で転がしながら、なんとか気力で布団天国から抜け出した。
空気がまとわりつくように体から体温を奪い、むき出しの足は速くも布団の中へ帰ろうとする。その欲求をモコモコスリッパに突っ込むことで押しとどめ、いそいそと台所へ向かった。
昨日の晩は結局、いつもと同様、ふわふわする頭で風呂に軽く入り、ちゃんと歯も磨いて寝た。ケセパサはどうしただろうか。あまり記憶にない。
台所のドアを開けると何かが猛然と飛んできた。一瞬命の危機を覚えたが、それはそのまま私の目の前をかすめ部屋の向こうに飛んでいき、また別の方向に向かう。
よく見ればかってしったるケセランパサラン。しかし、その一匹が飛んでいった方向を見て、うんざりした。そこにもう一匹いるのは昨日からだが、さらにもう一匹カーテンの隙間から。ついでにもう一匹机の下から。目印の色は黒、黒、紫、紫。
分裂という言葉が閃き、脳内に細胞分裂のイメージが巻き起こる。そのイメージは分裂を繰り返し、増え続けやがて頭の中を真っ白に埋め尽くした。
あぁ、やはり昨日耳栓を買っておくべきだった。
とはとんでもない出来事を予測する自己への精神衛生的思考。
もしこのまま倍々に増えていけば、やがてこの白いもふもふに私の住居は占拠されてしてしまうだろう。
ええじゃないか。ええじゃないか。
しかし、いくら愛しい奥さんだったとしても、二人も四人も百人もいればかなわない。ケセランパサランもしかり。
とりあえず、この不吉な予想を隅に押しやり、いつも通りに朝食を食べた。ただし、四匹のふわふわにたかられつつ。
蒼く澄んだ空の下、よろしくない気分で出社すると営業部の手前、廊下の角の丸椅子の置かれているちょっとしたスペースで、事務の戸崎さんと、私より三年後から営業部に入ってきた安岡君が立ったまま向かい合っていた。
戸崎さんは滑らかな頬をマンガみたく赤く染め、俯き、小さな声で何か呟いている。一方の安岡君は少し苛立ったように、整った眉間にしわを寄せ、口をへの字に曲げていた。
もしや戸崎さんがいじめられているのではあるまいか。
しかしいかにもできる男な安岡君は私の苦手とするタイプ。大したこともなさそうだし、知らぬ振りで営業部に入っていこうかと思ったが、戸崎さんの瞳が一瞬ちらりと私を捉えた。少し潤んでいる。
これは日々お世話になっている彼女に恩返しできる絶好の機会かもしれないと、腹をくくり、少しだけ靴音高く近づいた。
「おはよう」と二人に向けて片手を挙げると、たいしたことはない。できる男安岡は警察に目を付けられたヤンキーのごとく、「おはようございます」とだけ呟いて、そそくさと営業部に入っていった。戸崎さんは依然頬を赤らめたまま、それでも堅かった表情はいつもの笑顔に崩れ「おはようございます」と丁寧な挨拶を向けてくれる。
「今、大丈夫でしたか?」
言葉にしてしまってから、自分の言語能力の低さがいやになる。これでは何が言いたいのか伝わらないし、電話口で『ただいまお時間大丈夫でしょうか』と聞いているようでもある。案の定、彼女もぽかんとした表情で「はい?」と首を傾げた。
「あっ、何か安岡君ともし何かあったのならと思いまして」
言い直してみるが、まるで文章になっていない。しかし、戸崎さんは私の言葉の拙さなど一向気にすることなく「あぁ」と頷いた。
「大したことじゃないので大丈夫です。食事に誘われたんですが予定が悪くて断ったので、少し気まずくなってしまっただけで。でも、木津さんが来てくれて助かりました」
どう助かったのかよくわからないが「そうですか」と相づちをうち、何かここで男らしいことを一つ言っておくべきかと思う。しかし、何かあったらいつでも力になりますから、なんて歯が浮いて言えやしないし、言ったところで力になる自信は欠片もない。だからせめて言っておく。
「もし何かあったら言ってください。僕にできることなら力になりたいと思うので」
あら、なんだかこの台詞もおかしくはないか?と思ったが、戸崎さんの笑顔が崩れなかったのでよしとして、頭の中では今の言葉を「僕にできることなら言ってください」に変換しておく。
彼女と別れを告げ、営業部の部屋に入ると右斜め三十度あたりから強い視線を感じた。他人からこんな注目を受けることが少ない私は恐る恐る首を回す。すると、安岡君が無機質な表情で私を見ていた。しかしそれも一瞬。いつものそつない笑顔で会釈を送ってくる。なんだか腹の内のよくわからない人間だなぁとは思ったが、人間関係は円滑であることが一番。会釈を返しそそくさと自分の席におさまった。
それにしても自分も飲み会に誘われないものだろうか。あまり人との慣れ合いを好まない自分ではあるが、まったくお誘いを受けないというのも寂しいものである。といっても、結局忘年会や花見などで飲みに行くことになっても、地味に他人の話の聞き役にまわり、あとは料理と酒をつつくばかり。私といておもしろがってくれるのは大学の時の妖怪研究会の仲間ぐらいなものであって、彼らにしたって忙しい毎日。あまり連絡を取り合うということも少ない。
