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2018年6月12日
衣食足りても礼節を知らない
反緊縮運動とナショナリズム
「貧すれば鈍する」――これほどいまの政治状況を表した言葉はないようだ。たとえば、排外主義の台頭は、没落したミドルクラスやアンダークラスの「彼らなりの階級闘争」だと説明される。それにたいする唯一の処方箋は、欧州左派が掲げるリフレ派経済政策であり、それがまさにアベノミクスなのだとこれまたよく指摘される。日本では右派政権が左派的な経済政策を採用するねじれがある、とこの連載でも紹介してきた。が、『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』(北田暁大、ブレイディみかこ、松尾匡、亜紀書房、5月)を読んで、「財政出動+金融緩和」はナショナリズムと相性が良い経済政策だと考えをあらためた。
前回紹介したシュトレークの言い方を借りれば、トランプ大統領の誕生は、民主主義と資本主義(=自由主義)の「結婚」の破綻を示すものだ。しかもアメリカは、「民主化、人権、民族自決、集団安全保障、国際法、そして国際機構」をすすめる「ウィルソン主義」によって、国際秩序に「結婚」をもたらすヘゲモニー国家だった。しかし、いまやトランプは「ウィルソンの亡霊を追い払おうとしている」(中山俊宏「アメリカン・ナショナリズムの反撃」『アステイオン』88号)。もちろん、リベラルな国際秩序などまやかしにすぎない。
アメリカ大使館のエルサレム移転をうけた対談で、鵜飼哲はパレスチナが「もはや国際法以外に依拠するものがない」にもかかわらず、「国際法の執行主体である国連は、アメリカが拒否権を行使するので何もできない」ことを指摘している(鵜飼哲×臼杵陽「ナクバは何を問いかけるのか」『現代思想』5月)。クルドにいたっては、「シリアにおける独立勢力となったクルド人たちに対して、国連はまったく関与できて」おらず、「クルド人のほうにも、国連や国際法に訴える手段がない」という(臼杵)。国際秩序は人権を建前とするが、主権国家に属する国民であってはじめて、権利を保護すべき人民として認められるわけだ。
ここで興味深いのは、鵜飼が言及している近年のクルドに起こった変化だ。解放運動をすすめてきたクルド労働者党は「マルクス=レーニン主義」を教義にしてきたが、「ある種の共同体主義的な無政府主義の立場」へと方針を転換した。その後のシリア内戦でトルコ国境コバニーで自治区を確立、ISとの戦闘で目覚しい成果をあげたことで、エティエンヌ・バリバールやデヴィッド・グレーバーらが「われわれの時代のバロセロナだ」と賞賛したという。この解放運動は主権国家の樹立を求めず、評議会といった直接民主主義を取っており、「ロジャヴァ革命」とよばれているようだ。しかし、「国連の枠組みの外」であることを奇貨とするような賞賛は、鵜飼が言うように、留保をつけなければならない。国家なき人民としてパレスチナがたどった苦難をみれば明らかだ。
さて、欧州の反緊縮運動も、民主主義と自由主義の対立に直面している。ユーロ危機において、EUがギリシャの民主主義を無視し緊縮財政を押し付けたと批判された。しかし、反緊縮運動は、反EUを掲げて離脱し、自国の民主主義を守る、という単純なものであってはならない。ブレイディが前掲書で紹介するギリシャ元財務相バルファキスのように、EUを維持したままEUを批判しなければならない。あくまでも自由主義の普遍性は保持する必要があるのだ。しかし、反EUの国際連帯を目指す欧州左派にたいして、民衆の緊縮財政への不満が、英国のEU離脱やハンガリー右派政権の「オルバノミクス」、イタリアの「五つ星運動」といった一国的でナショナルなものに帰結した現状をどう考えるべきか。民衆の不満が民主主義で表明されたために、その裏面である国民性があらわれたのではないか。しかも、誰に与えるか、与えないか、という分断を生みがちな経済的再分配は、移民を排除し国民の同質性が高まるほど、実施しやすくなる。やはり民主主義と自由主義の「結婚」は困難なのだ。まして、EUのような国際連帯を可能にする枠組みを持たない日本の反緊縮運動は、ナショナリズムに回収されるほかないだろう。ならば、それは安倍政権とどう違うのか。レフトにとって最大の問題は、たとえ幻想にすぎなかったとしても、国を超えた連帯を可能にする普遍性が失われたことだ。
