関東軍による昭和6年(1931)の柳条湖の鉄道爆破事件が満州事変の発端であり、暗黒の昭和史がもはや後戻りできなくなった結節点である。
このシナリオを裏で書いたのは石原莞爾で、実行者は板垣征四郎だった。石原莞爾は熱烈な日蓮主義者である。石原は田中智学の国柱会に接近するなかでしだいに法華信仰をもった。
智学は明治34年に『宗門之維新』を書いて侵略的宗門というコンセプトを提示、一種の宗教的軍事主義と皇道ファシズムを説いていた。当時のカリスマである。
宮沢賢治も国柱会に入会し、友人の保阪嘉内にこんな辞を書いている。「日蓮主義者。この語をあなたは好むまい。私も曾ては勿体なくも烈しく嫌ひました。但しそれは本当の日蓮主義者を見なかった為です。東京鴬谷国柱会館及『日蓮聖人の教義』『妙宗式目講義録』等は必ずあなたを感泣させるに相違ありません」。
その田中智学の息子に里見岸雄がいた。里見の『日蓮主義の新研究』はジャーナリズムにももてはやされた。石原はその里見をベルリン時代に迎えて深い仲になっている。
翌昭和7年1月、上海事変がおこる。複雑な事件だが、上海に日本山妙法寺の末寺にあたる妙発寺があり、そこの僧侶たちが托鉢に出て共同租界からそれた馬玉山路あたりでタオル工場・三友実業公司の従業員に襲われたことが導火線となった。
三友実業が強力な抗日組織の拠点であったこと、この事件に激高した日本人青年同志会がタオル工場を襲ったこと、中国の官憲が出動して日本人を射殺したこと、海軍まで出動したことというふうに拡大していった。日本人青年同志会による襲撃を指導したのは重藤千春という大尉で、日蓮主義者だった。
このシナリオも最初は板垣征四郎が書き、上海の日本公使館武官補佐の田中隆吉が実行にあたって、例の川島芳子らが暗躍した。のちに、その田中を5・15事件の青年将校の一人山岸宏海軍中尉がアジトを襲って問責をした。山岸は日蓮主義者だった。
上海事変から1カ月後、血盟団事件がおこる。前大蔵大臣の井上準之助が襲われた。犯人は磯崎新吉と小沼正と分かったが背景は見えない。つづいて3月、団琢磨がピストルで撃たれた。犯人は菱沼五郎と名のった。
やがてこれらのテロの背後に「一人一殺」を宣誓する血盟団なる秘密組織があることが浮上した。首謀者は井上日召である。激烈な日蓮主義者だった。日召はこれらのテロによって破壊が建設を生むと確信し、これを「順逆不二の法門」とよんだ。団員たちは法華経を唱えてテロに向かった。
一方、このころ日夜に「法華経」二十八品を読誦していた北一輝は、そのたびにおとずれる霊夢を「神仏言集」に書きつけていた。松本健一はそれを"霊告日記"と名付けている。昭和4年から昭和11年の2月28日までつづく。2・26事件の2日後、憲兵が北を逮捕する日までである。
北は自宅の仏間で"霊告日記"を書いた。その帳面には「南無妙法蓮華経」の大書が、左右には明治大帝と西郷南州の肖像が掲げられていた。
その北のところへ橋本欣五郎が訪れて、満州の蜂起に対応して国内でクーデターをおこすべき計画をうちあける。北はこれには賛成せず、弟子にあたる西田税を推した。西田には彼が書いたともくされる『順逆不二之法門』というパンフレットがある。北にうちあけられたクーデターは桜会による三月事件、十月事件として知られている。
しかしこの未遂に終わったクーデター計画は形を変えて2・26事件になっていく。
このように昭和の血腥い決定的舞台からは、数々の日蓮主義者の動向が濃厚に見えてくる。
このことは昭和史を学ぶ者にはよく知られていることなのだが、登場人物が宗門とのかかわりを深くもつために、たとえば「日蓮主義と昭和ファシズム」とか「法華経と北一輝と石原莞爾」といった視点を貫こうとする論文や書物はほとんど綴られてこなかった。本書はそのタブーを破ったものである。
