『WIRED』日本版の編集長に6月1日、松島倫明が就任した。テクノロジーとそのカルチャーが、ぼくたちの日常ばかりか地球をも包み込もうとしている2018年という時代に、新生『WIRED』日本版は何を目指し、実現し、そして社会に実装していくのか。読者の皆さんへの最初のメッセージであり、次のステージに向けた決意表明となるエディターズレターをお届けする。
学生時代、地元の自由が丘駅南口の改札を出ると青山ブックセンターがあって、そこにうず高く積まれていた創刊まもない日本版の『WIRED』に出合ったときのことを、ぼくはいまだに覚えている。
学生生協でMacintoshを初めて買ったころで(パソコンオタクだった兄に「アップルはもうすぐ潰れるからやめておけ」と言われたんだっけ)、『WIRED』の蛍光に輝くその誌面は、何かまったく新しいことが始まっているのだと、ぼくに語りかけていた。「DIGITAL LOVE & PEACE」というタイトルでぼくが卒論を提出するのはそれから間もなくのことで、それはパーソナルコンピューターが1968年を起点とするカウンターカルチャーから生まれたことを論じたものだった。
『WIRED』は1993年のその創刊において、ぼくらが〈デジタル〉というテクノロジーを手にしたことを、人類が〈火〉というテクノロジーを手にしたことの文明的インパクトに比肩させ、そこから生まれつつある新しいカルチャーや可能性を、ぼくたちに真っ先に提示してきた。そこにはカウンターカルチャーの理想主義が色濃く受け継がれていたし、同時に、来るべき「ニューエコノミー」への胎動と興奮が生々しく誌面に踊っていた。
つまりは、テクノロジーによって人類が次のステージへと歩を進めるのだという、楽観主義に根ざしたワクワクする〈未来〉へのヴィジョンを提示してきた。
テクノロジーとの共生の道を探る
名著『火の賜物』においてハーヴァード大学の霊長類学者リチャード・ランガムは、ヒトが火というテクノロジーを利用したのではなく、火そのものがわれわれの脳を増大させ、ヒトへと進化させたのだと説いている。その同じ〈火〉が、ときに大自然を焼き尽くし、生命を奪い、人間の制御の手を離れて(あるいは制御のもとで)大惨事を引き起こすことを、人類と地球はこれまで幾度となく経験してきたはずだ。
そして同じことがテクノロジーについても起こっていることを、いまや誰もが知っている。ヒトの脳を拡張させ、ヒトの進化を促すデジタルテクノロジーが、同時にあらゆる局面で大惨事を引き起こしていることを。
この2018年という時代において『WIRED』が変わらずあの〈WIRED〉であるためには、ぼくたちはここから出発しなければならない。
もはやカルチャーにとどまらず、政治・経済・ビジネス・公共・ライフスタイルのすべてにフロントラインを構えるデジタルテクノロジーという〈火〉を、ぼくら人間は傲慢にも制御しようとするのではなく、互いに共生する道を探っていかなくてはならない。なぜなら、『WIRED』US版の創刊編集長であるケヴィン・ケリーが著書『テクニウム』で描いた通り、テクノロジーと人間は共進化しているからだ。
その道筋を照らし、エキサイティングでときに困難なその方法を提示することが、『WIRED』の使命だとぼくは考えている。
たとえば1968年に「LOVE & PEACE」を唱えたカウンターカルチャーの担い手たちは、科学とテクノロジーが工業化社会を完成に導き、人間すらも部品のひとつとして組み込んで、核兵器や戦争、環境破壊を通して人間とこの地球を圧倒しようとした時代にあって、人間の側にある、人間を疎外しない、〈適正なテクノロジー〉を標榜した。
ヒッピーたちのバイブルだった『ホール・アース・カタログ』は、人間性を取り戻すためのツールを紹介するカタログだったわけで、そこで紹介されたパーソナルコンピューターとは、そもそも国家や大企業が特権的に所有していたコンピューターという巨大テクノロジーを大衆一人ひとりの手に取り戻すために生まれたものだった。
それはちょうど、〈自由〉というものがテクノロジーの野放図な進歩からではなく、自立共生的(コンヴィヴィアリティ)なツールからしか生まれないというイヴァン・イリイチのメッセージとも共振するし、だから尊敬してやまない前編集長の若林恵さんは、『WIRED』日本版においてイリイチをことあるごとにぼくたちに突きつけてきたのだと、改めて思う。そして、問題の核心が、そこにあるのだ。
パーソナルなコンピューターによって個人が拡張され、それがネットワークによって世界中で繋がることで、情報はフリーになり、あらゆるものがシェアされ、分散化され、脱中心化され、人々による共感のネットワークが広がり、社会は自立共生的なコモンズ(共有地)に至るはずだった。インターネットという脱中心化された情報のネットワークによって、知識や情報が誰にも独占されず、分散化したコミュニケーションによって新しい経済が到来するはずだった。
だけれど、現実にいまぼくたちが目にしているものは、まさにこのインターネットによって、ひと握りの超巨大テック企業が、データという新しい知識とコミュニケーションを独占している事実だ。
ぼくたちは失敗したのだろうか? それともまだ、〈未来〉は到来していないだけなのだろうか?
その問いに軽い既視感を覚えるのは、それがカウンターカルチャーの目指した未来だったからであり、まさにいま同じ夢が、ブロックチェーンという〈信用のインターネット〉によって、初めて真の分散化され脱中心化された社会が到来するのだという触れ込みで再び語られているからだ。
でも当然ながら、そんな社会が本当に来るのかはまだ誰にもわからない。その分散化された人々の〈信用〉をプラットフォームで束ねるデジタル・レーニン主義国家の足音は、すぐお隣からすでに聞こえてきているはずだ。
地球が壊れるのなら、イノヴェイションは必要だ
『ゼロ・トゥ・ワン』を書いたピーター・ティールは、「未来とは現在とその時点との差分だ」と言っている。つまり、ゼロから1を生み出すような大きな質的変化が起きない限り、これから何年経とうがそれは〈未来〉ではありえない、ということだ。ティールに言わせれば、こうした変化は「テクノロジーによるイノヴェイション」からしか起こりえない(それに対比されるのが、1をnへと増やしていくグローバリゼーションだ。もはや均質なグローバル化を地球環境が支えきれないことが明らかな以上、人類にはゼロイチの解決策が必要というわけだ)。
つまり未来とは、待っていれば来るもの(来るはずだったもの)ではなく、常にぼくたちがイノヴェイションを起こして選び取っていくものだということになる。だとしたら、ぼくらはどんな〈未来〉を望むのか? 『WIRED』とはいままでもこれからも、そうした問いそのものであり続けるだろう。
デジタルテクノロジーが人間の共感の届く範囲を拡張し、社会構造の質的変化を起こす未来を、たとえば文明批評家のジェレミー・リフキンは「限界費用ゼロ社会」として提示している。あるいはぼくが学生時代に『WIRED』の傍らで愛読していた思想家の柄谷行人は、近著『世界史の構造』において経済の交換様式に注目し、貨幣と商品を交換する「不平等/自由」な資本主義社会から、「平等/自由」な、まだ名もなき社会構造へのアップデートを図式化している。
