現代の中東は「長い帝国崩壊の過程」にある。そして、「アラブの春」は一時的にフリーズされていたこの過程を再始動させた。だが、「あるべき秩序」をめぐる問いは、独裁者の復活や内戦の勃発、テロリズムの猛威によって抑え込まれてしまった。はたしてイスラーム主義は「もう一つの近代」という希望を灯すことができるのか? 『イスラーム主義』の著者、末近浩太氏に話を伺った。(聞き手・構成 / 芹沢一也)
「あいだ」を意識する
――最初に本書のコンセプトを教えてください。
本書は、いくつかの「あいだ」というものを意識して書かれました。「あいだ」というのは、何かと何かの「あいだ」ということですが、ここでは、「どちらにも属さない」という意味ではなく、両者を「橋渡しする」という意味で用いています。
――具体的には何と何の「あいだ」なのでしょうか?
まず、中東とイスラームの「あいだ」です。
本書は、あとがきでも述べたように、「中東政治」と「イスラーム」のそれぞれの研究の「あいだ」にあります。中東という地域で起こっている政治現象を探究することと、イスラームという宗教の内実を紐解いていくことは、本来的には異なる作業です。
中東情勢を理解したければ、当然、取り組むべきは前者ということになりますが、「場合によっては」後者も重要である、というのが本書のスタンスです。
――「場合によっては」ですか?
この「場合によっては」というのがポイントです。
言うまでもなく、中東の政治現象すべてにイスラームが関わっているわけではありません。独裁も紛争も民主化も、また経済停滞・発展も、それらの原因や背景をイスラームというマジックワードで説明することはできません。
重要なのは、中東にはイスラームが関わる政治現象が、観察可能な事実として単純に存在する、ということです。そして、そのもっとも顕著なものが、本書が取り上げるイスラーム主義です。政治的イデオロギーであるイスラーム主義は、中東とイスラーム、広くは政治と宗教の「あいだ」にあるものと言えます。
――イスラーム主義とは何でしょうか?
イスラーム主義は、イスラームの教えに根ざした社会変革や国家建設を目標とする政治的イデオロギーです。
――なるほど、たしかに宗教と政治にまたがるものですね。
はい。イスラーム主義は、中東政治のあり方を大きく左右する存在であり続けてきました。具体的には、社会運動や政党、あるいはテロ組織などのかたちを取りながら、権威主義体制の持続や民主化の成否、紛争の発生と長期化などに大きく影響しています。
この事実を真正面から捉えようとするならば、中東とイスラームの両方に目配りする必要がある、あるいは、それぞれの研究を架橋していくのが有効ではないか、というのが本書で伝えたかったことです。
結局のところ、政治と宗教の絡み合いが観察できる以上、それを理解するためには政治と宗教の両方の研究の「良いとこ取り」をすればいいじゃないか、という身も蓋もない議論なのかもしれません。が、アカデミックな出自や訓練経路の違いにかかわらず、いろいろな手法や方法論を試したり、知見を増やしていった方が有益だし、楽しいのではないでしょうか。
「反」でもなく「親」でもなく
――イスラーム主義に着目すること自体が、政治と宗教の「あいだ」というスタンスを要請するわけですね。
もう少し真面目に言えば、このような「あいだ」を目指すスタンスには、異文化としてのイスラーム理解を変えるという意義もあるのではないか、と考えています。それは、つまるところ、「反イスラーム」と「親イスラーム」の「あいだ」を行くということです。
しばしば指摘されることですが、イスラームをめぐる言説は、かなり明確なかたちで「反」と「親」に二極化してきました。「イスラームは危険な宗教だ」、「いや、イスラームは平和な宗教だ」とシーソーゲームが続いてきたわけです。
異文化へのまなざしは、本質主義的になりがちです。つまり、「結論先にありき」で、見たいものしか見ない、見たくないものは見ない、というスタンスになりがちです。こうした状況は、右派と左派、保守とリベラルが互いに没交渉になっている今、いっそう顕著になっているように思います。その結果、シーソーゲームは際限なく続きます。
――そこは一読者として混乱するところです。本来はイスラームは平和な宗教なんだとか、いやイスラーム自体に暴力的なロジックがあるのだとか。
そうですよね。それに対して、本書のアプローチは、「反」でもなく「親」でもなく、政治と宗教の関係に着目することで、イスラームという宗教が持つ様々な側面のそれぞれが、どのようなときに、どのような条件下において表出するのか、探究していくものになっています。
もちろん、イスラームという宗教の内的論理を掘り下げていくことは重要な仕事です。しかし、それだけでは、中東政治を説明することにはなりません。重要なのは、それを踏まえた上で、その内的論理がどのようなときに暴力を生んだり助長したりするのか、また反対に、どのようなときに平和の確立や持続に寄与するのか、政治の現実と接続しながら論じていくことでしょう。
――言われてみれば当然なのですが、こと中東に関しては政治と宗教を短絡する論調が目立ちます。
こうした考え方は、社会科学の発想、とくに従属変数と独立変数による因果関係の解明を目指すアプローチに近いと言えるかもしれません。そうすることで、イスラームを「そもそも…」と本質主義的に考えるのではなく、現実世界のなかで動きのあるものと捉えることが可能になります。
具体的には、本書では、イスラームの教えに関する記述は簡潔にとどめ――それについては、他に良書がたくさんありますので――、あくまでも、人間(ムスリム)による解釈の営みに注目するかたちで議論が組み立てられています。
現実の政治の変化にしたがってイスラーム解釈は変わる。そして、その新たなイスラーム解釈が現実の政治に作用する。本書は、この2つの因果関係をそれぞれ記述していくスタイルをとっています。「政治が宗教に与える影響」と「宗教が政治に与える影響」を往還しながら記述していくスタイルです。
イスラーム主義とは何か?