「貧すれば鈍する」にたいして「衣食足りて礼節を知る」ということわざがある。経済的余裕がうまれれば、ナショナリズムもマシになるというわけだ。しかし「国民皆兵」を「ユートピア」として掲げるフレデリック・ジェイムソンが教えるのは、一日三、四時間だけ働く理想の世界が実現したとしても、人間は「衣食足りても礼節を知らない」ということだ(『アメリカのユートピア』書肆心水、4月)。ジェイムソンはラカン派精神分析を援用して、「私の「享楽」を誰かが不当に盗み、楽しんでいる」という羨望が社会対立の原因だという。注意すべきは、この「享楽の盗み」は、富の再分配を求めるいっぽうで、盗んだ誰かを想定するために在日特権というレイシズムや日本属国論などの反米ナショナリズムに親和性があることだ。「レフト3.0」は「「ご飯を食べたい」という民衆の切実な希求」(松尾)をもとに運動を構築すべきとする。しかし、問題はその希求が「誰かが私のご飯を盗んでいる」という享楽に変換されることにある。とりわけアベノミクスで高い支持率を維持してきたとされる安倍政権において、最低の支持率を記録したのが、「安倍のお友達が私たちの享楽を盗んでいる」というべき森友加計問題であるなら、民衆の享楽こそ解決せねばならない。しかし、ジェイムソンいわく、明日のご飯が約束されても解決はされないのだ。
欧米左派の反緊縮運動にはアナキストらも合流しているようだ。つまり、緊縮財政に反対するリフレ派と、グレーバー『負債論』に依拠して「借金を踏み倒せ」と叫ぶアナキストは手を組めるということだろう。ところで、グレーバーに影響をあたえたクロポトキンによれば、人間をはじめすべての生物は相互扶助で成り立っている。しかし、本来実現されるべき相互扶助社会は市場や国家によって阻害されている。東日本大震災後に脚光を浴びたソルニット『災害ユートピア』は、災害で国家が機能不全におちいったとき、人々はパニックに陥ることなく、「クロポトキン的な相互扶助社会を一時的につくりあげる」と指摘していた。しかし、逆に言えば、災害を到来させれば、相互扶助社会を実現できることになる。いっけん穏当なクロポトキンのアナキズムが暴力や破壊と結びついた理由はここにある。先に見たクルド解放運動で国家なき相互扶助社会が実現した(かにみえた)のも、ISとの戦争があったからではないか。であれば、近年日本でも流行しつつあるアナキズムがとるべき戦略は安倍政権を支持し、金融緩和と財政出動を極限まで求めることで財政破綻に追い込み、デフォルトによって国家機能を停止させ、相互扶助社会を出現させることになるだろうか。
今年2月に死去した石牟礼道子の追悼特集が各誌で組まれている(「総特集石牟礼道子」『現代思想』5月増刊号ほか)。『苦海浄土』に代表される水俣病闘争も前近代の相互扶助社会を理想化することで、自由主義や民主主義の欺瞞を告発する運動だった。拙稿(「石牟礼道子と憐れみの天皇制」『子午線』vol.6)でも指摘したように、石牟礼は「享楽の盗み」が引き起こす分断や対立を「憐れみの情」をもって乗り越えようとした。しかし、天皇皇后の水俣訪問にかかわったことからわかるように、石牟礼が理想化した相互扶助的な社会は、東日本大震災以降に顕在化した、まさに「災害ユートピア」というべき「憐れみ」の天皇制に回収されたのだった。平成において天皇制は「享楽の盗み」を緩和する宗教であり、ジェイムソンが言うように「フェティッシュ」なのだ。しかし、それもナショナリズムのひとつだ。