まぁ、私にはケセランパサランがいれば十分かと思い、しかしその存在も今はどうしたものか。大切な存在ではあるが、あんまり増えてもらっても困る。と、朝の細胞分裂のイメージがまた私の中で膨張し始めた。膨張しすぎて、耳や鼻の穴から溢れ出てきそうである。それをなんとか両手で防いで仕事に取りかかった。
午前中の業務を終え、昼食。私の足はカフェ・サンライズへと向かっていた。悩み相談ではない。昨日約束を破ったことを詫びるだけなのだ、と自分に言い聞かせながら。
カフェの扉を開けるといつも機嫌のいいおばちゃんが「いらっしゃ〜い」と言い、エプロン姿の三谷さんが「いらっしゃいませー」と無表情で目の前を横切っていった。
「三谷さん」
慌てて声を掛け、掛けてからしまったと思う。
彼女は口だけで微笑み「ご注文お決まりでしょうか?」と店員モード。無表情なのに彼女の怒りがちくちくとコートの上から突き刺さってきた。私は考えるより先に、ほぼ反射神経のようにして頭を下げる。平身低頭。中学時代の担任が身を持って教えてくれた唯一のこと。
「昨日はすみませんでした」
「あら?何か失礼なことでもなさいました?」
表情は崩れるどころか、ますます完璧なものとして固定されていく。
「会う約束を破ってしまい、せっかくお時間をいただいたのに申し訳ありませんでした」
なんだかミスをして取引先にあやまってるみたいだ。それは彼女も感じたらしく、表情は変わらないまでも声の険はさらに鋭くなる。
「申し訳ないという気持ちがおありになったんですね。ほんと貴重なお時間まちぼうけ」
そこに幸か不幸か新たな客が入ってきて、彼女は営業スマイルですすっと私の前から離れていった。怒られていたのに、その姿が妙に美しくかっこよく見えてしまっていけない。
見とれているわけにも、しょげているわけにもいかないから、とりあえずあいているテーブルに座り、水を持ってきてくれた、三谷さんとは対照的な女性定員に唐揚げ定食を注文する。
三谷さんはてきぱきと働いていた。あまりに動きに切れがありすぎて、見ているとダンスを見ているような気がしてくる。だからそれに対する客の動きがひどくのろのろとしていて一つの画面に収まるのには似つかわしくない。
そんなことを考えていると唐揚げ定食がやってきた。ごはんが置かれ、キャベツのしかれた唐揚げが置かれ、最後にリンゴが二切れ入った小皿が置かれる。なぜだかはしらないがこの店では定食メニューには必ずリンゴがついてくるのだ。リンゴが良いという常連もいるらしいが、私は断然、堅くてしゃきっとしたリンゴよりも、柔らかくて舌触りのざらざらしたリンゴ派だ。と毎度このリンゴを見る度に考える。
要するに一人でくるものだから話し相手もおらず、食事中に考えることが目の前のリンゴについてか、近くに座っているご婦人客の子供ネタぐらいしかないのだ。
しかし今日はこの後の身の振り方について考えなければいけない。三谷さんにゆるしてもらって、なんとか分裂し続けるケセランパサランに歯止めをかけなければならないのだ。
しかし三谷さんはあいかわらずテキパキ忙しく働いていた。声を掛けるすきもなく、ケセランパサランについて詳しく聞く時間などあるわけもない。彼女は今仕事中である。
そして時計は一時四十五分。目の前の皿はすっかりきれいにからっぽになり、私の腹は満ち、会社では仕事が待っていた。しかたなく席を立ち、会計をすませ、おばちゃんの「ちゃんと謝らなきゃだめよ」というなれなれしい言葉を背中に店を出る。その一歩手前。
まったく何の気配も音もなく、三谷さんが隣に立っていた。
「ラストチャンスです」
そう言って私に紙と名詞を渡す。「はい?」と聞き返そうとした時にはすでに彼女は「ありがとうございました」と頭を三十度下げ、笑顔で私を見送る体勢にはいっていた。見送られるまま店を後にして、渡されたものに目を通す。
名詞は自分で作ったものなのか『三谷 洋子』という文字の周りにピンク色の花のイラストがちりばめられていた。おもちゃみたいな名詞は彼女には似合わないと思ったが、女のこっぽい一面もあるいはあるのかもしれない。
そして、もう一枚。メモ用紙の方には、深夜に訪れ投函していったメモを思い出させる、簡素な文面。『今夜七時にサンライズでお待ちしております』
毎度毎度、一方的だと思ったが、名詞に連絡先があるということは、もしもの場合は連絡しろということだろうか。いずれにせよ、不親切ではある。とは約束をすっぽかした私に言えた言葉ではない。
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