税としての時間

シリコンバレーは過労死が多い地域で有名で、ノンフィクションの本や、ドキュメンタリもいくつかある。
相も変わらず、ふらふらしていて、なんか面白いことがあるかなあーと考えて、ロスガトスという小さな町にアパートと事務所をつくってみたことがあったが、マジメで精力的な土地柄があわないというか、いかにも起業ばりばりのお友達が増えてしまって、こんなに忙しい空気はかなわんというので、行かなくなってしまった。

過労死って、英語でなんていうんですか?
と日本にいたとき聞かれたことがあるが過労死が英語でもkaroshiで、この日本語の単語があわらしている概念が、最もうまく悲惨な死の内容をあらわしているので、そのまま使うことになっている。
同じ英語になった日本語でもhoncho(班長)とは単語の成立の事情が異なっていて、おおげさにいえば、戦後の60年代くらいから急速にすすんだ日本文化への理解が反映されている。

過労死自体は、シリコンバレーのほうが、ひた隠しに隠してはいても公然の秘密といってよい日本の名うての過労死地帯、霞ヶ関官庁街よりも数が多いとおもうが、死に至る病のできかたは、おおきく異なっていて、シリコンバレーで過労死するのは、たいてい社長、それも起業家と分類されるのが適切な若い社長で、だいたいあと少しでIPOにこぎつける、というような時期に、幼い子供と奥さんを残して疲労の極で自殺する。

このこと自体、ここ数年では日本でもよく知られるようになってきているはずで、
相変わらず、「過労死はたしかに悲惨だが日本だけにある問題じゃない!」と述べる、「日本だけじゃないおじさん」たちに事実として愛用されているように見えるけれども、おおきな違いの、過労死はアメリカでは経営者が死ぬもので、日本では被雇用者が死ぬという違いから、うまく考えていけば突き当たりそうなアメリカと日本の社会文化の違いという、もうちょっと面白そうな方角へは、あんまり論をすすめる人がいないように見えなくもない。

自殺するくらいなら仕事をやめればよかったではないか、とマヌケな感想を洩らす人がいるが、過労死は仕事に生活を乗っ取られた人間が陥る一個の心理的セットで、仔細にみていけば直ぐに判るが、途中下車をする選択がない心理セットで、しかもこのセットは、個人を成功に導くセットと極めて近しい相貌をもっているところが問題なのです。

2011年頃の自分のブログを読むと、まだ日本で見聞きしたことをふり返ることが多かったのでしょう、日本社会における「時間」の扱われ方が強い印象に残っていたようで、10をくだらない数の日本社会における時間についての記事がある。

時間を取り戻す_経済篇
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/01/03/time/

日本の社会の最大の特徴は、個人から時間を搾取する仕組みが極度に発達しているところで、小学生のときから、中学入試への準備という形で、それはもう始まっている。
いま62歳になるHさんたちに話を聴いていて、週4回の近所への塾通いの上に、週末も日進や四谷大塚という大手塾に通っていたという。
自由自在や応用自在という面白い名前の分厚い参考書があって、それを教材の中心に、塾に通った。
当時は教育大学付属駒塲中学と呼んでいた筑波大学付属駒場中学に合格して、やっと息がつけるようになった。

そのあとは、案外のんびり勉強していても東京大学のどこかには、というのは理科3類、文科3類あるうちの、相当にバカでも文科三類には入学できた、といいます。
相当にバカ、は失礼きわまるが、この場合は本人が文科三類に入学した人で、このひとの他の友達に訊くと、「ああ、あの人は、どの類でも合格できたでしょうけど、変わり者で、文学がやりたいといって初めから三類を選んで進んだのですよ」ということだったので、許してあげなければいけないようでした。

余計なことをいうと、おっちゃんたちは酔っ払って、軽井沢の森のなかで怪気炎をあげることがあって、ぼくが一緒にいたBBQでは、「ガメちゃんね、トーダイトーダイって、堀江なんちゃらさんが得意がっているけど、理2文三はトーダイでなし、っていうのよ、などとチョーお下品なことを述べて、けけけけ、と笑いあっていたりしたので、トーダイのなかではトーダイ内部で、いろいろと差別があるもののようで、なんだか面白い気持になったりした。

