プリキュアが男女どちらでもお姫様になれるとか、男がプリキュアのコスプレして子供に見せるなとか。
あげく戦隊モノに女性リーダーがいないのが日本の限界だとか。
日本の限界は米朝韓に絡めず、トランプ越しに言うしかないこの外様扱いの現状の方であって、何が赤の女性リーダーがいないから日本は限界がー、なんだか。
剣呑剣呑。
ここでは女性が主人公として活躍する作品を振り返り、その系統を考えてみる。
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ちゅうかなぱいぱい
戦う少女、戦う女性。
まず昭和に遡る。
思い浮かぶスケバン刑事シリーズ並びに少女コマンドーいずみ、セーラー服反逆同盟(鉄腕アトムに対するジェッターマルス的な)、ちゅうかなぱいぱいからシュシュトリアンに至る実写女性主人公の系譜。
特にちゅうかなぱいぱいは、それまで「おもいっきり探偵団 覇悪怒組」のような石ノ森章太郎の少年探偵団っぽいコンテンツを放送していた枠だったにも関わらず、花のあすか組で主人公を演じた小沢なつきを突然投げ込み美少女路線へと転向した。
路線変更は評価がよかったらしく、小沢なつきが突然降板しても、いぱねま、ポワトリン、ナイルなトトメス、うたう!大龍宮城、シュシュトリアンまで続くことになる。
魔法を使いトラブルを解決するコメディ作品と言った構造は「奥さまは魔女」に近い作品が多い。
全体的にスラップスティックなコメディテイストが強かった。
ただ原作石ノ森章太郎らしいバトル要素もあるポワトリンやシュシュトリアンの方がヒットした印象。
日本でスラップスティックなコメディはあまりヒットしない。
ましてやミュージカルなんて(歌う大竜宮城!)。
ウーマンリブの時代
さらにスケバン刑事の系譜を遡れば、望月三起也「ワイルドセブン」や日活ニューシネマ、任侠映画やさらに言えば時代劇の様式美がある。
そこには実写映画からの影響が色濃い。
1970年代。
白人に抑圧された黒人らによる公民権運動の中作られたブラック・パワー・ムービー(黒いジャガーが1971年、スーパーフライが1972年)、同じ時代を背景にウーマンリブ運動の盛り上がりを受け海外ではワンダーウーマン、バイオニックジェニー、チャーリーズエンジェルが人気を博する。
一方、日本では、ヤクザ映画のヒットから藤純子の「緋牡丹博徒(1968)」が撮られる。
続く日活ニューシネマ時代には、梶芽衣子の修羅雪姫シリーズ(1973〜74)や女囚さそりシリーズ(1972〜76)がヒット。
香港でのアンジェラマオ主演による「女活殺拳」のヒットを受け作られた志穂美悦子主演の女必殺拳シリーズ(1974〜76)、さらには野良猫ロックシリーズも「戦う女性(少女)」の系譜に連なる前身かもしれない。
ちなみに女番長野良猫ロックにおいて梶芽衣子の危機を救うのがバイクに跨った和田アキ子なのもまた象徴的(上DVDジャケット画像参照)。
大人向けのコンテンツとして、これら「戦う強い女性」像を描いた作品は70年代から存在した。
抑圧される女性が男に復讐する、倒す。
特に野良猫ロックシリーズでは、悪役は残酷で差別的な男。
それに対して女性らが戦う、男(悪)vs女(善)対立の構図が用いられた。
(悪役 藤竜也がハーフを嫌悪していると言う設定も盛り込まれてる)
魔法少女と変身
ただ子供向けコンテンツとして同じテイストの進出は難しい。
社会進出した女性が抑圧されていた時代背景があったからこそそれと戦う女性という図式が盛り込まれたわけだが、少女らはまだ社会に出ていない。
だから後、仮想敵としてプリキュアなどでおなじみ「大人社会の悪のメタファー」を少女(子供)が倒す、という構図を盛り込むことになる。
男vs女ではなく、社会に出て歪んでしまった大人の価値観vs少女の無垢で素直な価値観という対立項と言えばいいか。
現実世界で戦う女性主人公としては「リボンの騎士(1967)」「ベルサイユのばら(1972)」や「ラ・セーヌの星(1975)」などもあった。