安倍政権が「リベラル」な政権だったことはくりかえし指摘してきた。市場、経済、なにより資本を優先してきた政権だからだ。それへの対抗運動が対照的にナショナリズムに傾斜するのは当然だといえる。しかし、反米主義であれ、天皇主義であれ、ナショナリズムに依拠した運動が限定的な効果しかもたないことは、資本がその性質上最も国際連帯していることからも明らかだろう。(わたの・けいた=批評家)
前回紹介したシュトレークの言い方を借りれば、トランプ大統領の誕生は、民主主義と資本主義(=自由主義)の「結婚」の破綻を示すものだ。しかもアメリカは、「民主化、人権、民族自決、集団安全保障、国際法、そして国際機構」をすすめる「ウィルソン主義」によって、国際秩序に「結婚」をもたらすヘゲモニー国家だった。しかし、いまやトランプは「ウィルソンの亡霊を追い払おうとしている」(中山俊宏「アメリカン・ナショナリズムの反撃」『アステイオン』88号)。もちろん、リベラルな国際秩序などまやかしにすぎない。
アメリカ大使館のエルサレム移転をうけた対談で、鵜飼哲はパレスチナが「もはや国際法以外に依拠するものがない」にもかかわらず、「国際法の執行主体である国連は、アメリカが拒否権を行使するので何もできない」ことを指摘している(鵜飼哲×臼杵陽「ナクバは何を問いかけるのか」『現代思想』5月)。クルドにいたっては、「シリアにおける独立勢力となったクルド人たちに対して、国連はまったく関与できて」おらず、「クルド人のほうにも、国連や国際法に訴える手段がない」という(臼杵)。国際秩序は人権を建前とするが、主権国家に属する国民であってはじめて、権利を保護すべき人民として認められるわけだ。
ここで興味深いのは、鵜飼が言及している近年のクルドに起こった変化だ。解放運動をすすめてきたクルド労働者党は「マルクス=レーニン主義」を教義にしてきたが、「ある種の共同体主義的な無政府主義の立場」へと方針を転換した。その後のシリア内戦でトルコ国境コバニーで自治区を確立、ISとの戦闘で目覚しい成果をあげたことで、エティエンヌ・バリバールやデヴィッド・グレーバーらが「われわれの時代のバロセロナだ」と賞賛したという。この解放運動は主権国家の樹立を求めず、評議会といった直接民主主義を取っており、「ロジャヴァ革命」とよばれているようだ。しかし、「国連の枠組みの外」であることを奇貨とするような賞賛は、鵜飼が言うように、留保をつけなければならない。国家なき人民としてパレスチナがたどった苦難をみれば明らかだ。
さて、欧州の反緊縮運動も、民主主義と自由主義の対立に直面している。ユーロ危機において、EUがギリシャの民主主義を無視し緊縮財政を押し付けたと批判された。しかし、反緊縮運動は、反EUを掲げて離脱し、自国の民主主義を守る、という単純なものであってはならない。ブレイディが前掲書で紹介するギリシャ元財務相バルファキスのように、EUを維持したままEUを批判しなければならない。あくまでも自由主義の普遍性は保持する必要があるのだ。しかし、反EUの国際連帯を目指す欧州左派にたいして、民衆の緊縮財政への不満が、英国のEU離脱やハンガリー右派政権の「オルバノミクス」、イタリアの「五つ星運動」といった一国的でナショナルなものに帰結した現状をどう考えるべきか。民衆の不満が民主主義で表明されたために、その裏面である国民性があらわれたのではないか。しかも、誰に与えるか、与えないか、という分断を生みがちな経済的再分配は、移民を排除し国民の同質性が高まるほど、実施しやすくなる。やはり民主主義と自由主義の「結婚」は困難なのだ。まして、EUのような国際連帯を可能にする枠組みを持たない日本の反緊縮運動は、ナショナリズムに回収されるほかないだろう。ならば、それは安倍政権とどう違うのか。レフトにとって最大の問題は、たとえ幻想にすぎなかったとしても、国を超えた連帯を可能にする普遍性が失われたことだ。