閑話休題

義理叔父の、とーちゃんのとーちゃんの時代は、日本の社会はずいぶん違った様相だったようで、海軍将校だった母親側の祖父の忙しい暮らしに較べて、霞ヶ関の若い課長さんだった父親側などは、午後4時にはもう仕事をたたんでいたらしい。
それが不文律になっていて、20代で課長になって、俄然やる気がでて、どおりゃひとつ、今夜は未決箱を空にしてやるか、と腕まくりをする気持になっていたら、
だんだん課内がそわそわした空気になってきて、5時ちょっと過ぎた頃になると、
古手の課員が、申し訳なさそうに、あの、すみませんが、課長さんが定時前に帰らないと、わたしら課員が「あいつらが仕事をしないから、あの課は課長が頑張らないとならない」と陰口を利かれますんで、と言われて、ああそうか、そういうことがあるのか、と学習して、それからはどうしても「やっつけたい」仕事があっても、袱紗に包んで、家に持って帰るようにしていた。

この人の弟は、民間で、三菱の丸ノ内村に勤めていたが、やはり4時過ぎには終わりで、丸ビルでうなぎの蒲焼きとビールで、友達と他愛のない雑談をしてから、当時は地上から出ていた9番線の横須賀線で、鎌倉駅に着くまで、ビールの小瓶をちびちびやりながら帰るのが楽しみだった。

そうやって、インタビューを重ねてゆくと、どうやら、考えてみると当たり前である気がしなくもないが、ソニーやトヨタが急成長を始めた60年代くらいから長時間労働が当たり前になっていったようで、決定的に世の中がお下品になっていくのは、いろいろに符節があった時期で、東京都の教育委員会がとちくるって(としか読んでいておもえなかった)学区群制度を導入して、それまでは高校文化とでもいうべきものを繁栄させていた日比谷高校が実質的に解体されて、高校の評価が東大への入学者数で決まるようになって、高校の、例えば数学や英語の教育が定石教育とでもいうべきものに姿を変えていって、例えば英語教育においては、当時の「TIME」マガジンレベルの文章を読解することに焦点をしぼった語彙を集中的に暗記する、という、なんだか要領だけの、げんなりするような方法が全国を席捲するかとおもうと、数学は数学で、詰め将棋の学習にそっくりな、「この局面では、こうするのが最も有効」というような解法パターンに集中した教育になってゆく。

前に自分で東京大学の入試問題を解答してみたことがあった

https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/09/todai/

が、バルセロナの、大聖堂が遠くに見える丘の上のアパートで、早朝、大好きな炭酸水ヴィッチイカタランを飲みながら数学と英語の問題を解いて考えたことは、
記事には露骨には書かなかったが、「東大入試は暗記ではない。思考力を見るのだ」というが、こんな定石思考を徹底するような知的訓練は人間の脳をダメにするんちゃうかしら、と疑問におもった。
英語のほうは英語のほうで、長文読解と予備校が注釈をつけたやけに短い文章と、日本語試験のような英文和訳の問題で、ゲームが大好きなぼくとしては面白かったが、知的能力をたったあれだけで見られるのか、と考えることになった。
あるいは、ペーパー試験で、その場限りの時間内で大学レベルの思考力があるかどうか見る、という思想は、あのくらいが限界なのかもしれない、と考えたりした。
SATは日本と対照的な考えで、簡単な問題で、バカでないかどうかを検討して、大学に入ってからだんだん思考するということを教える仕掛けになっているようにみえるが、人間の発育過程に照らしても、現代では一見アホらしいアメリカ式の選別方法のほうが合理的なのかも知れません。

入試について長々と述べたのは、18歳以前の人間にとって、個人の時間を奪われる最大の元凶が学歴社会であるようにおもわれたからで、頂点ともくされるいくつかの大学に入れなかった大量の「敗者」を生みだしてしまうという問題とは別に、勉強という言葉で呼ばれている入試準備の技量を身に付けることが良いとされていることが、陰に陽に子供から時間を奪っていく。
ここで起きるのは日本という軍隊に限りなく似た社会での将校と兵卒の選別で、ここから先、将校に選ばれればまずまず時間も与えられて、やりたいようにやっていけるが、99%の兵卒組は、男女に関わらず、まるで地獄の泥沼を這い回るような低賃金と長時間労働の無間の闇を死ぬまで彷徨することになる。