柄谷はそれを理念的なものだとしているけれど、デジタルという新たな交換様式は互酬性で、潤沢さに根ざした再分配が可能で、多様な仮想通貨によってあらゆるモノが交換されていく。つまりはあらゆる交換様式を束ねて、その次の社会構造へとぼくたちを導いていく。
先に挙げた『WIRED』US版創刊編集長のケヴィン・ケリーが著書『〈インターネット〉の次に来るもの』で鮮やかに描いたように、デジタルがもつ特性は不可避的にその方向を指し示している。そして、ぼくがここで敢えて〈DIGITAL LOVE & PEACE〉を楽観的に語るのは、ケリーに言わせれば、その変化が「まだ始まったばかり」だからだ。『WIRED』はこれからもその変化を見届け、自由で平等な次の来るべき社会のヴィジョンを提示していくはずだ。
『WIRED』という〈ムーヴメント〉へ
これまで『WIRED』は、常にマジョリティによるカルチャーではなくサブカルチャーに注目し、ときとしてそれがスーパーカルチャーになるのを支えてきた。既存の体制の側ではなく、新しいムーヴメントを始めようとする人々の側を応援してきた。安易に答えを提示するのではなく、誰もが見過ごしている根源的な問いをメインカルチャーに突きつけ、周縁にあって、次の時代のイノヴェイションを起こそうとする若者たちがメインステージへと躍り出るのを応援してきた。
いまや、『WIRED』が体現してきたこの価値を、社会のあらゆる局面に実装するときが来た。『WIRED』はもはや単なるメディアではない。社会に真にポジティヴなイノヴェイションを起こすインキュベーション機能だ。そのために、スタートアップとグローバル企業、ミレニアルズとエスタブリッシュメント、アイデアと人、テクノロジーと身体性、ヴィジョンとリソースの橋渡しをし、実現するためのハブとなって、アクチュアルなプレイヤーたちと共に、次の時代を切り拓いていく。
DIGITAL LOVE & PEACE。
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松島倫明|MICHIAKI MATSUSHIMA
1972年生まれ、東京都出身、鎌倉在住。一橋大学にて社会学を専攻。1996年にNHK出版に入社。村上龍氏のメールマガジンJMMやその単行本化などを手がけたのち、2004年から翻訳書の版権取得・編集・プロモーションなどを幅広く行う。2014年よりNHK出版放送・学芸図書編集部編集長。手がけたタイトルに、デジタル社会のパラダイムシフトをとらえたベストセラー『FREE』『SHARE』『MAKERS』『シンギュラリティは近い』のほか、15年ビジネス書大賞受賞の『ZERO to ONE』や『限界費用ゼロ社会』、Amazon.com年間ベストブックの『〈インターネット〉の次に来るもの』など多数。18年6月、『WIRED』日本版編集長に就任。
ジャグリングについて知られていないであろう(極めて多くの)事実のひとつに、「ジャグリングが肉体的に非常に過酷なものとなりうる」というものがある。これは、世界記録保持者のジャグリングパフォーマーであるアレックス・バロンに会うまでは考えてもいなかったことだ。
最近、カリフォルニア州バーバンクのスカッシュ・コートで彼のジャグリングを見せてもらった。室内なので、ボールの軌道を乱す風が吹く心配がない。また天井が高く、スペースも十分にある。白い壁が均一な背景となり、軌道を描く物体の動きを追いやすい。宙を舞うものが時に10個以上にもなることを考えると、理想的な環境といえる。
現在23歳のバロンはジャグリングの「10ボール」「11ボール」「12ボール」「13ボール」「14ボール」における世界記録保持者だ。身長6フィート3インチ(約187.6cm)で関節が細く、筋肉は雑誌モデルのようにたくましい。その体格はギリシャの彫像を思い起こさせる。
ジャグリング数の記録更新を目指して練習しているとき以外は、サーフィンやロッククライミングを楽しむ。しかし、それだけハードなスポーツをやっていても、ペレットを詰めた袋[編註:ジャグリングボールのこと]を高々と投げ上げるのは体力を消耗するという。
「ジャグリングは肉体的に相当ハードです」と、彼は荒い息をつきながら言う。流れる汗は足元で水たまりをつくっている。「2日続けてジャグリングの練習をすると、かなり体にこたえますね」
人間は何個までジャグリングできるのか
バロンは2011年10月、13個のボールをすべて投げ上げてから1個ずつキャッチする技「フラッシュ」を成功させた最初のジャグラーとなった。その偉業をとらえた映像が流れると、ジャグリングで扱えるボールの数はいくつが限度かという、長年にわたる議論に再び火がついた。
ジャグリングを行う人々は、扱うボールの上限を14個とすることが多い。そもそも、この数を実験的に導き出したのは、コメディアンでパフォーマーのジャック・カルヴァンが1997年に発表した論文といえるかもしれない。
機械工学者でもあり、子どものころからジャグリングに親しんできたカルヴァンは、ジャグラーの手の動きの速度を測定するシンプルな装置を開発した。これを使ってデータを集め、最終的に人間は13個のボールを使ってジャグリングができるという結論を導き出した。もっとたくさんのボールを扱えるとは決して明言しなかったが、「15個のボールを使ったフラッシュが不可能とは言いきれないように思える」と彼は論文で述べた。
カルヴァンの論文はジャグラー界で議論を呼んだ。優れたジャグラーであり、バロンの好敵手でもあったピーター・ボーンはカルヴァンの論文に異議を唱え、ジャグリング好きが集まるサイト「jugglingedge.com」のフォーラムに「単純に手の動きの速さを測定するだけでは、抜け落ちてしまう要素があまりに多い」と書き込んだ。事例と経験則に基づいてジャグリングできるボールの境界値は14個だという。
1投目と14投目の「重さ」に7倍以上の差
「14という主張は、ジャグラー全般の経験から出ていると思う。例えば、同じく優れたジャグラーであるベン・ビーヴァーとぼくは14個のボールのフラッシュは可能だが、15個は無理だと考えている」。ボーンがこうフォーラムに書いたのは、2012年12月のことだった。
それから半年もしないうちに、バロンは自分の記録を更新し、13個のボールを使ったフラッシュに15回成功した。「14個のボールを使ったフラッシュにも挑戦している」と、彼はYouTubeに投稿した証拠映像に書き添えた。「でも達成までにはしばらくかかるだろう」
達成までには実際に、4年近くかかった。そしてバロンは17年4月、14個のボールを使ったフラッシュに成功した初のジャグラーとなった。そのパフォーマンスのすべてをじっくり味わうには、証拠として公開された映像を何度も繰り返して見るしかないだろう。とにかく手の動きが速いのだ。
ボールを投げ上げる直前、一瞬バロンは少し膝を落とす。そして、最初のボールを宙に放るために必要なエネルギーを両脚にためる。豆の入ったジャグリングボールは1個70gにすぎない。しかし彼が手にしている14個のボールすべてを投げ上げるとなれば、相当きつい作業になる。
最初のボールを投げるとき、バロンの右手には1.25ポンド(約567g)のものを宙高く放るときに匹敵するほどの重みが感じられる。2個目、3個目は、それぞれ1ポンド(約454g)を少し超える重みとなり、4個目、5個目でも、1ポンドより少し軽い程度だ。13個目、14個目まで来て、ようやく、2.5オンス(約73.3g)の袋を投げているような気分になる。
