「日の丸」ではなく「HINOMARU」
2年半ほど前、取材で、日本会議の関連団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が日本武道館で開いた集会に出向いた。その予約のためにメールアドレスを登録してしまったので、未だに2週間に一回くらい、新しい動画はこちら、とメールが届く。現行憲法はアメリカに押し付けられたものだから自主憲法を、と主張する彼らの動画チャンネル名が「KAIKENチャンネル」であるのを見かけて、なんで「改憲」じゃなくて「KAIKEN」なのか、むしろ、アメリカに押し付けられた感じがするじゃんと毎回思う。しかし、その武道館での模様を思い出してみれば、アメリカ共和党のジョン・マケイン上院議員からビデオメッセージが届き、「しっかりと集団的自衛権が行使されたことを嬉しく思う」と、「よくやったな」と部下に缶コーヒーを渡す上司のようなコメントを吐かれても、会場中がなぜか拍手していたので、「改憲」ではなく「KAIKEN」が似合うのかもしれない。
このところ、愛国心をいたずらに醸成するような楽曲が増えてきたと定期的に話題になるが、「高鳴る血潮、誇り高く この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊」と歌うRADWIMPSのタイトルは「日の丸」ではなく「HINOMARU」で、「この国で泣いて 笑い 怒り 喜ぶ なのに 国歌はこっそり唄わなくっちゃね」と歌うゆずのタイトルは「外国人の友だち」ではなく「ガイコクジンノトモダチ」であった。RADWIMPSの野田洋次郎は「HINOMARU」についてのコメントを「まっすぐに皆さんに届きますように」と閉じているが、「皆さん」の中に自分も含まれているとすれば、私は、なぜ「日の丸」ではなく「HINOMARU」なのかと、早速立ち往生してしまう。
弱点を探し出すために隣国を見つめる
早速立ち往生してしまったので、野田洋次郎の著書『ラリルレ論』を通読してみたのだが、この本を読むと、先述の「KAIKEN」の人たちと、「HINOMARU」のRADWIMPSを、安直に重ね合わせてはいけないことがひとまず分かる。2014年、韓国で起きたセウォル号沈没事故の後、いわゆる右派論壇は、韓国人の方々に対し、民族としての質を乱雑に嗤うような言葉を投げつけ、「韓国だからこんなことになった」との論調を並べていた。
一方、野田は、この事件の後に発覚した国家権力の隠蔽に向かう、反対の声の大きさを知り、「いいも悪いも、韓国という国は日本より直情的な側面があると思う」と書いた上で、沈没事故が日本で起きたらどうだっただろう、ではなく、むしろ日本での原発事故が韓国で起きていたら「これほどあっさりと原発再稼働の動きになっていただろうか。充分な議論を求める声で、国は溢れかえったのではないだろうか。他の特定秘密保護法も、風営法も」と書いた。国家や国民を丸ごと比較してしまうことに抵抗感はあるけれど、自分たちの優位を確認するために隣国の出来事を見つめるのではなく、自分たちの弱点を探し出すために見つめるのって簡単ではない。
主張と回避、意味と無意味
思春期を海外で過ごした人の言質に、かなり大雑把なコンプレックスがある。自分の思春期は「隣の武蔵村山市には電車が通っていないんだぜ」との比較で悦に入るくらいのものだったが(後日、「優香は武蔵村山市出身だぜ」と逆襲を受けた)、長くアメリカで暮らしていた野田が、「変わった名前、容姿、洋服」などの違いからイジメが生まれる日本と違い、アメリカではむしろ「様々な眼、髪、肌の色、格好、皆微妙に異なる発音、宗教、宗派、名前」など、「違う子供」ばかりで、「共通項を探すほうが難しい」と書いてあるのを読めば、やっぱり思春期を海外で過ごした人の考え方ってカッコイイよね、と思ってしまう。
海外で、共通項を探すほうが難しい「違う子供」ばかりと接してきたような人が、なぜ「HINOMARU」という楽曲を作り、「まっすぐに皆さんに届きますように」とコメントしたのだろうか。歌詞を分析したいところだが、野田にとって歌詞を書く行為は「ワープだ。ちゃんとワープしないと。下手に足がまだこの世界に残ってるとロクなものは生まれない」(前出書より)そうなので、足が世界に残っていない状態で書かれた歌詞ではなく、その曲を説明するメッセージをベースに考察するのが良さそうだ。
そのメッセージには、「日本に生まれた人間として、いつかちゃんと歌にしたいと思っていました」「自分が生まれた国をちゃんと好きでいたいと思っていました」との文言がある。2つの「ちゃんと」に引っかかる。ちゃんと歌にする、ちゃんと好きでいるための曲を出した。そこでは「どれだけ強き風吹けど 遥か高き波くれど 僕らの燃ゆる御霊は 挫けなどしない」と歌われる。その大仰な歌詞と、「何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました」という説明がチグハグしている。主張と回避、意味と無意味がゴチャゴチャしている。
軍歌だと読み取られたとしたら、すみません
愛国歌についての考察を重ねてきた辻田真佐憲氏が今回の楽曲について「一見して違和感をぬぐえない『HINOMARU』は、愛国歌としての完成度が低い」(現代ビジネス)と断じているが、野田がこの騒動を受けて、改めてコメントを発表し、「HINOMARUの歌詞に関して軍歌だという人がいました」「色んな人の意見を聞いていてなるほど、そういう風に戦時中のことと結びつけて考えられる可能性があるかと腑に落ちる部分もありました。傷ついた人達、すみませんでした」と謝罪している。
軍歌だと読み取られたとしたら、すみません、と言っている。違うと思う。あのころの軍歌ではなく、この時代に愛国歌がポップに放たれたことに違和感を覚えたのである。戦時中の軍歌を思い出して傷ついたわけではない(もちろん、そういう人もいたかもしれない)。謝れ、なんて言ってないのに、謝られるのは困る。困っている横でファンが「謝らせるなんてヒドい」と活気づく。ゴチャゴチャになっていた主張と回避、意味と無意味のうち、回避と無意味だけを抽出し、確かに伝わらなかった人もいるかもね、と片す。そんなのヒドい。
「僕はきっといつも言葉に見られてる」
「僕は何かしら自分たちの世代で、一つ結論を出したいと切に思う。戦争そのものを憎む気持ちは、皆一緒なのだから。諦めたくないなと思う」(前出書)。本当にそう思う。「言葉はいつも感情や思考には到底及ばなくて、のろまで、そのくせたまに僕を遥かに追い越していったりもする。僕が書いてるはずなのに、僕に語る。怒る、諭す、励まし、笑う。僕はきっといつも言葉に見られてる」(再び前出書)。本当にそう思う。
で、だからこそ、「ちゃんと」歌いたい、言葉にしたいと作られた愛国歌について、自分の意思とは異なる捉え方をされてしまった、傷ついた人達がいたならすみません、と取り急ぎ謝るのは、「自分たちの世代で、一つ結論を出」す行為から何よりも遠ざかる行為だと思う。それが誠に残念である。
(イラスト:ハセガワシオリ)
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問い合わせ:072-844-9000
http://real.tsite.jp/hirakata/event/2018/06/post-...