「貧すれば鈍する」にたいして「衣食足りて礼節を知る」ということわざがある。経済的余裕がうまれれば、ナショナリズムもマシになるというわけだ。しかし「国民皆兵」を「ユートピア」として掲げるフレデリック・ジェイムソンが教えるのは、一日三、四時間だけ働く理想の世界が実現したとしても、人間は「衣食足りても礼節を知らない」ということだ(『アメリカのユートピア』書肆心水、4月)。ジェイムソンはラカン派精神分析を援用して、「私の「享楽」を誰かが不当に盗み、楽しんでいる」という羨望が社会対立の原因だという。注意すべきは、この「享楽の盗み」は、富の再分配を求めるいっぽうで、盗んだ誰かを想定するために在日特権というレイシズムや日本属国論などの反米ナショナリズムに親和性があることだ。「レフト3.0」は「「ご飯を食べたい」という民衆の切実な希求」(松尾)をもとに運動を構築すべきとする。しかし、問題はその希求が「誰かが私のご飯を盗んでいる」という享楽に変換されることにある。とりわけアベノミクスで高い支持率を維持してきたとされる安倍政権において、最低の支持率を記録したのが、「安倍のお友達が私たちの享楽を盗んでいる」というべき森友加計問題であるなら、民衆の享楽こそ解決せねばならない。しかし、ジェイムソンいわく、明日のご飯が約束されても解決はされないのだ。
欧米左派の反緊縮運動にはアナキストらも合流しているようだ。つまり、緊縮財政に反対するリフレ派と、グレーバー『負債論』に依拠して「借金を踏み倒せ」と叫ぶアナキストは手を組めるということだろう。ところで、グレーバーに影響をあたえたクロポトキンによれば、人間をはじめすべての生物は相互扶助で成り立っている。しかし、本来実現されるべき相互扶助社会は市場や国家によって阻害されている。東日本大震災後に脚光を浴びたソルニット『災害ユートピア』は、災害で国家が機能不全におちいったとき、人々はパニックに陥ることなく、「クロポトキン的な相互扶助社会を一時的につくりあげる」と指摘していた。しかし、逆に言えば、災害を到来させれば、相互扶助社会を実現できることになる。いっけん穏当なクロポトキンのアナキズムが暴力や破壊と結びついた理由はここにある。先に見たクルド解放運動で国家なき相互扶助社会が実現した(かにみえた)のも、ISとの戦争があったからではないか。であれば、近年日本でも流行しつつあるアナキズムがとるべき戦略は安倍政権を支持し、金融緩和と財政出動を極限まで求めることで財政破綻に追い込み、デフォルトによって国家機能を停止させ、相互扶助社会を出現させることになるだろうか。
今年2月に死去した石牟礼道子の追悼特集が各誌で組まれている(「総特集石牟礼道子」『現代思想』5月増刊号ほか)。『苦海浄土』に代表される水俣病闘争も前近代の相互扶助社会を理想化することで、自由主義や民主主義の欺瞞を告発する運動だった。拙稿(「石牟礼道子と憐れみの天皇制」『子午線』vol.6)でも指摘したように、石牟礼は「享楽の盗み」が引き起こす分断や対立を「憐れみの情」をもって乗り越えようとした。しかし、天皇皇后の水俣訪問にかかわったことからわかるように、石牟礼が理想化した相互扶助的な社会は、東日本大震災以降に顕在化した、まさに「災害ユートピア」というべき「憐れみ」の天皇制に回収されたのだった。平成において天皇制は「享楽の盗み」を緩和する宗教であり、ジェイムソンが言うように「フェティッシュ」なのだ。しかし、それもナショナリズムのひとつだ。
安倍政権が「リベラル」な政権だったことはくりかえし指摘してきた。市場、経済、なにより資本を優先してきた政権だからだ。それへの対抗運動が対照的にナショナリズムに傾斜するのは当然だといえる。しかし、反米主義であれ、天皇主義であれ、ナショナリズムに依拠した運動が限定的な効果しかもたないことは、資本がその性質上最も国際連帯していることからも明らかだろう。(わたの・けいた=批評家)
2018年6月8日 新聞掲載(第3242号)
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