求められるのは「完璧な正確さ」
フラッシュという技そのものも難しいが、これだけたくさんのボールを扱うには、「放る」などという言葉から連想する気楽さを超えた正確さが必要だ。14回連続してボールを投げ、それをキャッチするには、すべて完璧といえるくらいでなければならない。
ジャグリングの世界では、ボール5個を着実に操れたら、かなり訓練を積んでいるとみなされる。何百時間とまでいかないにしても、何十時間と熱心に練習を重ねた成果だからだ。操るボールの数が7個になれば尊敬に値する。8個以上になれば、敬意から畏敬に近づく。
バロンが14個のボールでフラッシュを達成した際、その映像には次のような感嘆の声が寄せられた。
「ボールの数が増えるごとに難しさも増す。ぼくは9個まで認定され、10個のフラッシュもできるようになった。常に完璧を目指し、さらに10年以上も練習したけれど、まだ達成できていない。11個のボールでジャグリングし、14個のボールを使ったフラッシュも成功させるなんて驚異的だ! 人類にとって真の偉業だ! おめでとう!」
YouTubeのジャグリング・コミュニティでコメントを寄せる人々は、誰もがみな真剣で、人間味に溢れている。
クロード・シャノンのジャグリング理論
ジャグリングで要求されるスピードやバランス力、肉体に要求されるとてつもない適応力は、ほとんど計り知れないレヴェルだ。だが、まったく推し量れないわけではない。
このテーマで論文を書いて以来20年間、カルヴァンはジャグリング数の限界について研究を続け、その数を明確にしようと試みてきた。そして前回の分析に加え、ジャグリング特有の要素についても徹底した実験を行なってきた。「ハンドレンジ」(投げたものをキャッチできる範囲)、衝突回避、反応速度、そして努力などだ。
「今回の研究には、いい材料がすべて含まれています。前よりずっと優れたものになりました」とカルヴァンは言う。18年末には、このテーマで本を出版する予定だ。
彼の分析が引き出した結論とは、ボーンは正しかった、ということである。手の動きのスピードは、ジャグリング数を競う場合に制約となる因子のひとつにすぎない。しかも、小さな因子だ。それよりはるかに重要なのは正確さだとカルヴァンは言う。
カルヴァンの研究は、電気工学者や数学者として知られるクロード・シャノン(「情報理論の父」と呼ばれた、あのクロード・シャノンである。彼は、熱心なジャグラーでもあった)のジャグリング理論に基づいている。扱うボールが多くなれば、投げる高さ、頻度、精度、そのすべてを同時に高める必要があると詳述している。
そして、おそらく予想できるだろうが、ボールを投げ上げる高さや速さが増すほど、ボールが思い通りの位置に落ちてくるようにするのも難しくなる。
成功の鍵はスキルとセレンディピティ
18年5月上旬、バロンとともにロサンゼルスにあるカルヴァンの自宅を訪れて、彼の研究結果を聞き、実験を試みた。自宅裏につくられた天井の高いアクロバット練習場で、カルヴァンのハンドスピード・テストを受けたのだ。
手首に加速度計を付け、できるかぎりの速さで数秒間、エア・ジャグリングをやった(ジャグリングの真似をし、早回しにした様子を想像してほしい)。そのあと実際に、本物のボールでしばらくジャグリングをしてみる。
カルヴァンは実際にジャグリングを行うスピードと、ジャグリングの真似をしたときのスピードを比較し、わたしたちふたりの限界値を論理的に導き出した。それによれば、わたしは14個のボールを使ってフラッシュができる速さで手を動かしているらしい。
バロンの場合、エア・ジャグリングの速さで実際に手を動かせるなら、25個も同時にボールを扱える計算になるという。このスピードはカルヴァンが測定したほかの誰よりも速い。
バロンの記録を破る力をもつ人間は、ほかならぬバロン自身かもしれない。しかしそのためには、さらに何年もトレーニングする必要がありそうだ。幸運も少なからず必要だろう。
カルヴァンの説によれば、9個以上のボールを投げてキャッチできた人の大部分がボール同士の衝突を避けられたのは、たまたま幸運に恵まれたおかげだという。バロンは例外かもしれない。だがそのバロンですら、13個以上のボールを使ったジャグリングをする場合には、「スキルだけでなくセレンディピティ(思いがけない幸運)が関係しているのではないか」とカルヴァンは考えている。
だとすれば、15個のボールを使ったフラッシュを成功させるための鍵は、「経験的確率と理論的確率が一致する」 という「大数(たいすう)の法則」に隠されているのかもしれない。バロンのような優れたジャグラーならば、何度もトライするうちに自ら幸運を引き寄せられるだろう。
TEXT BY ROBBIE GONZALEZ
TRANSLATION BY YOKO SHIMADA
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大勢の聴衆が見守るステージに立ち、目の前の人々を「愚か者」呼ばわりするには図太い神経が必要だ。だが、ブロックチェーン・キャピタル(Blockchain Capital)でヴェンチャーパートナーを務めるジミー・ソンは、これをやってのけた。
それはニューヨークのヒルトンホテルで開かれた、世界最大規模の仮想通貨(暗号通貨)カンファレンスでのことだった。その発言に比べれば、黒いカウボーイハットにブーツという彼の出で立ちなど、とるに足らないものだった。
ソンは投資家であり、自身もビットコインに熱中している。にもかかわらず彼は、建物3階分を占める会場で行われていた数多くの展示、デモ、討論会のなかで、関心のもてるものはまったくなかったと言い放った。
さらにソンは、スポンサー各社のロゴが流れる巨大スクリーンを背にしながら、このような企業が取り組んでいる問題のほとんどはブロックチェーン技術を使わなくても解決できる、と語った。「ブロックチェーンがあらゆる問題を解決するようなものになることはありません」と、ソンは断言したのである。
彼に言わせれば、多くの企業は「ハンマー投げで釘を打とうとしている」ような状況だ。テクノロジーが先にあり、その利用目的をあとから探すような状態では、「今日の大企業でよく見られるようなガラクタが生まれるだけです」と、ソンは語った。
仮想通貨にまつわる危険な兆候
事実、仮想通貨ブームが過熱したこの1年で、カネ目当ての企業が次々と押し寄せ、ブロックチェーン技術をめぐる熱狂に乗じて利益を得ようとしてきた。そしてブームに好意的な報道に乗るかたちで、その株価は人工的に吊り上がった。
だがいま、少しずつほころびが見え始めている。ブロックチェーン技術を試したうえで、もっと扱いやすくて安価なテクノロジーで同じ目標を達成できることに気づいた企業が現れ始めているのだ。
こうしてソンは、宗教的とも思えるほどの仮想通貨への熱狂に一石を投じた。
仮想通貨の支持者は、世のなかの人々を「HODL」(ホドル、“HOLD”から転じてビットコインを保持し続ける人たちを指す)と「ノーコイナー」(ビットコインを嫌っている人たち)の2種類に分けたがる。だが、ある業界の人が同じ業界にいる大勢の人たちを冷笑するようになったら、それは危険な兆候だ。
ビットコインなどのデジタル通貨は、本質的には価値をもたない。それが価値を持つ理由は、価値があると人々が言っているからだ。
その製品にブロックチェーンは必要なのか?