日本人は生産性が低い、という。
もともとは日系企業に勤めたことがある人が、言い出したことであるとおもえて、ぼく自身がはじめて聞いたのは、連動王国から日本の財閥企業に就職した女の人からだった。
まず余計な仕事が多い。
自分の専門分野に集中させてもらえない。
少し深刻な話が続いたあとで、
「それに日本人て、仕事をするふりがとても上手なのよ。上司の目がないところでは、お茶を飲んで、こっそり自分の楽しみに耽っていたりするの、
懸命に仕事をして忙しいふりをする技術に関しては、日本人は芸術的な腕前をもっているとおもう」と朗らかに笑ったりしていた。

数字でみると、どんな感じだろう、と考えて眺めてみると、ニュージーランドと並んで先進国ちゅう最下位ということになっている日本の「生産性の低さ」は、しかし、性質がずいぶん違います。
ニュージーランド人の生産性の低さは、見れば一目瞭然というか、だって仕事しないもん、な生産性の低さで、年柄年中仕事をすっぽかして遊ぶに行ってしまうし、社長からして会議ちゅうにすっくと立ち上がって
「では諸君、ぼくは息子を学校に迎えにいかなければならないので、ここで失礼する」と述べて、二度目の結婚で生まれた小学生の息子を拾いに小学校へと去ってしまう。
つまり、考えてみると、この人は午後3時までしか仕事をしないわけで、社会全体が「オカネモウケしたいんならオーストラリアに行きな」のお国柄なので、万事ちょおのんびりで、英語世界ではナマケモノとして名前を轟かすオーストラリア人が衝撃をうけるほど仕事をしない。

日本人のほうは、労働人口ひとりひとりをみると、意外と、と述べては失礼だが、生産性が高くて、アメリカの平均くらいはあります。
ただその生産性のあげかたが、ちょっと息をのむような方法で、どんどんどんどん労働時間を延ばしていく。
印象でいうと1ヶ月の残業100時間なんてのはザラであるように見えます。
とても低い生産性の数字は、どうやら就業していない老齢人口が極端におおきいからで、ニュージーランド人に較べて「生産性」が1.8倍でも、隣の年金でラジコン機をとばしたり、いいとしこいて風俗でAIDSに罹っている(←日本は農村地区において特に老人の性病罹患率が高い)生産性ゼロのじーちゃんと足して2で割ると生産性0.9倍という理屈であるらしい。

前から何度も書いているので、もうここではあまり書かないが、日本人が個人の生活を楽しむ時間なしで、夜遅くに帰宅してテレビを観ながら夕食を食べるくらいの「個人生活」で満足して暮らしていけるのは、子供のときから、もともと自分の時間など与えられないことに慣れているからで、例えばニュージーランド人なら、ビンボな家に育っても、クリケットかラグビー、あるいはその両方に熱中して、テニスに興じて、天気がいよいよよくなるとヨットで海にでて、近所のクラブで乗馬して遊ぶ、夏休みに家族で稜線をたどってトランピングという子供時代をすごすのがあたりまえだが、日本にいて驚いたのは、スポーツも、テニスならテニスというひとつしかやらないことで、一方で本を読むというナマケモノの楽しみが「勉強」だということになっていたり、だんだん慣れて考えてみると、要するに社会の側が個人の時間をコントロールしてもいいことになっている社会なのだと判るようになっていった。

朝7時半の電車に乗った瞬間から、夜8時半の電車で自宅近くの駅に帰ってきて、歩いて家に戻る、13時間という時間は社会のために供出することになっているのが日本人と日本社会のあいだに交わされる契約で、個人の時間を取り上げられるということは、つまり生きさせてもらえないということだが、日本では、それが当たり前の慣習になっている。

その結果が、現在の社会の停滞であり、人間として生きられなかったことによって当然の帰結として非人間的なバケモノと化した年長世代がつくった非人間的な文化で、女とみれば性的対象として扱い、性犯罪は犯罪と意識すらされずに満員電車のなかで、あるいは女の人たちのアパートのなかで蔓延して、誰それを「いじる」という人間を非人間化する言語表現まで存在する社会になっている。

その原因となっているシステム的な時間の収奪について、この次に、もうちょっと考えてみたいとおもいます。

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