解放はない
大学生になったら、なっても
書き続ける
誰も見なくてもここに書く。
私は書く。
障害者のきょうだいがいたら嫌いとか表に出してはいけないから心にしまうなんて出来ないし、ここに書く。
障害者のきょうだいがいてその子が大声で叫んで私が「うるさい」と言ったら悪いのは私になるからね。今なら障害だからしょうがないもわかるけどそれを幼稚園の頃から求められるんだからこっちはどれだけ広くて神様のような心を持っていなきゃいけないのだろうか。
わたしのことを快く思わないあなた方はもし障害者のきょうだいがいたら24時間365日神様のようにいられるの?
いくらうるさくされても、幼稚園の頃から「仕方ないね」で済ませることができるならさぞ成熟した人だから私を怒るんでしょうね。すごいですね。
家族である弟に遠慮なくうるさいということすら憚られる。
「障害者だから」で悪者になるのはいつもこっちだ。
健常者のきょうだいだったら「うるさい」「ウザい」「嫌い」「消えろ」がアリなのに相手が障害者ならニコニコ仲良くしなきゃいけない。それを求めるあなたは仲良く出来るの?
別に他人や社会に何も求めてない。
話を聞いてくれた、聞いてくれる、ネット上の人には本当に感謝はしてます。顔も知らないけど本当に本当に繋がっていて安心します。
家族に求めることもない。(強いて言うなら弟を家族じゃない他人にして欲しいけど物理的&生物的に無理)
というか親も親できょうだい児のことを気にかけても最終ゴールを「きょうだいで支え合い、共に生きる」だと思ってるんだろうけどわたしの中のゴールは「互いに関わらない、弟も私の迷惑になることをしない、わたしも弟の迷惑になることをしない」だから歩み寄れる気も一切しない。
親とは見てるものが違うから。こっちは勝手にきょうだいになってて繋がりが一生だから。
「障害者やその家族への差別が未だ残る社会を変えましょう!」なんて全く思わない。
無理だよ、そんなの。
ていうか「きれいなもの」ばかり見てきた又は見せてきた社会に対して「私とともに変わりましょう!変えましょう!」と叫ぶ労力は無駄だ。
法律や制度で外から見たら解決するかもしれないけど、個人に焦点を当てたら偏見はあると思う。絶対消えない。
自分は障害者である弟が嫌いだが、でも弟が第三者に差別されて悲しく思ったことも昔はあった。
弟のことを考える時だけいつも、私の中にはいつも二つの気持ちがある。
「家族まで」含めて偏見が無くなる日は来ないよ。
私は自分のためだけにここに書く。
0番目の夢
最近はこれまでで1番勉強を頑張っている。
一つだけ絶対学びたいことがあって、絶対それに関する職業に就きたくて、だから頑張ってる。
ブログ書くことなんて5分しか掛からないし、支障なんかにならない。
朝に勉強の大部分を持ってきたり、夜にやってみたり試行錯誤して、ようやくペースをつかめた。
私には朝の勉強が向いているらしいから、自分の祖母のように早起きして午前中で1日が終わると思いながら勉強している。
分からなさすぎて大変だった英語も分かるようになってきて、「こんなに簡単な仕組みだったのか!」と初めて楽しく思っている。
でも、やるべきことが終わって、ホッとしている時にまた思う。(この時間は私にとってホッとする時間だ)
「やりたいこと」が叶えられてもあの憎い障害者の弟が消えること、または家族じゃなくなることは叶わないんだとただ残念に思う。
なんでこんなに頑張っているのかたまにわからなくなる。
いやもちろん勉強頑張ったらこの問題が解決するなんて思ってもないけど。
やりたいことに向かって頑張っても私は障害者の姉だ。それが嫌だ。いくら夢を叶えても障害者の姉だ。
やりたいことに向かって努力しても、距離を取るためにそれこそ日本を出て行っても、弟との問題はついてくる。
障害者の姉じゃなくなることが、もしかしたらやりたいことより上にある0番目の夢かもしれない。だから早く消えて欲しい。
「障害者の弟がいなくてもまた違う不安や悩みが襲ってくるかもしれない」と言われたことがある。私にとってはそっちのほうがいい。その違う不安や悩みは自分で立ち向かうことができるものだ。そっちの方が幸せだ。
だから本当に弟の存在が憎たらしい。弟消えろなんて言ったらダメだし殺したらこっちが100パーセント悪人になってしまうから、(こんなブログ書いてる時点で割と悪人だけど)、じゃあとりあえず私を「障害者の姉」じゃなくてただの人にしてくれない?絶対に叶わないけど。
家族のこと言わないのなら、私を私として見てくれる人なんてかなりいる。友人とか。
家族のこと言った瞬間に私はいつでもどこでもこれまでもこれからも私ではなく障害者の姉になる。
綺麗事だらけの人ももしあなたの知人が私だとして、私が「障害者の弟がいます」と言ったらそんな目でみるんでしょ?