しかし、各社によって練り上げられたビジネスのお祭り騒ぎが、問題解決のうえでは高価で非効率的なソリューションにすぎないとしたら、どうなるのだろうか。開発された製品が、その製品で解決すべき問題を探さなければならないようなものだとしたら──。
このカンファレンスで見かけたパネリストのなかで、「分散型ネットワークがほとんどの問題を解決する」という業界の信念にはっきりと異を唱えていたのは、ソンが初めてだった。
ソンが自分の考えを挑発的に語ったのに対し、同じく壇上にいたイーサリアム(Ethereum)の共同創設者であるジョセフ・ルービンは、落ち着いた様子で反論を述べた。すべてのブロックチェーンが非効率的で高価なものになる必然性はない、と述べたのである。技術が進歩すれば、もっと大規模なプロジェクトも可能になるというのだ。
だがソンは、熱い雰囲気を徹底的に会場から排除したいと思っているようだった。彼は、テレビ司会者のオプラ・ウィンフリーが自身の番組の観覧に来ていた全員にクルマをプレゼントした伝説的なシーンを真似て、「あなたはブロックチェーンを手にいれましたよ! あなたはブロックチェーンを手にいれたんですよ!」と叫んでみせた。
ソンが提起したのは、エンタープライズソフトウェア企業が提供するブロックチェーンソリューションのほとんどが、分散化からメリットを得ていないという問題だ。ビットコイン技術は、信頼ある第三者が取引や契約を管理する必要性をなくすと言われている。だが、現在出回っている製品のほとんどでは、銀行や弁護士、規制当局といった第三者が何らかのかたちで関与する必要がある。
ソンは、例えば国際貿易における標準化問題のように、ブロックチェーンでなければ解決できないと言われているものでも、既存の仕組みで解決できると主張した。たとえ現在のシステムが破綻しているとしても、そのシステムがブロックチェーンによって修復されることはないというのだ。「ブロックチェーンは魔法の粉ではありません。ブロックチェーンという粉を問題に振りかけても、問題は解決しないのです」とソンは語った。
「いくらでもビットコインを賭ける」
ソンは、「現在開発されているプロジェクトのほとんどは、5年後にはなくなっているはずだ」と述べた。これに対してルービンは、ソンが間違っているほうに賭けることを申し出た。
ソンが「いくらでもビットコインを賭けてもいい」と言うと、会場の後ろのほうから「100万ドル!」と叫び声がした(ルービンが保有している仮想通貨の価値は、10億~50億ドルと推定されている)。2人は討論会が終わってから賭けの条件を決めることを約束した。
最後にソンは、この会場で自分の考えを嘲笑したすべての人と、あとで話せるのを楽しみにしていると語った。司会者はこの発言を受けて、討論の間、自分のスマートフォンにツイートが届いたことを知らせる音が「文字どおり鳴り続けた」と明かし、きっと大勢の人がソンに話しかけてくるだろうと述べた。
ソンは後日、『WIRED』US版の取材に対し、ほとんどの人は友好的に話しかけてきたが、多くの人がソンは間違っていると説得しようとしたと語っている。「まるで、(粉末ジュースの)クールエイドを飲まないのは愚か者と言わんばかりの感じでした」とソンは語った[訳注:米国のカルト集団が建設した町ジョーンズタウンで1978年に集団自殺が起こった際に、信者たちがクールエイドに毒を入れて死んだことを暗喩している]。
TEXT BY ERIN GRIFFITH
TRANSLATION BY TAKU SATO/GALILEO
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まず、マルハナバチを特殊な吸入器で捕獲する。次にハチを冷蔵庫に入れ、動けなくなるまで凍えさせる。最後にハチを取り出し、その背中に簡略化された超小型QRコードを瞬間接着剤で貼りつける──。遊んでいるわけではない。QRコードこそが、昆虫学者たちが手にした秘密兵器なのだ。
これまで、研究者はハチのコロニーをのぞき込み、個々のハチの動きを事細かに記録してきた。しかし、「BEEtag」と呼ばれるこのシステムを使えば、カメラが昼夜を問わず数百匹のハチの動きを自動で記録し、それぞれの性格や個体間のやりとりを明らかにしてくれる。もちろん、ハチたちが冷蔵庫での“冬眠”から目覚めたあとの話だ。
『Nature Communications』誌に2018年4月3日付で掲載された論文で、複数の大学の共同研究グループは、幼虫への餌やりから巣の換気までのすべてを担う働きバチが、仕事を切り替えるタイミングをどのように認識しているかに着目した。具体的には、前任の食料調達係が死んだとき、別の個体はどのようにそれを認識し、役割を交代するのかを調べる研究だ。
それだけでなくQRコードを使ったこの研究技法は、ハチのさまざまな行動を理解するのに役立つ。それには殺虫剤の濫用が原因とされる集団全体の異常も含まれる。
マルハナバチの一種であるBombus impatiensは、一見すると無個性で機械的な習性をもつように思える。だが、QRコードで彼らの視覚を追跡したところ、実は個性に満ちた生物であることが明らかになった。
「それぞれの行動には膨大な個体差があったのです」と、論文の筆頭著者であるハーヴァード大学の生物学者、ジェームズ・クロールは言う。「単に食料係と世話係に分かれているだけでなく、同じ食料係のなかでも一部の個体は特に熱心で、日中ずっとひっきりなしに巣と野外を行き来していました」
巣の中を動き回る時間が長い個体もいれば、巣内の仲間とのやりとりが多い個体もいる。また、一部の個体はおおむね、ほかより活動的だったという。
ヒエラルキーも指揮命令系統も存在しない
ここでひとつの疑問が浮かぶ。危険に満ちた外の世界へ食料調達係として飛び立つ大役を、ハチたちは明確な命令を受けることなくどうやって分担しているのか。
「昆虫の社会は分散型で、典型的な複雑系です。部屋の照明はついているのに、住人は不在で、誰がつけたのかわからないようなものです」と語るのは、カール・ウーズ・ゲノム生物学研究所の所長、ジーン・E・ロビンソンだ。今回の研究には参加していないが、「働きバチに行動の指示を出す個体はいません。ヒエラルキーも指揮命令系統も存在しないのです」と説明している。
つまり、食料係が死んだとき(あるいはこの研究のように、おせっかいな研究者に捕まったとき)、どの個体が後任を引き継ぐかを決める要素がほかにあるということだ。
そこで研究チームは、コロニー内部でのハチの行動パターンに注目した。食料係が集めてきた食料を蜜壺に貯めこむ、「食料貯蔵庫」周辺での行動も含まれる。ちなみにマルハナバチは成虫なら花蜜を食べ、幼虫には花粉を与える。調査の結果、働きバチはそれぞれ巣内の異なる場所で活動するが、どの個体も毎日同じ場所に戻ってくることがわかった。
「その個体がそれまでどこにいたか。それだけが、どの個体が役割を交代するのかを予測できる要素のようでした」とクロールは言う。「ほとんどを巣の食料貯蔵庫で過ごした個体が、その場所に関する最も正確で最新の情報を持っています。『よし、そろそろ食料を集めに外へ出て、このまずい状態をなんとかしよう』という具合です」。冷蔵庫の牛乳を飲み干した人が、補充する責任を負う状況に似ている。
食料係を狙った捕食者からコロニーが襲撃された際、内部で起きているマルハナバチの複雑な動態をBEEtagシステムで解明できるなら、ヒトの脅威にさらされるコロニーで何が起きるかもデータ化できるかもしれない。「いま、わたしたちが取り組んでいるのは、昆虫の神経に作用する殺虫剤をハチに投与して、巣内の行動がかく乱されるかどうかを検証することです」と、クロールは言う。
研究者は通常、薬剤の影響を評価する際に、半数致死量という指標を利用する。「Lethal Dose(致死量), 50%」を略して「LD50」と呼ばれることもあるこの指標は、投与された集団の50パーセントが死ぬ量を意味する。しかし、この指標ではコロニーの複雑な社会構造は考慮されない。