――イスラーム主義について、もう少し詳しく教えてください。
先ほど、イスラームの教えに根ざした社会変革や国家建設を目標とする政治的イデオロギーと言いましたが、人びとが自らの拠り所としてきた文化や歴史に基づく秩序を打ち立てようとする試みは、「西洋の衝撃」を受けた非西洋世界、アジア・アフリカ諸国に広く見られた現象でした。
私たちは、うっかりすると想像力を欠いてしまうのですが、19世紀末や20世紀初頭に生きていた人たちは五里霧中にありました。自分たちの社会や国家が大きく動揺し、この先どうなるかわからない状況です。西洋的近代化が世界を覆い尽くした今日のような状態はあくまでも結果論であり、当時の人たちにはそれを知るよしもなかったわけです。
そうしたなかで、自らの未来を自らの手で拓いていくために、人びとはナショナリズムや反植民地運動などを生み出していったのですが、イスラーム主義もそうした営みの1つのバリエーションであったと見ることができます。
――西洋近代への適応、あるいは応答の過程のなかで出てきた、新しい秩序を模索し構築するためのイデオロギーということですね。
はい。とはいえ、本書のなかでも繰り返し指摘していますが、本流のイスラーム主義は、近代西洋を拒絶するのではなく、「採り入れられるものは採り入れる」ことの重要性を説いてきました。
むしろ、新たな事物を採り入れた姿こそが真のイスラームである、という主張すらしてきました。そこには、神に真摯に向き合わなくなった人間の姿勢、言い換えれば、神の意思としてのイスラームを解釈するための営みが停滞していたことに対する批判が込められていました。
イスラーム主義は、その黎明期において、近代西洋との関わり合いを通した思想的なイノベーションの可能性を持っていたわけです。
――たんなる保守反動ではなかったわけですね。
はい。ところが、イスラーム主義者の一部は、やがて近代西洋を拒絶したり、憎悪するようになりました。過激派の台頭です。
しかし、その原因は、イスラーム主義の思想的な内実よりも、それを取り巻いていた環境に求める方が適切でしょう。先に述べたように、人間によるイスラーム解釈の変化を従属変数とすれば、独立変数は政治のあり方、例えば、弾圧や不公正の度合いということになります。
歴史的なパースペクティブの重要性
――イスラーム主義に着目する本書は、現代の中東は「長い帝国崩壊の過程」にある、としています。
本書では、19世紀から現在までという、長めの時間軸を設定しています。そこには、実態と分析の両面における狙いがあります。
まず、実態の面としては、本書のなかで詳述したように、イスラーム主義は現代の中東が形成されていくなかで生まれた政治的イデオロギーです。20世紀初頭にオスマン帝国が崩壊し、現在の国民国家としての中東諸国が誕生した結果、政治と宗教の関係をめぐる問題、そして、その解決のための1つのイデオロギーとしてのイスラーム主義が生まれました。
なので、イスラーム主義とは何か、一般にあまり知られていない現状において、まずはそれを中東の現代史のコンテクストにしっかりと位置づけることが必要だと考えました。いわば基礎知識としての現代史だけでなく、イスラーム主義の誕生・発展・変容の大まかな流れを記しておいた方がよいかと。
――近代ヨーロッパにオスマン帝国が浸食されていくなかで、新しい秩序を模索するイスラーム主義が誕生し、成長してきた経緯を描いている。
はい。そして、分析の面では、確かに、先ほど述べた因果関係という意味では、必ずしも19世紀末からの150年間のタイムスパンを取らなくてもよいのかもしれません。
しかし、因果関係を考える上でも、歴史的なパースペクティブは重要です。というのも、それを等閑視してしまうと、有意義な問いや仮説を立てることを阻害する可能性があるからです。
――どういうことでしょうか?
ひとつ例をあげると、2011年からのシリア紛争でイスラーム主義勢力がなぜ台頭したのか、という問いがあります。これについては、せいぜい6〜7年遡れば、一定の説明を与えることができます。例えば、内戦や紛争による「破綻国家」が武装勢力やテロリストの温床となるという一般的な理解=答えがあり、実際にそうした分析が数多くなされました。
しかし、歴史的に見ると、そもそもシリアにおいて長年にわたって反体制諸派を率いていたのはイスラーム主義者たちでした。これを踏まえると、先ほどの問いの意義自体が揺らいできます。もちろん、当たり前だと思われてきたことの検証は大事ですが、それでもシリアの歴史から遊離した一般的な議論ばかりしていても、肝心なところを見落とし続けてしまいます。
読者の方からいただいた感想でも、「イスラーム主義が歴史的な出来事の連鎖のなかで論じられていることで、これまで断片的だった知識や情報がつながった」というものがいくつかありました。日本において、イスラーム主義の話題は一過性のものになりがちです。大きな事件があったときには注目されるが、すぐに忘れ去られる。その繰り返しです。その意味でも、歴史的なパースペクティブは重要だと思います。【次ページにつづく】
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