とにかく弟が邪魔。
障害者の弟がいなければこんなことなかったのにと18になってもこんな幼いことを思うのだからこれからだって思ってしまうのだろうと思う。これからなんてむしろその不安が実際に起こる段階なのだから、憎しみは増すのか。60になっても思っているのだろうか。
障害者の弟がいるとロクなことがない
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もちろん毎日こんなことだけを考えているのではなく、勉強したり、趣味のことをしたり、友人と話したり、悩むにしても違う悩みで時間を費やす。
悩みの話。
悩みが一つもない人もたくさんある人も色々いると思う。
私はこのこと以外にも悩みはある。
例えば成績とか。見た目とか。
でも成績の悩みは勉強したらどうにかなるよね?それが報われるかはわからない。報われない可能性もある。でも自分の事の悩みでどうにかすることができる選択肢を自分が持っている。
私が好きなスポーツだってそうだ。練習すればどうにかなることがある。練習しても成長しないときももちろんある。
見た目とかも同じだ。中身も外見も「自分のことだから」磨くことができる。
障害者の弟がいる、以外の悩みには私が全部1人でどうにかする選択肢がある。
でも障害者が家族にいることは、中身や外見と違い私のことじゃない。
なのに不利益を被るのは何千回と考えても許せない。弟いなきゃこんなこと考えなくていいのにと思う。
障害者の弟がいることも他の悩みのようにどうにかできるなら今すぐ家族じゃない赤の他人にしてしまいたい。家族としてはいらない。不利益しかないから。
同世代と遺伝
同世代と話すとみんな当たり前のように健常者が産まれてくると思ってる。(前も書いたが親もそうだったらしい。障害者が産まれる確率も誰にだってあるけどまさか自分がと思っていたらしい)
私も当たり前に周りのように10代の今は「健常者が産まれる」ことだけを想定して将来の話をしたかった。それが正しくなくてもそんな話をしたかった。私の親もそうだったんでしょ?
もし、10年後に私が子供を産んでその子が障害者だったとする。百歩譲って私がきょうだい児でなければ産んだことに嫌悪感や罪悪感を持たない。だって、そこからの半生の話だから。そしてくじというか運というか今のところよくわからない問題でもう受け入れるしかないから。しかも自分は親だから。障害者=可哀想は違うことも知っているから、どうにかなるんだろうなとも思う。
でも、今の私はきょうだい児だ。その私か障害者を産んだら障害者との付き合い、しかも血縁関係という望んでもない関係が一生続く。それは耐えられない。嫌だ。無理。きょうだい児だからこそ遺伝したら受け入れられない。
「あなた(私)だって障害者になるかもしれないから」ってすごくわかるけど、だからってこの気持ちを飲みこまなきゃいけないの?理由になってないよね?私は一生障害者の弟と家族なのは嫌だ。無理だ。私が病気や事故で障害者になるかどうかの話とこれは関係ないと思うのだけど。
この血が嫌。顔のパーツが弟と似てるねと指摘された時も私は身震いした。同じ血が流れてるんだ…なんで?望んでもないのに、と。
血縁関係に障害者がいたとしてもそれで不利益を被らない社会なら別にどうでもいい。そうじゃないから、怒り、憎しみ、不安が襲う。
家族に障害者がいると差別される社会じゃん。違うの?
家族に障害者がいたら、それを話せば、「あの子は障害者の姉だから…」って目で見られて将来は破談のリスクと付き合わなきゃいけない。
一生の付き合いはやっぱり嫌だ。この鎖は切れないけど毎日毎日引きちぎりたい気持ちでいっぱいだ。
幼少期から障害者の弟と同じ空間で過ごしてきたからこそ健常者のきょうだいに対しての憧れがすごくある。だからこそ、遺伝も気になる。