「社会的な側面に注目するのはきわめて重要です」と語るのは、ブリストル大学の生物学者で、自身もBEEtagを使った研究を行うサム・ダッカリンだ。「マルハナバチの場合、致死量はミツバチと同じでも、個々のハチの死がコロニー全体に与える影響ははるかに大きいはずです」。ミツバチのコロニーは数万匹にのぼるが、マルハナバチでは普通200匹程度であり、どの1匹が欠けても大きな損失なのだ。
いまのところ、ハチを冷やしてタグをつける作業が多少面倒だという問題はある。だが遠からず、規制当局が殺虫剤の使用を認可する際には、BEEtagを利用した評価試験が必須になるかもしれない。「理想としては、いずれこの種の装置を比較的容易に大量のサンプルに適用できるようになることです。あらゆる化学物質の評価試験で使用されることが望ましいでしょう」とダッカリンは言う。
QRコードは商品を売り込むために使われるイメージがあるかもしれないが、ようやくそれに留まらない有益な使い道ができたのだ。
TEXT BY MATT SIMON
TRANSLATION BY TOMOYUKI MATOBA/GALILEO
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太陽の光から遠く離れた海の暗い深みのなかでは、無数の生物が暮らしている。夜になると、彼らは食べ物を求めて海面に向かって上がってくる。それは素晴らしいダンスだ。彼らが行うこうした毎日の移動は、地球上で最も大規模な生物移動とも言われている。
海洋写真家のスコット・トゥアソンは、しばしばその現場に立ち会っている。深海生物やプランクトンたちがレンズの前を通りすぎる様子をとらえられるよう、カメラを携えてだ。
クラゲに乗るタコ、マングローヴの葉でサーフィンを楽しむシマアジ、交尾するシーバタフライのカップル。「ほとんどすべてのダイヴィングが、いままで見たことのないものに近づく機会を与えてくれます」と彼は言う。
トゥアソンが父親から初めて防水カメラをもらったのは30年前のことだった。それ以来彼は、フィリピンで水中写真を撮り続けてきた。
5年ほど前、トゥアソンはすべてを見尽くしたような気がし始めていた。しかし、夜の開放水域で初めてボートからバックロールエントリー(船べりに腰かけた状態から海へ入っていくダイヴィングのやり方)に挑戦したときのことだった。その瞬間、彼の目の前には神秘的な新しい世界が広がった。「岩礁の近くで昼間にダイヴィングをしていたら、この光景は見られません」と彼は言う。
ストロボの光で美しく輝く生物たち
海が穏やかな夜、トゥアソンはウェットスーツを着て撮影道具一式をボートに積み込む。岸から数マイル離れると、ボートのエンジンを切り、65フィート(約20m)のナイロンロープを下ろす。ロープにはおもりと撮影用ライト、浮きがつけられている。
防水ケースに入れられ、ストロボ2台を取り付けられた「Nikon D5」を持って、海に潜る。生物たちはストロボの光に近づき、闇のなかで宝石のように輝く。彼は誰も驚かさないように、ゆっくりと静かに彼らのほうに移動する。「クラゲのなかには、ストレスを受けると触手を引っ込めて丸くなってしまうものもいます」とトゥアソンは言う。
クラゲの触手と傘の間に挟まって身を守るアジの稚魚、胸ビレの下にヒメイカをかくまうトビウオなど、ありとあらゆる色彩豊かなキャラクターたちが泳ぎ過ぎていく。トゥアソンは、次に何が現れるのかわからない「黒い世界」に、少し緊張し、少し興奮しながら身を置く感覚が大好きだ。
「夜の海が見せてくれるものは、たとえそれが何であれ、いつも贈り物なんです」と彼は語った。
TEXT BY LAURA MALLONEE
TRANSLATION BY HIROKI SAKAMOTO/GALILEO
外部リンク
ある生物から別の生物に記憶を移し替えることは可能だろうか? そんなことはSFのなかの出来事のように思える。しかし現在、わたしたちは人工記憶の合成と呼べる行為の実現に少しずつ近づいている。
事実、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の生物学者グループは、ほかの標本で訓練されたアメフラシのRNA(リボ核酸、遺伝情報に限らず情報を運搬する分子)を移植することで、訓練の記憶も移転できることを発見した。研究論文の著者たちによれば、これは非常に有望な事実だ。
将来的には心的外傷後ストレス障害(PTSD)に対する新しいアプローチを開発したり、アルツハイマー病のような神経変性疾患が原因で失われた記憶を回復させたりすることができるようになるかもしれないのだから。
RNAが記憶をコピーする
デイヴィッド・グランツマン率いるUCLAの生物学者グループは、何匹かのアメフラシにある特殊な訓練を課した。20秒ごとに1回ずつ、計5回の軽い電気ショックをしっぽに与えたのだ。これは24時間後に再び繰り返された。
訓練の目的は、この動物の防衛的収縮の反射を向上させることだった。防衛的収縮とは、攻撃を受けた際にダメージを抑えるために行われる本能的な反応である。
そして実際、再びこの動物を刺激することによって、研究者たちはアメフラシが“敏感”になったことに気づいた。防衛的収縮が、平均50秒持続したのである。一方、訓練を受けなかったグループの収縮が持続したのは約1秒間だった。
この結果を得て、生物学者たちはアメフラシからRNAを採取した。訓練されたアメフラシから抽出されたRNAは、訓練されていない7匹に移植された。そして同じことが反対のグループのRNAに対しても行われた。
そしてこれらは移植されたあと、電気ショックにかけられた動物たちと同じような振る舞いを始めた。訓練されたことがなかったにもかかわらず、移植を受けたアメフラシは防衛的収縮を平均して40秒持続させたのである。これに対して反対のグループでは、何の変化も見られなかった。
学術誌『eNeuro』で発表されたこの研究には、アメフラシの感覚細胞や運動ニューロンに対する試験管内実験も含まれている。実際に訓練を課された動物は、感覚細胞がより反応しやすくなることがわかっている。
研究者たちは、この状態が特殊なRNAの存在によるものかどうかを検証したかった。そして結果はその通りだったのだ。訓練されたアメフラシのRNAと接触していると、培養された感覚細胞はより反応しやすくなっていた(しかし、運動ニューロンはそうならなかった)。
人間へ応用できる可能性も
RNAは細胞のメッセンジャーだ。これはDNAに貯蔵された遺伝子情報のコピーであり、タンパク質の合成を可能にする。しかしそれだけではない。もはや何年も前から、科学者たちは細胞が適切に機能するために非常に重要なほかの機能も知っていた。
例えば、遺伝子発現を制御する役割がそうだ。RNAが変化すると病気を引き起こす可能性があるのだという。そして今回の研究により、RNAに関する知識はさらに広がった。これが記憶のメカニズムにもかかわっているらしいことを発見したのである。
さらにグランツマンによると、この研究は記憶がシナプスのレヴェルだけでなく、ニューロンの核の中にも貯蔵されていることも示しているのだという。
これはアメフラシに対する実験にすぎず、人類とは大きく異なる生物だと反論する人もいるかもしれない。しかし、グランツマンによれば、アメフラシは(人間の1,000億に対して約2万の細胞で構成される神経系をもつにすぎないにもかかわらず)記憶のメカニズム研究のための最も優れたモデルとなる動物のひとつなのだという。実際、そのメカニズムはわたしたちのものと似ている。
わたしたちは長い道のりのスタート地点に立っているだけである。だが、研究者たちは結果が実に有望なものであると考えている。
ひょっとしたらそれほど遠くない将来、病気で記憶を失った人の記憶を回復させたり、PTSDによる機能障害を治すための新しいアプローチを開発したりできるようになるかもしれない。とはいえ短期的には、まずどのようなタイプのRNAが記憶の運搬を司っているか特定することから始めねばならないだろう。
TEXT BY MARA MAGISTRONI
TRANSLATION BY TAKESHI OTOSHI