著者の寺内大吉が浄土宗の僧侶であって、かつ作家でもあることがこのタブーを破らせたのであろう。もっとも、本書も僅かにフィクショナルなキャラクターを二、三入れて"小説"の体裁をとっている。しかし調べがつくかぎりにおいて、ほぼ縦横無尽に日蓮主義者と軍事思想の関係動向を追いかけている。副題もズバリ「二・二六事件への道と日蓮主義者」と銘打たれた。
本書は昭和ファシズムがなぜ日蓮の思想と結びつくかという謎を解くために、田中智学、里見岸雄、井上日召、北一輝、石原莞爾といった"大物"以外にも多くの人物を登場させているのだが、なかにはぼくも詳細を知らなかった人物が何人か出てくる。
日蓮主義は右ばかりに流行したわけではなかった。左にも共鳴者をふやした。
その一人に妹尾義郎がいる。本多日生との関係がある。本書を読んでいちばん気になった。
妹尾義朗は広島で「桃太郎」などの銘酒をつくる酒屋の子に生まれた。そうとうに学業に秀でていたようだ。ただ体が悪く、一高に入るも胸の疾患で途中退学をし、故郷で回復をまって今度は上海の東亜同文書院を受験する。トップで合格した直後、また発熱してこれらの道をすべて断念している。
かくて一転、仏教者として生きようと決意して千カ寺の廻国修行に旅立った。途中、出会ったのが岡山賀陽町の日蓮宗妙本寺の釈日研で、ここで日蓮の一種のボランティア精神ともいうべき活動の魂を受け継いだ。
そこへ田中智学の「国柱新聞」の話題が入って、にわかに国柱会への熱を募らせていく。ついにじっとしていられず、大阪の中平清次郎の紹介で智学を訪れるのだが、あしらわれる。この時期、国柱会の門を叩いた青年はそうとうに多かったが、「一人一殺」の秘密を要求するためか、門前払いも少なくなかったらしい。
宮沢賢治もその一人、妹尾義郎もその一人である。
やむなく妹尾は統一閣の本多日生のもとを訪れ、ここで日蓮主義青年団をおこして、機関紙「若人」を編集しはじめた。大正8年のことである。
大正も末期に近づくと、日本の状況はそうとうに混乱する。そこで大胆な改革や革命を叫ぶ者も多く、一方で満川亀太郎、北一輝、大川周明らの猶存会や行地社、上杉慎吉の国権社などが右寄りの名乗りをあげ、他方で堺利彦や大杉栄の無政府主義、安倍磯雄の民衆党や麻生久の日本農民党が勃興しつつあった。
しかし、多くの宗教者は左と右の政治蜂起に挟撃されるような立場にあったのである。
改革の意志をもった妹尾もどちらに進むかに迷う。結局、昭和2年に岡山で立正革新党を旗揚げして、まず政治の宗教化を謳い、ついで新興仏教青年同盟いわゆる「新興仏青」をおこした。ここから先、妹尾の宗教思想はしだいに左傾化をするのだが、そのような妹尾が気にいらない日蓮主義者たちがいた。
それが現代における不受不施派を標榜する「死なう団」である。西園寺公望、山室軍平、田中智学、そして妹尾義郎が抹殺リストにあがっていた。
妹尾義郎と「死なう団」。この関係は、まさに昭和史の裏側をつなぐ奇怪な糸である。
「死なう団」は日蓮会殉教青年党が正式名称で、江川桜堂が創始した。本多日生の影響下にあった。妹尾が暗殺リストに入っているのは、妹尾が日生のもとにいながらここから離れて日生批判の言動をふりまいているという理由からである。
本書はその奇怪な糸をぞんぶんに手繰り寄せ、昭和の仏教というものの今日では考えもおよばない壮絶な苦悩を描きだしている。ここではこれ以上の紹介は遠慮しておくが、おそらく、そこを描けたことが本書の価値であろう。
ちなみに妹尾には全7巻におよぶ日記があって、家永三郎がこんなことを書いている。
日本の歴史上、前後に比類のない恐怖・暗黒の時期である昭和十年代を誠実に生き抜いた一知識人の、その時点に書きとめられたなまなましい記録の筆を通して、想像を絶する当時の内的・外的状況の諸様相を私たちに垣間見せる貴重な史料でもあるのであって、ひとり妹尾個人の精神生活の軌跡をたどるに役立つにとどまらない、高い価値をもつ文献。
それにしても日蓮をめぐる社会思想というもの、これはただならないものがある。
おそらくはこれからも、現代の北一輝、平成の石原莞爾、21世紀の妹尾義郎の輩出を妨げることは、まったく不可能であるとおもわれる。