年少の少女をターゲットにしたアニメとしてはバトル要素のない「ふしぎなメルモ(1970)」や「魔法使いサリー(1966)」、葦プロ謹製の「魔法のプリンセス ミンキーモモ(1982)」が嚆矢となり「魔法の天使クリィミーマミ(1983)」に続くぴえろ魔法少女シリーズが人気を博し定番になっていくことになる。
面白いのが「リボンの騎士」や「ベルばら」、「ラ・セーヌ」の星が海外や過去を背景にした「時代劇」なのに対しその後の魔法少女が現代の日本を舞台にしているところだろうか。
1970年代のウーマンリブによる社会進出の始まりと80年代のバブル前の好景気。
そう言う時代背景の中、少女らが自身を投影するのに「魔法で素敵な女性に変身する」魔法少女の方が遥か昔のフランスで剣を持ち戦う女性より身近に感じられたろうし、市場として受け入れられた。
憧れの姿に変身する、憧れの仕事になれる。
いつの時代も女性は現実的な未来に夢を見ているからこそ、現実性を伴う魔法が少女らに受容される。
そしてこの時代、いわゆる「大きなお友だち」を生み出す土壌が生まれることになる。
女性ウルトラマンの不在
戦隊モノのリーダーに女性は存在するので日本の限界がどうだこうだは置いておき、
「どうして女性ウルトラマンの主人公がいないのか?」
の方がよほど芯を食った話だろう。
それをもってこの国の限界だなんて全く思わないが。
ウルトラマンの場合、女性が感情移入をするとき主人公の巨大化は不向きだと考えるとどうだろうか?
例えばセーラームーンやプリキュアは素顔を晒している。
変身しても可愛い、普段より一層可愛くなる。
プリキュアなどは、スーパーパワーを手にするのに肉体的、物理的質量を伴わない。
カエアンの聖衣のごとく、衣装にそのパワーがあるようにも見える。
アメリカはその点、視覚的にわかりやすい。
超人ハルクやマイティソーなどに見られるように外観的なマッチョイズムがその根底にある。
筋肉がつく、ムキムキだから強い。
物量が増す、だから強い。
日本は仮面を被ることで「変身」を行いスーパーパワーを得るというロジックが通用するのかもしれない。
マッチョさを伴わず、スーパーパワーを得るのが日本的な多くの様式。
女の子が巨大化して怪獣と戦うことにはあまり需要がない*1。
平たく言えば「かわいくない」
かわいくない→オモチャが売れない→作られない
それを補填すべく変身を必要としない科学特捜隊枠に女性隊員が増え、アクションシーンも増加させバランスをとっている。
不寛容、語る
〇〇は女性がーって話はキリがない。
女性がメインのコンテンツもあれば男性がメインのコンテンツだって存在する。
プリキュアも魔法少女も女性がメイン。
仮面ライダーも宇宙刑事も男ばかり*2。
NETFLIXに「センス8」というドラマがある。
超能力を持った登場人物らが精神感応し合うんだが、ウォシャウスキー姉妹だけに超能力者はストレートの男女とLGBT、白人黒人インド東洋人などなど8人。
このドラマ自体はそれでいい。
だが正しさを振り回しまくった結果
「あらゆる作品にストレートの男女とLGBT、あらゆる人種を登場させ、主人公不在」
なのが正しい作品なんて世界は、果たして正しいだろうか。
その正しさは誰のためなのか?
多様性の受容とは、様々な可能性や様々な表現、存在をありのまま受け入れることだろう。
戦隊モノには男女がいるし、そういう中で女性がリーダーのストーリーもある。
戦う女の子が見たいならプリキュアでもマジマジョピュアーズでも観ればいいし、変身が見たいならキラッとプリ☆チャン観りゃあいい。
女性が主人公でも男性が主人公でもどちらでもいいし、どちらの作品もある。
もし、それをいうなら
「仮面ライダーやプリキュアや戦隊モノのリーダーになぜLGBTがいないのか?」
となぜ問わないんだろうか?
「戦隊モノの赤色リーダーに女性がいないから日本は遅れてるし終わってる」
なんて考え方の方が、よほど歪で不寛容にしか思えない。
そもそも「赤色がリーダー」だなんて前時代の考え方にしがみついてる時点で不寛容さに気づいていないのか。
何を語ろうが不憫でしかない。
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