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カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のコンピューター神経心理学者アリアナ・アンダーソンは、第1子を出産したときに新米ママのご多分に漏れず、赤ちゃんの泣き声をどう解釈していいのかさっぱりわからなかった。どんな泣き声、どんなわめき声も、出産後の脳には緊急警報のように響いたのである。
だが第3子が生まれるころには、いつのまにか赤ちゃんの「言語」を難なく解せるようになっていた。アンダーソンの耳は、赤ちゃんの泣き声のうち、どれが「おなかがすいた!」を意味し、どれが「おむつを替えて!」にあたり、どれがもっと深刻な状況、すなわち痛みを伝えるものなのかを学習していたのだ。
それと同じことができるように、アルゴリズムをトレーニングできないだろうか。アンダーソンはそう考えた。
5年後、1,700人を超える赤ちゃんと無数の泣き声の分析を経て、アンダーソンの人工知能(AI)翻訳機が完成した。「Chatterbaby」と呼ばれるこの無料アプリは、周波数の変化や「無音と音」の比率のパターンを解析し、赤ちゃんが泣いている理由を親たちに教えてくれるというものだ。
現時点ではアプリのヴォキャブラリーはごく限られており、空腹と不機嫌と痛みとを区別できる程度である。だが、このアプリを使う人が増えれば増えるほど、赤ちゃんの脳で起きていることを正確に解釈できるようになるはずだ。
自閉症発覚までの知られざる「格差」
このChatterbabyアプリは、新米の親や耳の聞こえない親、あるいは単に途方に暮れて睡眠不足になっている親たちを助けるためだけのものではない。膨大なデータを収集することで、泣き声のパターンの不規則性が自閉症のシグナルになりうるのか、そしていつの日か、泣き声をもとに自閉症を診断できるようになるのか、その可能性を探るためのツールでもある。
「脳の多様性」は、子どもの脳の発達が始まった瞬間から存在する。だが、自閉症スペクトラムのどこかに当てはまりそうな子どもが、そのうちのどれに分類されるかを特定するまでには、何年もかかることも珍しくない。
特に、歴史的に医学研究施設が対象にしてこなかった貧困層などのコミュニティでは、その傾向が強い。人は一人ひとり違うが、早い時期に独自のニーズに応じて励まされて世話をされた子ほど「定型発達」の世界でうまくやっていける点では、医師も教育者も意見が一致している。
アンダーソンは、ほとんどの自閉症研究が社会経済的に恵まれた白人層で実施されている点を指摘したうえで、「わたしたちは研究室を実際の子どもたちがいる場所に持ち出そうとしています」と語る。有色人種の子どもが自閉症と診断される時期は、一般に白人の子どもと比べて1~2年遅い。「こうした医療格差に対応するための手始めは、より良質なデータを集めることです」とアンダーソンは言う。
泣き声だけで機械学習モデルを構築
そこで登場するのが、Chatterbabyだ。このアプリの使用にあたっては、赤ちゃんの親は研究同意書に署名する必要がある。これにより、アプリを通じて記録された音声ファイルをUCLAが収集し、個人を特定できないようにしたうえで、HIPAA(Health and Insurance Portability and Accountability Act:医療保険の携行性と責任に関する法律)に準拠したサーヴァーで保存することが可能になる。
ユーザーにはアンケートへの記入も求められている。このアンケートは、発達状況が標準とは異なる可能性が高い乳幼児の特定に役立つものだ。例えば、視線回避や頭を打ち付けるなどの行動は、手がかりになる可能性がある。また、自閉症スペクトラムと診断された第1度近親者(親子、兄弟姉妹)がいる場合も、遺伝的要因から自閉症の可能性は高くなる。
このアンケート調査は、子どもが6歳になるまで毎年実施される。また、Chatterbabyアプリを通じて、2歳を超えた幼児用のオンライン・スクリーニング・ツールも利用できる。このため不安をもつ親が、かかりつけの小児科医とともに追跡調査をすることも可能だ。
Chatterbabyのすべてのコンテンツは、英語とスペイン語の両方で提供される。アンダーソンのチームは、そうしたすべてのデータと音声ファイルを組み合わせて、泣き声だけをもとに各種の自閉症を予測できる機械学習モデルを構築する計画だ。
あらゆる生理学的データを統合して読み解けるか
これは野心的な目標である。ブラウン大学の「危険因子をもつ子どもに関する研究センター(Center for the Study of Children at Risk)」の心理学者、スティーヴン・シャインコフなどの自閉症研究者は、泣き声のなかに神経学上の強力な手がかりがあることを実証している。とりわけ、泣き声のピッチ、勢い、響きといった音響的特徴に潜む手がかりは有力だ。そうした特徴は、専用のソフトウェアを使って視覚化し、定量化することができる。
だがそうした手がかりだけでは、おそらく診断を下すには不十分である、とシャインコフは指摘する。それよりも、声、行動、そのほかの生理学的データの組み合わせをすべて、ひとつのモデルにまとめるほうが有望だろう。「これらの異質な情報を統合することは、まさにAIと機械学習が真価を発揮できる分野です。ほかの方法では意味を読み解くことが難しいでしょう」と、シャインコフは語る。
そして技術的な可能性はあるかもしれないが、自閉症診断を幼い時期に下すことの有効性には疑問があるとシャインコフは釘を刺す。そうした時期の能力や課題の詳細は、解明されたとはとうてい言えない状態だからだ。
「偽陽性の誤診に危険がないわけではありません」と、シャインコフは言う。「(偽陽性の診断により)親の子どもに対する考え方や触れあい方が変わりますが、それ自体が子どもの発達に影響を与える可能性があるのです」
AIベースによる自閉症診断の分野はある程度進んでいるが、それに比べて脳の発達が通常とは異なる子どもの支援方法を巡る研究は大きく後れをとっている。また、利用可能な支援リソースの社会分布には偏りがある。
こうした現状では、アルゴリズムだけでよい結果を社会全体に行きわたらせることはできない。だがアルゴリズムが、その手始めになる可能性はあるだろう。
TEXT BY MEGAN MOLTENI
TRANSLATION BY CHISEI UMEDA/GALILEO
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エボラ出血熱の致死率は50パーセントを超える。そしてコンゴ民主共和国では、この感染症は悲劇的なまでによく知られている。1976年にウイルスが発見されてからこれまでに、同国では8回もエボラ出血熱の大流行があった。
そして現在、9回目のアウトブレイクが発生しつつある。感染例は疑いのある症例も含めると46件に上り、死者は26人に達している。
今回のアウトブレイクが過去のものと違うのは、感染例のうち4件は都市部で確認された点だ。コンゴ共和国との国境に近い西部のムバンダカという人口100万人超の都市で、首都キンシャサとの交通の便もいい。つまり、都市での感染拡大という恐ろしい事態が起きる可能性がある。
NPOの「国境なき医師団(MSF)スイス」のミカエラ・セラフィニは、「農村部なら接触者は10人程度で済むかもしれませんが、都市部では発症後の2日間で50〜60人と接触する可能性もあります。結果として深刻な影響がもたらされるのです」と語る。
しかし、違いはもうひとつある。今回はワクチンが存在するのだ。
リングワクチン接種の実施という挑戦
現地の医療従事者や感染性廃棄物の処理に当たる人などを対象に、5月21日から「rVSV-ZEBOV」と呼ばれるエボラワクチンの接種が始まった。今後は感染者と接触した人や、2次接触者にも接種が行われる。リングワクチン接種と呼ばれ、緩衝ゾーンをつくることで感染拡大の阻止を目指す手法に基づく接種プログラムの実施も予定されている。
ワクチンは厳密にはまだ臨床試験段階にあり、アウトブレイクにおける接種プログラムの展開も初めてとなる。このため、医療関係者は被害を食い止めるだけでなく、ワクチンが感染拡大という現実の状況でどれだけ効果があるかを調べたいと考えている。
