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み。

若者ことばの「やばみ」や「うれしみ」の「み」はどこから来ているものですか | ことばの疑問 | ことば研究館

この記事が話題になっていて、
私はこういう「言葉の変化」みたいなものが好きだし
新しい言葉も基本的に好きなので、
面白いなと思った。
「わかりみ・・・」とか
「いとしみ・・・・」
みたいな言い方が流行るのをみて
面白いな、すきだなと思っていた。
最初に見たのは「バブみ」だったかなあ。


この「やばみ」みたいな言い方が好まれるのは、
上記の記事の内容(感覚)につらなって生まれる「感じ」なのだろうが、
「部分」性があるからじゃないかと思っていた。
「やばい」だと全体がヤバイで塗りつぶされるが、
「やばみがある」だと、
やばみもあるし、ほかのものもある、ということになる。
「やばみ」は全体の中の一要素にすぎない、
という限定になる。

「やばさがある」より「やばみがある」のほうが
全体に占める割合が少ないような気がする。
「甘みがあります」
「甘さがあります」
だと、上の方が甘い度合いが低い感じがある(あくまで私の印象だが)。
むしろ、元々甘いモノではないもののなかに「甘みが・・・」とか言いたい。
羊羹食べて「優しい甘さですね!」という。
茄子を生で齧って「あ、甘みがある!」などという。
上等の刺身を口に入れて「ほのかな甘みが・・・」と言ったりする。
「上品な甘さ」
「ほのかに感じられる甘み」
みたいに、私たちは何となく使い分けているのではないか。
「み」は
極論すれば、脇役だ。
主役の味は、別にいる。
だからひょっとすると
ものすごく限定的で控えめな言い方が
「み」
なのかもしれない。
味覚の敏感な人にしか感じられない「甘み」もある。
それが「感覚」だからだろう。
「やばみがある」は
そのヤバみが感じ取れない人だっているだろう
という保留を含んでいる。
「なくしてみてはじめてわかるありがたみ」は
ずっとそのありがたさが目の前にあったにもかかわらず
対象をなくしてみないとわからないのである。



これは
「○○したいと思います」
「○○していけたらいいなと思います」
みたいな言い方にも通じるものがあるなと思っている。
したいという意志はあるができるかどうかは未来の事なので解らない、
そうしていくのがいいという価値観を持っているが、
そうできるかどうかは正確には言えない、
といった保留だ。


これは曖昧さや冗長さと解釈されることもあるけど、
私は逆だと思う。
「全体を表現したり、全てを言い切ったりはできない、
なぜならばそこには不確定性や別の要素がたくさんあるから」
という意識なんだと思う。
現実に対してあくまで正確になにかを言おうとすれば、
限定・保留するしかない。
なぜなら、私たちは誰もカンペキではないからだ。
現在のことにしろ未来のことにしろ
きっぱり言い切ることができるほどわかっていない。


発言に責任を持ちたいからこそ
私たちは限定する。
「ここまでは言えるが、ここから先は言えない」となる。
過剰な保留を重ねる言い方は、
ゆるいのではなく、むしろ、厳しさの感性なんだと思う。
いい加減なことを言いたくないから
つい、限定的になる。
「がんばります!」と言い切れないのは
自分の怠惰や弱さをだれよりも知っているからだ。
自分で自分に裏切られた苦い記憶があるからだ。
だから
「頑張ろうと思います」
と言う。
今は本当にそう思っている。思ってはいる。
本当に頑張れるかどうかは、わからないけれど。


もちろんそう言いながらそんなことを考えてはいないだろう。
でもたぶん、無意識に
私たちは語法の中で
そういう選択をしているのではないか。


「わかりみがある」は、
「わかりみしかない」と反転させて強調もできる。
本来ならわかりみもあるしわからなみもあるところを
もう、徹底してわかりみしかないよ!すごいよ!
みたいな強調表現に転じる。
これも、なにかとてもかわいい。


中高生くらいのときか、
やたら新しい言葉を作って使いたくなったが、
あれは方言の源泉だと感じた。
「仲間」を固めるためのプリミティブな方法が、
専門用語や造語やスラングやジャーゴンや短縮語で語り合うことなのだ。
仲が良くなると新しい言葉が自然に生まれる。
家族内や、たった二人の人間の間柄でも、それはある。


コミュニティを作ると必ず、その中でだけ通用する用語や語法、話法ができる。
あだ名や愛称はその最たるものだ。
壁を作って戸を作って家ができる、みたいな、ごく自然なことなんだなと思う。


仲良くするため、ということは、裏を返せば、
仲間じゃない人間が誰なのかをハッキリさせるため、でもある。
昔方言がよそものを発見するための機能を持っていた、という話がある。
ただ、新しい言葉ができあがるということと、
そのコミュニティの性質が外に開かれているかどうかということは、
ぜんぜんまた別の話だ。
ひらかれたコミュニティでも、閉じたコミュニティでも
どっちにしろ人間が集まると
新しい言葉ができるのだ。


・・・・・・・・・


これに関連したことを、過去にも書いていた。
iyukari.hateblo.jp