セラフィニは「医療的に正しく適切なことが行われなければならない研究の段階にあります」と言う。「対象者にはきちんと説明したうえで、ワクチン接種の同意を得なければなりません。同時に、臨床実験のプロトコルについて訓練を受けた専門家が必要となります。アウトブレイクのような緊急時において、こうしたことを確保するのはかなりの難題です」
世界は過去の悲劇から学んできた。2014年に起きたパンデミックでは、13年後半にギニアで最初の症例が報告された。感染はその後、西アフリカ全土に広がり、1万1,000人以上が死亡したとされる。
しかし、科学者や医療関係者はここから重要な教訓も得た。治療や隔離施設の運営についての効果的な方法を学び、迅速な検査、そして防護服や医療手袋などの装備の重要性を理解したのだ。
最有力視されていたワクチン
一方で、エボラ出血熱そのものの研究も進んでいた。アメリカは冷戦期に、旧ソヴィエト連邦がエボラを生物兵器として利用するのではないかとの疑念を抱いた。このため、陸軍感染症医学研究所(USAMRIID)では1980年代からワクチン開発の取り組みが進められており、西アフリカでの大流行までに10以上の異なるアプローチによる研究が行われていた。
なかでも有力視されていたのが、水疱性口炎と呼ばれる感染症を引き起こす水疱性口炎ウイルス(VSV)に手を加えたワクチンだ。USAMRIIDはカナダ公衆衛生庁と協力し、VSVの糖タンパク質遺伝子を、ザイールで発見された特に悪質なエボラ出血熱を引き起こす種類のエボラウイルスのそれと置き換えた。
rVSV-ZEBOVというワクチンの名前を見れば、すべてがわかるようになっている。遺伝子ヴェクター[編註:組み替えDNAを運び込む役割を果たすもの]が組み替え(recombinant)VSVで、ザイール(Z)のエボラウイルス(EBOla Virus)と闘うことを目的としている──というわけだ。
このワクチンはネズミなどのげっ歯類やサルには非常に効果があった。開発に携わったテキサス大学医学部ガルベストン校のウイルス学者トム・ゲイスベールは、「VSVワクチンは明らかに最も有望でした」と言う。「ほかのワクチンはたいていの場合に複数回の接種が必要でしたが、VSVワクチンは1回の接種で有効になります」
パンデミックという“好機”
西アフリカでのパンデミックは、ある意味ではチャンスでもあった。世界保健機関(WHO)は関係機関と協力して、リングワクチン接種で1次接触者と2次接触者にワクチンを与え、rVSV-ZEBOVの実験を行うことができたからだ。
感染が拡大する状況でワクチンを試すのには複雑な問題がある。なぜなら、効果を見るために対象者をワクチンを接種するグループと接種しないグループに分けることには、道義的な問題があるからだ。
潜在的に命を救える手段があるなら、潜在的な感染者にそれを与えないわけにはいかないだろう。このため、特定のグループには接種の時期を遅らせるという方法がとられた。
最終的には4,000人以上が接種を受け、誰もエボラに感染しなかった。ただ、ワクチンの接種が行われたときにはパンデミックは収束に向かいつつあり、ピーク時よりは感染の脅威がはるかに低かったことも事実だ。
rVSV-ZEBOVの生産を請け負う製薬大手のメルクは、コンゴに7,500回分のワクチンを寄付した。一方、子どもへの予防接種の普及を進める「Gavi, the Vaccine Alliance」は、ワクチン接種プログラムの運営に100万ドル(約1億900万円)の支援を行なっている。
ただ、こうした支援を生かすには、ワクチンを接種すべきなのは誰なのか特定する必要がある。まず「接触者」を正確に定義し、それに該当する人を探し出して、rVSV-ZEBOVがどのようなワクチンなのか説明し、同意を得た上で摂取を行う。そして接種後もフォローアップして、実際に効果があったのか確認しなければならない。
ワクチンの温度管理という課題
同時に、ここで素晴らしいことが起こった。ギニアの医療チームが、トレーニングや検査業務などにおける協力を申し出たのだ。ボストン大学国立新興感染症研究所の感染管理所長ナイード・バデリアは、「西アフリカが専門知識を提供しようとしているのです。南と南の協力です。過去にアウトブレイクを経験した医療関係者たちは、そこから得たものを共有することができるでしょう」と話す。
ただ、今回は事情が少し異なる。都市部での感染コントロールには利点もある。昨年に農村部でエボラ出血熱が流行した際には、赤道直下の気候の下、ワクチンの温度を15〜25℃に保ちながら長距離を移動しなければならなかった。医薬品の温度管理は今後も続く課題だ。家庭用の冷蔵庫を使えば0℃前後に冷やしておけるが、これを維持するには安定した電力の供給が必須になる。
ワクチンはWHOの「専用の運搬車」で、アウトブレイクの中心地であるムバンダカとビコロに設置した冷蔵設備まで運ばれる。セラフィニによると、rVSV-ZEBOVは8℃以下であれば数日は保存が可能で、多少は時間的な余裕が生まれる。
農村部では人の移動は限られているため、感染は遠くまでは広がらない。これに対し、都市部では人の移動が激しいだけでなく人口密度も高く、接触の機会は増える。バデリアは「接触者と見なされるグループ全員を把握するまでは、決めの一撃を放つことはできないのです」と説明する。
それでも、ワクチンの存在によって今回のアウトブレイクは、過去のそれとは違うものになっている。まだ臨床試験段階ではあるが、「わたしたちはこれまでに使ったことのないツールを手にしています。感染症との闘いのダイナミクスが変わっていくのです」と、バデリアは言う。
「いま大切なのは、現地で感染者を見つけることです。そしてワクチンの保管方法、接種プログラムの策定と実施、その後のモニタリングといったことにどう取り組むかが課題になります」
これは新しいゲームである。そして参加者は、ルールを学ばなくてはならないのだ。
TEXT BY ADAM ROGERS
EDITED BY CHIHIRO OKA
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今年1月に騒がれていた「Meltdown」と「Spectre」というCPUの脆弱性を覚えているだろうか。ハードウェアレヴェルの問題で、サーヴァーやデスクトップからタブレット、スマートフォンに至るまで、あらゆるデヴァイスでハッキングの恐れがあることが明らかになった。
問題の脆弱性は、CPUの高速化に用いられるごく一般的な方法に起因するもので、メーカーは慌てて修正プログラム(パッチ)を配布した。しかし、その影響でチップの処理速度が低下するといった“二次災害”も発生している。
同時に大きな懸念もあった。MeltdownとSpectreはまったく新しいタイプの攻撃に対する脆弱性で、専門家は将来的に同様のセキュリティホールが見つかる可能性があるとの見方を示していたのだ。
そして今回、実際に亜種が発見された。
マイクロソフトと、グーグルのセキュリティーチーム「Project Zero」は5月21日、「Speculative Store Bypass (SSB) Variant 4」という新たな脆弱性を公表した(「Variant」の1と2はSpectre、3はMeltdownに分類される)。この脆弱性はインテル、AMD、ARMのチップで問題が確認されている。
悪用された場合は通常ならアクセス不可能なデータを読み取ることができる。攻撃はブラウザの広告表示に使われるJavaScriptの特定のモジュールなどから実行が可能だという。
またしても処理速度の低下が問題に
マイクロソフトによると、SSBのリスクは「低度」で、インテルもハッカーがこの脆弱性を利用した痕跡は見つかっていないとしている。また、ブラウザーを含む一部のシステムは、MeltdownとSpectre向けの前回のパッチで対応できているが、半導体メーカーとソフトウェア企業はSSB専用の修正プログラムを提供する方針だ。そして、前と同じパフォーマンスの低下という問題が見込まれている。
この問題について、インテルのレスリー・カルバートソンは声明で、「セキュリティ関連の問題は多くの場合において、どうなるか予測が可能です。これには前回に起こったことも含まれます」と説明している。
ソフトウェアのアップデートでは、影響を軽減するためのSSBの保護はデフォルトでは無効になっている。だが、「有効にした場合、全体的なパフォーマンスにベンチマークスコアで2〜8パーセント低度の影響が出ることが確認されています」と、カルバートソンは指摘する。
現在使われているプロセッサーは、処理命令を事前に推測して先に実行しておく「投機的実行(speculative execution)」と呼ばれる技術を採用する。一連の問題はすべて、この投機的実行を悪用したサイドチャネル解析の脆弱性だ。ハッカーは投機的実行のプロセスでデータを保護する仕組みの欠陥を突いて、データにアクセスしようとする。
こうした攻撃には、比較的単純なソフトウェアとファームウェア(ハードウェア内のメモリに記録された組み込みソフトウェア)のアップデートで対応が可能だ。しかし、チップの基本的な動作を調整する「マイクロコード」を変更する必要があるため、ソフトウェア開発者はマイクロコードの修正に関しては半導体メーカーに頼ることになるだろう。
安全性か、処理速度か
一方、ユーザーはアップデートごとに、それをインストールするかどうかを考えなければならない。なぜなら、攻撃の危険性を減らすには処理効率を犠牲にすることになり、システムが遅くなる可能性があるからだ。
MeltdownとSpectreの修正プログラムでは、実際にパフォーマンスの低下が起こった。SSBの危険性はそれほど高くないとされており、ユーザーはパッチを含むアップデートをインストールする前に、マイナスの影響を天秤にかける可能性もある。
マイクロソフトは昨年11月にはSSBを巡る調査を始めていたと明らかにしている。この時点でMeltdownとSpectreの問題も明らかになっていたが、問題を公表したのは1月になってからだった。また3月には、投機的実行のプロセスを悪用した新種の攻撃を見つけた場合、25万ドルの賞金を出すと明らかにしている。
ほかにもグーグルやインテル、多くのセキュリティ企業などが、同様の問題の発見に取り組んでいる。この種の欠陥への対応の複雑さと、メーカーが発表する修正プログラムへの依存度の高さを考慮すれば、SpectreとMeltdownでの経験はSSBに効率的に対処するうえで役立つだろうと、専門家は指摘する。
長期にわたる影響への懸念
商用のLinuxディストリビューションなどを提供するRed HatでARMの設計主任を務めるジョン・マスターズは、「まだ調査を始めたばかりで、『投機的実行だ、何が問題なんだろう』とつぶやいていました」と話す。Red Hatはセキュリティ業界の共同作業の一環として、SSBの調査結果に早くからアクセスが許されていた。
「SpectreとMeltdownは大きな問題でしたが、今回はこれが起こっていたことが幸いしました。SSBでは以前に学んだことを生かして、アップデートをより簡単にするために多くの努力がなされています」
専門家によると、この種の攻撃に関する詳細な研究が進めば、それだけ投機的実行に絡んだ新しい問題が起こる可能性は低くなっていく。また業界関係者は、SSBが大惨事につながることは恐らくないという事実に安堵しているだろう。
しかし、今回のようなセキュリティホールは、相当数のデヴァイスが長期にわたって影響を受ける点にその危険性がある。脅威を完全に取り去るには、脆弱性が見つかったチップを内蔵するデヴァイスを、ほかの安全なチップが搭載された新しいデヴァイスと徐々に交換していくしかない。
このプロセスには年単位の時間がかかる。そしてその間、これらのデヴァイスは、ニッチではあるが成功すれば確実に効果がある攻撃の脅威にさらされ続けるのだ。
TEXT BY LILY HAY NEWMAN
EDITED BY CHIHIRO OKA
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「スター・ウォーズ」ファンの世界には、いわゆる普通のファンだけでなく、ちょっとカテゴリーの違うファンがいる。コスプレイヤーや、Funko(ファンコ)のフィギュアを全部そろえる人、あるいは「クロール(映画のオープニングで流れる、舞台背景を説明した文章)」を暗唱する人と、さまざまだ。
グレッグ・ディートリックもそのひとりだ。彼はアラバマ州ハンツヴィルにある自宅ガレージで、6年という年月を費やして「ミレニアム・ファルコン」の象徴的なコックピットの実物大レプリカをつくり上げたのだ。
5月4日は「スター・ウォーズの日」(映画の中のセリフ「May the Force be with you」にちなんでいる)だが、2018年の5月4日はただの記念日ではない。ディートリックがミレニアム・ファルコンのフライト・コンソールをつくろうと決心したのが、6年前のこの日だったのだ。
ファンたちも大盛り上がり
ディートリックは6年前、「スター・ウォーズの日」から数日後に、自分の計画を「rpf.com」に投稿した。「RPF」は、スクリーンに映った家具などの備品や小道具を本物そっくりにつくることに情熱を注ぐファンたちの情報交換の場だ。
ディートリックは当時を振り返りながら、こう語る。「模型の画像を投稿していたら、誰かが『コンソールをつくるなら、後ろの壁もつくるべきだよ』と言ったんです」。すぐにほかの人たちもこれに同調し、ディートリックは近いうちに光速で飛ぶことは絶対にないプロジェクトにどっぷりとはまることになった。
ディートリックのような「ファルコン通」なら、自分がつくる「コレリアンYT-1300軽貨物船」のレプリカは、8歳のときにスクリーンでこれが飛び去って行くのを初めて見て圧倒されたのと同じくらい、忠実なものにしたいと思うはずだ。
当時の映画制作者たちは、航空機用安全装備メーカーであるマーチンベーカーが製造した「Mk.4」型の射出座席に手を加えて、誰もが欲しがる人気のコックピット操縦席へと変身させた。彼らが座席をどのように変更したのかを知りたいと思ったら、映画の映像をキャプチャーした膨大な画像を、聖書のように大切に扱いながら研究し、それを教えてくれる制作画像を探し当てようとするはずだ。実際に映画制作者たちは、飛行機のスクラップを大量に買い込んでいた。
スター・ウォーズの世界に工業デザイン的な雰囲気を与えている、さまざまな部品を組み合わせた「グリーブリー」(市販のプラモデルのパーツなどを使用して撮影用プロップのディテールを追加すること)は、「ケッセル・ラン」(惑星ケッセルへの航路)を12パーセク(39光年)で飛べる宇宙船を本物らしく見せるための鍵だ。
“宇宙最速”のガラクタの塊に数千ドル
ディートリックは、いくつかのグリーブリーについては5回以上つくり直していて、宇宙最速のガラクタの塊を仕上げるのに数千ドルをつぎ込んでいる。これはディートリックだけのものではない。実物大のファルコンというプロジェクトには、世界中のファンの情熱が注ぎ込まれている。参考にするために、ファルコンの内装と外観をデジタル3Dモデルでつくったり、オリジナルのグリーブリーを探し当てたり、飛行機に乗ってビルドパーティに駆け付けたりといった、たくさんのファンたちに支えられてきた。
最新情報は、このプロジェクトのFacebookページに投稿されている。同じ街に住む仲間のジェイク・ポラッティは、電子工学のスキルを生かして数百個のライトを取り付けた。アナログスイッチでオンオフできるこれらのライトは、フライトコンソールから光を放ち、レーダーユニットの裏で明滅する。
現在、コックピットはほぼ完成している。「ハン・ソロかチューバッカ、あるいはランドかレイを座らせれば、飛ばせるかもしれません」とディートリックは言う。だが、これはまだ始まったばかりだ。上の動画で、彼らが何を計画したのかをぜひ観てほしい。そしてもちろん、この言葉を贈ろう。フォースと共にあらんことを!
TEXT BY PATRICK FARRELL
TRANSLATION BY MIHO AMANO/GALILEO